ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「阿毎多利思北孤」とはだれか:阿毎多利思北孤の業績:第一次「改新の詔」について:戸籍制度の変更と均田制:

戸籍制度の変更と均田制(2)


 前述したように当時すでに「屯田制」が行われていたものと考えられ、「高向朝臣」「中臣旗織部」など彼等は「我姫」など「未開拓」の地に派遣され、「統治領域」の拡大に伴う現地の「反発」と「抵抗」などを制圧しながら、自給自足の生活を送っていたものと思料されます。
 それに関し、中国では「屯田兵」は一般の良民とは異なる「兵戸」という戸籍に編成されており、彼等は代々「兵士」であることを要求されていました。しかし「北魏」以降は「軍制」を充実させる意味で「一般」の「良民」から「兵士」を徴発する事に変更したものであり(その方が多数の軍事力を確保できるため)、「倭国」において「隋式」の「戸籍」が導入されたと言うことは、「倭国」でも「兵戸」が廃止され、「良民」から徴発する事となったことを示すと思われます。(但し「常備軍」ではない) 
 この「隋代」時点で「戸籍」が「造られた」と見るのは、「法隆寺」の創建の所でも述べたように、「斑鳩寺」において「奴婢」同士の「争論」が起き、それを収拾させた事が書かれており、それは「奴婢」を含む「戸籍」の作成が行なわれたことを示すものであったことが推定されています。そのために「奴婢」の「身分確認」という作業が行なわれたものと思料されるわけです。それについても「改新の詔」にそれに該当すると思われる記事があります。

『書紀』「大化元年(六四五年)八月丙申朔癸卯条」「遣使於大寺喚聚僧尼而詔曰。於磯城嶋宮御宇天皇十三年中。百濟明王奉傅佛法於我大倭。是時。羣臣倶不欲傳。而蘇我稻目宿禰獨信其法。天皇乃詔稻目宿禰使奉其法。於譯語田宮御宇天皇之世。蘇我馬子宿禰追遵考父之風。猶重能仁世之教。而餘臣不信。此典幾亡。天皇詔馬子宿禰而使奉其法。於小墾田宮御宇之世。馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像。丈六銅像。顯揚佛教恭敬僧尼。朕更復思崇正教光啓大猷。故以沙門狛大法師福亮。惠雲。常安。靈雲。惠至。寺主僧旻。道登。惠隣。而爲十師。別以惠妙法師爲百濟寺々主。此十師等宜能教導衆僧。修行釋教要使如法。凡自天皇至于伴造所造之寺。不能營者。朕皆助作。令拜寺司等興寺主。巡行諸寺。驗僧尼。奴婢。田畝之實。而盡顯奏。即以來目臣。闕名。三輪色夫君。額田部連甥爲法頭。」

 ここで書かれているように「寺司」などを任命し、「寺」に仕える「僧尼」や「奴婢」について把握・確認する作業が行なわれたようですが、まさにその内容に該当するのが上に見た「争論」の収拾の内容であると思われます。
 この「詔」に基づき「造籍」が行なわれ、その一環として「僧尼」「奴婢」について「数」「年齢」「特徴」などの調査が行なわれたと見られます。その内容は後の「聖武天皇」への「太政官」の奏でも判るように「顔形」「『ほくろ』などの身体的特徴」などを記したものであったものです。

 ところで、一見これに関連がある、ないしは該当する記事として考えられているのが、以下の記事です。

「(推古)卅二年(六二四年)戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正。僧都。仍應検校僧尼。
壬戌。以觀勒僧爲僧正。以鞍部徳積爲僧都。即日以阿曇連闕名。爲法頭。
秋九月甲戌朔丙子。校寺及僧尼。具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁。及度之年月日也。當是時。有寺册六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。并一千三百八十五人。」

 この記事によれば「僧正」などが任命されると共に「僧尼」の員数や特徴など「名籍」が作成されたと考えられます。この記事が『推古紀』にあり、そのことから上に見た「斑鳩寺」における争論の収拾と関連していると考えられていたものです。しかし、この記事は既に見たように百済僧「観勒」の上表と一体の記事と考えられ、「観勒」の上表が「干支二巡」(一二〇年)移動して書かれていると推測したことから考えて、実際には「六世紀初頭」のことであったと推測されます。 それを示すようにこの記事は「僧尼」に関する「名籍」に関するものだけであり、「僧尼」と「寺院」に限った記録であって、「員数」の欄にも書かれていないように「奴婢」がその範囲に入っていません。「争論」の対象でもあった「奴婢」について「記録」などが作成されたとは見なせない資料であり、「改新の詔」に書かれた「造籍」の一環としての「僧尼」の記録とは「実」が異なると考えられるものです。

