ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「阿毎多利思北孤」とはだれか:阿毎多利思北孤の業績:第一次「改新の詔」について:戸籍制度の変更と均田制:

戸籍制度の変更と均田制(1)


 古代の「戸籍」については諸氏の研究により、「倭の五王」の時代に南朝から「制度」「書式」などを取り入れ、それが広く国内で使用されていたことが明らかになっています。
 当時南朝で行われていたとされる様式である「西晋型西涼式」と呼ばれる様式が「倭国」において、以前から採用されていたのです。
 「西涼」という国は「五胡十六国」の中の国ですが、制度等は「西晋」のものを継受しており、これと同形式のものが「南朝」(東晋)でも使用されていたと考えられます。(ただし南朝の戸籍そのものは未確認です)
 この「戸籍法」(制度)の受け入れは年代から考えて「倭の五王」の「讃」のころの事と考えられるでしょう。
 その後、国内には「北魏型両魏式」と呼ばれる様式が流入します。この戸籍は「隋」で行われていたもので、「北魏」に始まり「東西両魏」でも行われ続けていたためそう呼ばれます。
 この戸籍制度はその施行年代から考えて「遣隋使」によりもたらされたものと考えられ、「筑紫」にキを築いた「七世紀初め」(「六一八年」の「倭京」改元時点か)に「利歌彌多仏利」が主導して行なった改革の一部であったと思われます。(正倉院文書では「両魏式」の戸籍は筑紫周辺諸国が使用しており、上の推定を裏付けています)

 この当時すでに「戸籍」が整えられていたこと歩示すのが『公卿補任』に載せられた各氏の履歴です。そこには「生年」が記載されているものがあり、そのうち「早期」のもの(『書紀』のカバー範囲内のもの)をピックアップしたものが以下のものです。

@和銅六年条 散位 従三位 石上朝臣宮麿 右大弁。正月七日叙従三位。十二月五日卒。/近江朝大臣大紫連子之第五子也。『斉明天皇元年乙卯生。』

A養老五年条 中納言 従三位 藤原朝臣武智麿 元非三木。正月十一日任。不歴三木。/贈太政大臣不比等一男。母右大臣大紫冠蘇我武羅自古之女温子。『天武天皇九年庚辰生。』和銅四年四月壬午叙従五上。同六年正月叙従四下。養老二年九月日任式部卿。三年正月日正四下。五年正月七日壬子叙従三位。同十一日任中納言(不歴三木。年四十二)。三月給帯刀資人四人。

B天平三年条 参議 正四位下 葛城王 同日〈八月〉任。橘氏元祖。年四十八歟。兼左大弁。/『天武元年甲申生。』訳語田天皇(敏達也)皇子難波親王之四世孫。贈従二位栗隈王之孫。治部卿摂津大夫従四位下美努王之子也。母従四位下縣犬養宿祢東人之女。贈正一位三千代大夫人。

C天平九年叙 非参議・散位 従三位 百済王南典 九月十三日叙従三位。年七十二。/『天智天皇五年丙寅生。』

E天平十一年条 参議 従四位下 巨勢朝臣奈弖麿 四月十九日任。年七十。兼民部卿。春宮大夫。/小徳大海之孫。近江朝大納言太紫比登之子。『天智天皇四年丙寅生。』天平元年三月外従五位下。三年正月丙子従五下。八年正月辛丑超叙正五下。九年八月己亥従四下。天平十年正月日任民部卿。兼春宮大夫。十一年四月十九日任三木。

F天平十六年条 非参議 従三位 竹野王  二月日叙。『天智天皇十年辛未生。』或本云。去年五月五日叙歟。

G天平十九年条 非参議 従三位 智努王 五十五 正月七日叙。元従四下。大舎人頭。/一品長親王子。天武天皇御孫。 『持統天皇七年癸巳生。』養老元年正月従四位下。二年九月丁未為大舎人頭。

H天平二十年条 参議 従四位下 石川朝臣年足 六十一 三月廿二日任。『持統天皇戊子生。』/後岡本朝左大臣蘇我連曾孫也。平城朝三木従三位左大弁石足之長子。 伝云。率性廉勤。習於治礼。起家。任少判事。頻任内外任云々。天平七年四月従五下。任出雲守。視事数年。百姓安之。聖武天皇旁善之。賜 廿疋。布六十端。当国稲三万束云々。或本曰。天平七年四月戊申日叙従五下。任出雲守。元少判事。十二年正月従五上。十五年正月正五下。十六年九月為東海道巡察使。十八年四月為陸奥守。叙正五上。九月春宮権亮。十一月左大弁。十九年正月従四位下。同二月春宮大夫。廿年三月廿二日任三木。今日叙従四位下。

I天平勝宝元年条 非参議 従三位 百済王敬福  四月一日叙従三位。自従五位叙三位始。/南典弟也。『天武天皇十年辛巳生。』元陸奥守。献黄金九百両。依之自従五位上押而所叙也。伝曰。其先百済国義慈王。高市岡本宮御宇遣其子豊璋王禅廣王入侍。

