ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『書紀』の天武・持統紀における「記事移動」に関して:「田中朝臣法麻呂」に関する事:

冠位の矛盾について


 『書紀』『続日本紀』に共通して現れる人物に「田中朝臣法麻呂」がいます。彼は「伊予」に関係していた人物のようであり、「国司」や「惣領」と記された記事があります。
 
「(持統)元年(六八七年)春正月丙寅朔甲申条」「使『直廣肆』田中朝臣法麻呂。與追大貳守君苅田等。使於新羅赴天皇喪。」

「(持統)三年(六八九年)春正月甲寅朔辛丑条」「詔『伊豫惣領』田中朝臣法麿等曰。讃吉國御城郡所獲白燕。宜放養焉。」

「(持統)五年(六九一年)秋七月庚午朔壬申条是日条」「『伊豫國司』田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀三斤八両。■一篭。」

「(文武)三年(六九九年)冬十月辛丑条」「遣淨廣肆衣縫王。直大壹當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。『直大肆』田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。」

 これで見ると「田中法麻呂」は「六八九年」に「惣領」として「讃岐国」で捕獲された「白燕」を献上して、その「二年後」に今度は「国司」として「宇和郡」から「白銀」を献上しています。
 「白燕」を献上したりすると通常は何らかの褒賞が与えられるものであり、位階の増進などがあっても不思議ではないにも関わらず、その二年後に「国司」であるとすると、逆に「格」が下がっていると考えられ、不審の源となっています。

 通常「国司」は「令制国」一国について統治・統括するものではあっても、「複数」の令制国を見る(統治する)という権能は有していなかったと見られます。それに対し「惣領」(総領)は「隋」の「総管」を模した職掌と推察され、「複数の令制国」を包括する領域を統括していたものと見られます。
 「惣領記事」では「讃岐国」で捕獲された「白燕」について「詔」が出され、「宜放養焉」つまり「放し飼い」にするようにとされており、それについての管理者として「名前」が出されている訳です。これは「惣領」という職掌が、一国を預かるのではなく「複数の令制国」をその管理下に置いていた考えられる事と整合するものです。
 たとえば『常陸国風土記』の「高向大夫」と「中臣大夫」の場合は「我姫」全体(八国)を統括していたと見られますが、この「田中朝臣法麻呂」の場合も「讃吉國」(讃岐)を含む「四国全体」を統括していたと見られます。このことから、「国司」と「惣領」は異なる職掌、異なる権能であったと思料され、明らかに「総領」は「国司」の上位職として存在していたように考えられます。
 
 また『常陸国風土記』では「高向大夫」「中臣大夫」と称されているように「惣領」は「大夫」と称されているわけであり、これは「五位以上」を指すものと考えられますが、『続日本紀』の「惣領」任命記事(以下のもの)では「直廣参」のレベルの官位を持つものが任命されています。これは後の官位制では確かに「正五位下」に相当しています。

「(文武)四年(七〇〇年)冬十月同月己未条」「以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。」

 この「惣領記事」の中の「周防」について考えてみると、ここでは「直廣參」の冠位を持った人間が「総領」とされています。「周防」は延喜式では「上国」に相当するとされますが「伊予」も同格の「上国」とされています。しかし、「田中法麻呂」の官位の変遷をみても「惣領」任命後とされる時期の記事において「直大肆」となっており、これでは格が下となってしまいます。
 この「直大肆」という官位は「惣領」ではなく「国司」(国守)としては平均的であり、それは『養老令』の「官位条」を見ても「上国守」には「従五位下」の官位が相当とされている事と整合します。(「従五位下」は「直広肆」に相当しますがその一階上の「直大肆」としても『書紀』の記事とは矛盾しないと思われます。)
 つまり「田中朝臣法麻呂」の場合、これを「兼任」などと考えることは出来ず、この「国司」と「惣領」の違いには何らかの原因があるということとなります。

 また、先の「山陵記事」では「越智山陵」(斉明天皇陵)と「山科山陵」(天智天皇陵)と二グループに別れて「修造」するとされており、「田中朝臣法麻呂」の位置に対応するもう一つのグループの人物(小治田朝臣當麻)の官位は「直廣肆」でしたから彼もまた実際には「直廣肆」であったという推測もできると思われます。そうであれば矛盾はさらに拡大するでしょう。
 そもそもこの「山陵記事」はそれまで「天智」と「斉明」の墓陵が造られていなかったことを示しています。それは「山陵」を「修造」したという記事の前段の「文武」の「詔」では明らかに「営造」と書かれていることで明確です。

『文武紀』「冬十月甲午。詔赦天下有罪者。但十惡強竊二盜不在赦限。爲欲『營造』越智。山科二山陵也。」

 「営造」は「修造」と違いそれまでなかったことを示しますから、この時点でまだ「天智」・「斉明」の「両者」の墓陵ができていなかったこととなりますが、彼らの死後既に四十年以上経過してなお「墓陵」が造られていなかったとは考えられません。それを示すように『万葉集』に残された「額田(女)王」の歌から、彼女の在世中に既に「天智」の山科陵が造られていたことが示唆されています。

(一五五番歌)「従山科御陵退散之時額田王作歌一首」「八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳<呼> 泣乍在而哉 百礒城乃 大宮人者 去別南」
(訓読)「やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ」

 これに関して「壬申の乱」の発生や「百済」をめぐる戦いなどがあったため、造営が未完成であったというようなことが言われていますが、「壬申の乱」後この「文武の詔」まで三十年ほど経過していますから、その間造営に着手する機会もいくらもあったはずであり、「天武」「持統」の両天皇時代には全く手もつけられていなかったとは考えられないといえるでしょう。そう考えると、この記事自体が相当の年数遡上することは明白と思われます。

 これらのことは、各記事に個別に誤りがあると考えるよりは「システム的」な混乱が起きていると考えるべき事となるでしょう。つまり、後に出てくる「直大肆」記事が間違っているという解釈も可能でしょうが、そのような「編集時点」でミスが発生したということを想定することは逆に「恣意的」であると思われ、それはミスではなく意図的な編集の結果であると考える方が正しいと思われるわけです。

 正木氏の研究により『天武紀』『持統紀』についてはいくつか「三十四年」の記事移動が指摘されていますが、この「田中法麻呂」の「矛盾」を解消するためには「無効」です。それはこの場合同じ『持統紀』の中の「矛盾」であるからです。つまり「矛盾」のある時系列もそのまま移動してしまい、「矛盾」はそのまま解消されないで残ってしまうこととなってしまいます。このことは「田中朝臣法麻呂」に関する記事の「時系列」に不審があったとしても、「惣領」が記載されている「六八九年」記事で想定される「記事移動」の年数と「国司」が出てくる「六九一年」で適用される「記事移動」の年数には「差」があるという可能性を考える必要があることとなります。
 つまりこの「国司」と「惣領」の「矛盾」を解消するためには、記事を「並べ替える」必要があることとなりますが、その場合少なくとも「惣領記事」の前年以前に「国司記事」は移動する必要がありますから、「六八九年記事」と「六九一年」記事は「三年」以上の年次差で入れ替えられていると考えられることとなるでしょう。
 では本来の年次は何時であったのでしょうか。


(この項の作成日 2013/01/15、最終更新 2015/08/14)