 ところで、ここで作成された戸籍については、「中国」では「北魏」から「隋」まで、「均田法」(全ての「人民」に「田」を割り当てる制度)、「三長制」(一種の隣組制度)と併せて施行されていたものが原点と思われます。つまり「倭国内」にこの「戸籍」が導入された時点で、倭国内でも「均田法」が行われた可能性を示唆するものです。
 それを示すように「大宝二年」戸籍(正倉院に残る戸籍)を解析すると「何年か」に一度ずつ女子人口のピークが確認できます。そして、その中で一番古いものが「七十三歳」(六三〇年生まれ)の女子人口であり、(その前後に比べ)多いことが確認されています。
 このことは「均田法」施行により女子にも「田」が与えられたことを示していると考えられ、それ以降は「十年ごと」にピークが来ますが、それ以前は確認されていません。(それほど長寿の方がいないためでしょう)しかし、推定すると「六一八年」の「倭京」改元時に「造籍」が行われ、それに基づき「班田」が支給されたと考えられ、測量などを行った後に班田支給が行われた結果、「六二〇年」がその第一回目であったものと見られます。
 それ以降「十年一造」で「戸籍」が改定され、その時点で「十歳」以上の男女に「班田」を支給していたのではないかと考えられますが、さらに、「大宝二年戸籍」の戸籍の様式を分析すると、「西海道諸国」(筑前、豊前、豊後)の戸籍には、「用紙」「書式」などについても共通しているようであり、「様式の統一が感じられる」という指摘もあります。(※)
 つまり、「西海道諸国」についてはこの「庚寅年籍」による「六年に一度」の「改籍」と見られる「大宝二年戸籍」の以前の段階においても、戸籍が作成されていた形跡があるということを示しているようです。

 これら「均田法」的制度の創立に関連していると考えられるのが「土地」の「地割」単位法の変遷です。
 「隋」では「均田制」を行なうのに必要な「地割制」として「前代」以前より「頃畝制」を施行していました。この「頃畝制」は「秦・漢代」以前より中国で施行されていた地割制であり、これが早い段階で「倭国」に導入されたものと見られます。
 ちなみに『書紀』で「頃」という用語が「土地」の単位として現れる最初のものは「仁徳紀」です。

「仁徳十四年(丙戌三二六)是歳 作大道置於京中。自南門直指之至丹比邑。又掘大溝於感玖。乃引石河水而潤上鈴鹿。下鈴鹿。上豐浦。下豐浦。四處郊原。以墾之得四萬餘頃之田。故其處百姓寛饒之無凶年之患。」

 また「畝」はほとんどが「畝傍」という地名として現れ、「土地の広さ」の単位として出てくるのは『孝徳紀』が初出です。それは「東国国司の詔」と「寺司」に対する詔の中で出てくるものであり、「改新の詔」の前のこととなっています。つまり、「改新の詔」はそのような「畝頃制」を「町段歩制」に変更すると言っているわけですから、それ以前に「畝頃制」が使用されていたことが強く示唆されます。
 実際に「頃畝制」から切替えられたとされる「町段歩制」は「倭国」独自の制度であり、それが切り替わったのは「朱鳥」改元と「日本(ひのもと)国」成立が行われた時期ではなかったかと推察されます。この段階では「唐」や「半島諸国」からの文化をそのまま受け入れるのではなく、「倭国」独自の方法や様式或いは制度というものを始めたものであり、それは「朱鳥」という年号や「日本」という国号を「訓読み」するというところに現れています。
 しかしそれ以前の「六世紀末」という時点で「遣隋使」を派遣し「隋」から各種制度を取り入れた「阿毎多利思北孤」の改革が行われたものですが、国内にはそれらの改革に従わない(つまり、以前の形式の制度をそのまま使用継続した)地域・勢力が存在していたものです。
 たとえば「下総国」「筑前国」などの地域では「北魏型両魏式」の戸籍への変更が受け入れられたのに対して、「御野国」などではそれが受け入れられず変更されなかったと考えられます。この事は「地割制」の変遷からも言えます。
 「筑紫」「豊」「日」の北部九州各国は共通の「地割制」であったものであり、それは「以前」の制度を保存していると考えられるのに対して、「美濃国」(御野国ないしは三野国)については明らかに『大宝令』以降の制度が適用されており、「九州倭国王」の権威からの脱却が急速に行なわれたものと見られます。
 この様に「西海道」以外の地域で「制度変更」等に従わない地域があったと言うことの理由については、その支配力の貫徹には限界があったものであり、それは「東海道」と「東山道」の官道整備の時間差に起因すると考えられるものです。

 当初「東国」への進出などは「東海道」を通じて行なわれていたものであり、「東山道」からの影響力行使はかなり遅れた模様です。それは「那須直偉提」の石碑の文章から考えても、「那須」地域などに対する「国評制」の施行適用がなかった(遅れた)と考えられることなどにも現れています。
 これらの地域は「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の「宗教改革」に抵抗した或いはその改革が及ばなかった地域と言えるのではないでしょうか。 
 このように「倭国中央」の意志に従わず、それでいて「権力」がある程度強い勢力が「三野国」などに存在していたことについては、「六世紀」前半の「磐井の乱」により倭国と倭国王の権威が低下したこともその一因と考えられそうです。
 「物部」滅亡後「筑紫」を奪還するわけですが、失われた「六十年」の影響は大きく、権威が列島内に透徹しないこととなったのではないかと推察されます。これを端的に言うと「倭国」の直轄地的支配の範囲は「筑紫」周辺に限定されていたものであり、「近畿」などは「諸国」として存在していたものであり、「王権」の支配力の一端にはいたものの、それほど強制的権力が及んではいなかったと見られることとなります。
 この支配範囲については「瓦」や寺院建築などの技法が伝わった範囲と重なるものと思われ、「法隆寺式瓦」(複弁蓮華紋瓦)の分布範囲が「近畿周辺」になく、「九州から播磨まで」という局地的な範囲に限定されることとつながっていると言えるでしょう。


(※)竹内理三「正倉院戸籍調査概報」(『史学雑誌』六十九−二)


(この項の作成日 2011/01/27、最終更新 2015/02/02)