『続日本紀』の中に、各地の風物伝承などを記録して献上するように指示を出した、という記載があり(和銅六年「七一三年」)、これにより献上された文献が『風土記』であるということになっています。(「風土記選進の詔」)
このように『風土記』は「選進の詔」によりまとめられたものが、各国から提出されたわけですが、現在ほとんどのものは散逸し、まとまった形で残っているのは『常陸国風土記』『出雲国風土記』『播磨国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』ぐらいです。残りは「逸文」(他の文書・記録に引用された形で残っている)でしかありません。
このわずかに残っている『風土記』資料をよく観察してみると、二種類の『風土記』がある事が分かります。それは「県風土記」と「郡風土記」です。
この二種類で大きく異なっている点はその資料中に出てくる「行政単位」です。「県風土記」の代表である『筑紫風土記』や『筑後風土記』では行政単位に「県(あがた)」を使用していおり、他の風土記が「郡(こおり)」を使用しているのと異なっています。しかし『日本書紀』・『続日本紀』の中では、(神代をのぞき)行政制度としては「郡」をのみ使用しているのですから、『筑紫風土記』などの表記法は日本古代の「常識」と大きく異なっているのです。
そもそもこの「撰進の詔」が出された段階で使用されていた国内の行政制度は「国-郡-里制」なのですから、これらの『風土記』ではそれを使用するのが当然であるはずなのに、そうではない地域があるのが不思議なところです。しかし、これの意味するところは単に表記法だけにとどまるものではありません。なぜなら「郡」とか「県」とかいうものは行政の根幹を成すものであり、表記法が一定しないなどということは、たとえそれが古代であろうと、仮定することすら難しいものだからです。
つまり、表記が違う、という場合最も考えやすいことは「行政の制度」そのものが違う、ということです。そして、制度が違う、という場合一番考えられるのは、行政の主体が違う、ということです。つまり、近畿王朝(大和朝廷)とは違う別の行政主体の存在について考慮する必要があるということになります。
ところで、『書紀』の「神代巻」というのは、ほぼ舞台が「九州」に限られており、そこでは「県」のオンパレードという状態です。それに対し「人代巻」へ移ると(つまり舞台が「九州」から「近畿」へ移ると)「県」は劇的に減少します。つまり「県」という行政制度は「九州」という地域に特別な結びつきがあるものと考えなければならないこととなります。このことから、「近畿王朝とは別の行政主体が九州にあった」、という結論が出ることとなります。
またそれが「神代」という「時間帯」に関連しているとされているわけであり、このことはかなり早い段階で「県風土記」が成立していたことを示すものと思われます。
また『風土記』の文章その他の内容も、たとえば『筑紫風土記』がほぼ純粋に漢文で書かれているのに対して、他の風土記は日本語と漢文の中間のような一種あいまいな表記がされており(倭臭漢文という)、背後の素養(漢文の教養)に差が認められるのです。
『筑紫風土記』は「六朝風四六駢儷体」という中国南朝に流行した修辞法を用いており、「華麗」とも言える文章になっています。これはこの文章を書いた人物が南朝文化の教養に深いものがある事を示しています。また、このことは「県風土記」の「編纂時期が「六朝」時代にかなり接近していることをも示唆しているようです。
つまり『筑紫風土記』は他の風土記とは違いすぎているのです。このことはこの『風土記』が近畿政権からの「風土記選進の詔」によりまとめられたものではなくそれとは別に(他の権力者により)それに先立ってまとめられていたもの推定でる事を示すものです。
『書紀』にもかなり多量の「倭臭漢文」が書かれていますが、これらは皆「日本人」の手により「八世紀」に入ってから書かれたと考えられています。つまり「風土記撰進の詔」が出された時期にほぼ等しいわけであり、各種の『風土記』に見られる「倭臭漢文」と同一の性格のものと考えられるものです。逆に言うと『筑紫風土記』の「純粋漢文」体の文章は「八世紀」に入ってから書かれたものではないし、その影響は直接「中国人」によるものであり、半島経由ではないという可能性を示唆します。
また、『常陸風土記』も部分的に「県」が使用され、「駢儷体」と呼ばれる華麗な漢文表記がされているなど、漢文素養などの点では『筑紫風土記』によく似ており「筑紫」と「常陸」の関係、という点からも注目すべきです。
この『常陸風土記』は『筑紫風土記』と同様、かなり早い段階でまとめられていたものであり、それを元にして「元明天皇」の詔により改めて換骨奪胎して再利用したものと推察されます。
たとえば、この『常陸国風土記』の冒頭の文章に登場する「古老」は「八世紀」時点の存在ではなく、文章中の「県」制の時代の人間と考えられるものです。それは「冒頭」の文章の「古者 自相模国足柄岳坂以東諸県総称我姫国」という文章中の「諸県」という用語使用法に現れています。
彼はこの「我姫」という領域を示すのに「諸県」と言っていますが、当然「八世紀」には存在しない行政制度である訳です。これを「古老」は「現在時点」として話しているのです。明らかに「県」が使用されていた時代を、彼(古老)は「現在」として生きていることとなります。
このことは『常陸国風土記』の当初成立時期は「県」制施行時期であった事を示すものであり、その後それを「原資料」として「八世紀」にあらためて編纂されたという「流れ」が推定できます。
このように『筑紫風土記』や『常陸国風土記』の原資料となったものは明らかに「八世紀」以前に「別の権力者」により編纂されたものと考えられますが、それはいつ誰が行ったものでしょう。