K天平宝字元年条 致仕左大臣 正一位 橘朝臣諸兄 七十四 正月六日薨。『生年甲申。(六八四か)』在官十九年。号井手左大臣。或西院大臣。造栄山寺。 ○三木七年。大納言二年。右大臣六年。左大臣十四年。前官二年。

M天平宝字元年条 非参議 従三位 山背王 七月叙。八月賜藤原姓。『持統天皇元年丁亥生。』

N天平宝字元年条 非参議 従三位 文室真人浄三 六月叙。此人。若僻事歟。『持統天皇七年癸巳生。』

O天平宝字八年条 参議 従三位 山村王 四十三 九月十一日任。叙従三位。九日任左兵衛督。元正五位下少納言。/『橘豊日天皇之皇子久米王子。』母ーー。天平十八年従五位下。天平宝字二年四月従五位上山村王任紀伊守。七年九月日従五位上山村王授正五位下。八年正月為少納言。九月十一日任三木。叙従三位(元正五位下)。八月乙巳押勝逆謀頗泄。高野天皇遣少納言山村王収中宮院鈴印。押勝囲之。遣兵邀而奪之。山村王密告消息。遂果君命。天皇嘉之。〔頭書云〕続日本紀曰。久米王後也云々。子云者不審。自用明崩年至今年百七十八年。久米王薨推古天皇十一年。自其年至此事百六十二年。按山村王養老六年生。久米王薨後百二十年。

Q天平宝字八年条 参議 従三位 吉備朝臣真吉備 七十 『持統天皇八年甲午生。』九月十一日任。即叙従三位兼中衛大将。生年七十。勲二等即任参議。 真吉備朝臣者元下道臣也。其先大倭根子彦太瓊天皇之皇子吉備彦命之後也。誉田天皇廿二年九月狩于淡路。転幸吉備。於是。兄御友別率其兄弟子孫。而奉饗至謹。天皇割川嶋縣封長子稲速別。是下道臣之祖也。真備朝臣者。御友別之九世孫也。又右衛士少尉下道朝臣国勝子也。霊亀二年従使入唐。留学受業。我朝学生播名唐国者。唯大臣及朝衡二人而已。豊桜彦天皇十二年。天平七年三月随入唐使。自唐国至。四月入唐留学生従五位下下道朝臣真備。献唐礼一百卅巻。大衍暦経一巻。大衍暦立成十二巻。測影鉄尺一枚。銅律管一部。鉄如方響。写律管声十二條。楽書要録十巻。及三種角弓箭等。授正六位下。拝大学助。八年正月授外従五位下(年四十三)。十二年月丙寅加従五位上。高野天皇師之。受礼記漢書。賜姓吉備朝臣。式部少輔従五位下藤原朝臣廣嗣。與玄 法師有隙。出為大宰少弐。到任即起兵反。以討玄 及真備。〔頭書云〕(至従四位上右京大夫。十一年大宰少弐。四十六)。天平勝宝二年左降筑前守。俄遷肥前守。四年為入唐副使。五年自唐廻着益久島。従此漂蕩。六年正月着紀伊国牟漏崎。六月授正四位下。拝大宰大弐。七年遷造東大寺長官。宝字八年九月十一日仲満謀反。大臣計其必定走。分兵遮之。甚有籌略。賊遂陥謀。以功授従三位勲二等。為三木中衛大将。後加正三位。天平神護二年正月八日任中納言。〔頭書云〕天平宝字八年真備朝臣生年数満七十。其年進致仕表。入京以病帰家。急有兵乱召入内。参謀軍務。畢授功。

 これらによれば、@の「和銅六年条」の「石上朝臣宮麿」の生年について「斉明天皇元年乙卯生。」(六五五年)とするものが一番早期のもの(古いもの)であるようです。
 このことはこの時点で確実に「戸籍」があったことを想定させるものであり、「難波朝」による「造籍」が現実としてあったことを示すものと言えます。この「和銅六年条」以前の『公卿補任』の記事については、そこに登場する人物について、その生年(干支)が書かれておらず、「戸籍」が不備であったか、「暦」が異なっていて日付換算ができなかったかという可能性を考えさせるものです。但し、「死去」した時点における「年齢」が書かれたものはいくつかあり、それは「生年」が判明しているためと言うより、本人と家族などの証言から「年齢」を推測したものと考えられます。

 「船首王」の墓誌などを見ても「生年」は記載されていません。ただし、「死去」した年次は記載されており、それによれば「舒明天皇」と考えられている「阿須賀治天下天皇」の「末年」である「辛丑年」(六四一年)の十二月三日に亡くなったとされていますから、これはその時点で「暦」が存在し、それに基づいて記録されたものと考えられるものです。また、このことは「この段階で」の「戸籍」の存在を想定させるものでもあります。

 これらはいずれも「隋」からの「文化・制度」吸収の一環として「班田制」が施行され、そのため「戸籍」の重要性が高まったことを示していると思われます。


(この項の作成日 2011/01/27、最終更新 2015/08/29)