その時期としては上に挙げたように「県」(あがた)がいつ施行された制度なのか、という事が鍵になると思われます。
『常陸国風土記』を見ると以下のような記事があります。
「常陸国司 解 申古老相伝旧聞事問国郡旧事 古老答曰 古者 自相模国足柄岳坂以東諸県総称我姫国 是当時 不言常陸 唯称新治筑波茨城那賀久慈多珂国 各遣造別令検校 其後 至難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世 遣高向臣中臣幡織田連等総領自坂已東之国 于時 我姫之道 分為八国 常陸国 居其一矣」
また以下のような記事もあります。
「古老曰 筑波之県 古謂紀国 美万貴天皇之世 遣采女臣友属 筑箪命於紀国之国造 時筑箪命云 欲令身名者着国後代流伝 即改本号 更称筑波者風俗説云握飯筑波之国(以下略之)」
これらの記事から考えて「県」という「行政制度」は「難波長柄豊前大宮臨軒天皇」が行った「我姫之道 分為八国」の事業の際にそれまでの「国」を「県」に変えたものと推察されるものです。(ただしこの「国」は「国造」等の支配する領域を指し、「広域行政体」としての「国」とは異なる)
これは後でも述べますが、このような制度変更の主体は「孝徳天皇」でもなく(七世紀半ばの)「難波朝廷」でもないと思料され、『隋書俀国伝』に出てくる「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」(あるいは「難波皇子」)の事業であると考えられるわけです。
彼らの時代に「国県」制が施行され、それ以降に成立したのが「県風土記」であると考えられます。ただし、それは「縣(県)」が当初はなかったという意味ではありません。特に九州島の中では「国―郡―県」が制度としてあったものと見られます。なぜならそれは「漢魏晋」以来の中国の行政制度であり、それを倭国が踏襲していなかったとは考えにくいからです。少なくとも倭国王の直轄領域ではこの制度が導入されていたと思われますが、他方「辺境」では「道―国」という簡易な制度があったと見られ、それが六世紀末に直轄領域と同様「国―県」という制度に統合されたものではないでしょうか。
ところで「国県制」に先行して「評制」があったと見るわけですが、「評」は「屯倉」と結合した制度であるため、各地に(局地的に)設定されたものであり、王権に直接送られる物品の集配所としての「屯倉」の後背地としての性格があったものとみられ、その場合「国造」が「評督」になるケースもあったと思われます。ただしその時点で国内が「屯倉」で埋め尽くされているわけではないため、「国造」と「評督」が必ずイコールとはならない場合も多かったと見られるものの、その後「評制」が全国に展開されるようになると「国造」という職が停止されることとなり、全ての「国」が「評」となったものです。この時期としては「遣隋使」以前である事が推察され、百済等半島の文化の積極的導入を図っていた時期がもっとも推測できます。
その「国県制」というものは「隋」の「州県制」に関連があると考えられるものであり、であればその導入は「隋代」である「五八一年」から「六一八年」までの間に限定されることとなります。(この間だけ「隋」で施行されていたもの)
この間(あるいはそれ以前)中国に対し「制度」導入などの意図を持って派遣されたものは「倭の五王」以降は「遣隋使」しかないわけであり、そのことは即座に「国県制」のモデルとなった制度が「遣隋使」によりもたらされたものであると推測されることとなります。
この「国県」制の導入を踏まえて編纂されたものが「県風土記」であると考えられ、その編纂時期として、この「国県」制施行を意味すると考えられる「六十六国分割」事業が、「肥後」表記などで理解されるように「六世紀末」には行われていたものと見られます。
その施行主体であったと見られる「阿毎多利思北孤」は「天子」として初めて治めるこの国のいろいろな土地に伝わる伝承だとか、風物、命名の起源などを知る必要があると見たものではないでしょうか。(「隋」の高祖が同様のことを行っている例を参考にしたという可能性もあります。)
「倭国」の実質的統治領域の「拡大」によりそれまでより「圧倒的」に「倭国」の権威が広範囲に届くようになった結果「服属」することとなった領域の「詳細」な情報を入手する必要があったものと考えられます。そのような中には「特産品」や「地形」などの一種「軍事情報」や「調」として「徴収」すべきものの把握など、「本格的」な統治に必要な情報を多量に含んでいたものであり、それを調査の上提出するよう指示を出したものと思われます。それが残ったのが『筑紫風土記』であり、やや原形をとどめているのが『常陸風土記』なのだと思われます。
また、同じく「県風土記」と言われる『筑後風土記』には、「磐井」の逃亡先として「豊前」という国名が出てきますが、この国名は上で見たように「古老」の生きた時代の「事実」と考えられ、彼の時代には「豊前」という国が実際にあったものと思われますが、それは「磐井」の時代まで遡るものではないと考えられます。文中でも「磐井」の「勢力分布」について「火、豊」という表現がされており、これであれば彼の支配の実態を表現する用語としては同時代性がありますが、「豊前」という国名はそれとは異質であり、時代が異なることを示しています。
つまり、この『風土記』においても、「古老」から聞き取りを行なったのは「豊」の国が「前後」に分けられた時点であったことを示していると考えられ、「国県制」が施行され、「六十六国分国」が行なわれた「六世紀末」(五九〇年前後)が一番可能性があるものと考えられます。
(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2016/07/31)