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「法隆寺」創建仏像と「釈迦三尊」


 「法隆寺」には「薬師三尊」と「釈迦三尊」と「阿弥陀三尊」があります。「釈迦三尊」は「光背銘」に「法興年号」が使用されているので有名ですし、また金堂の中央にあります。この三尊がこの金堂の、と言うより「法隆寺」の中心であるのは間違いありません。
 「釈迦三尊」の光背銘文によるとこの「釈迦三尊」は「上宮法王」の「病気平癒」を祈念して造り始められたのですが、完成半ばで「上宮法王」は死去してしまいます。完成は「上宮法皇」が亡くなった翌年三月のことであったようです。
 ところで、その中には「懐愁毒」という用語(言い回し)が出てきます。これは『大方便仏報恩経』という経典に典拠があるもののようです。

「優填大王戀慕如來、心懷愁毒、即以牛頭栴檀、{てへん+票}像如來所有色身、禮事供養、如佛在時、無有異也」

 これによれば「如来」(釈迦)が天に昇り亡き母のために説法をしていた留守の間、「優填大王」は「心懷愁毒」つまり、恋慕の情が深く心を包んだため、牛頭栴檀(香木)で「釈迦」の姿を写した像を作って礼拝供養し、まるで「釈迦」がそこにいるかのようであった」と書かれています。
 これが書かれた「大方便仏報恩経」は「六朝末」から「唐」にかけて広く読まれたものです。これは「法華経」と共に倭国に流入していたと考えられ、この「釈迦三尊像光背銘」の文章はそのような教養の元に書かれたものと考えられます。
 この銘文は「太后が亡くなられた後すぐに、上宮法王とその夫人が亡くなられたのは、『お釈迦様』が、亡き母に説法するため天に行かれたのと同じ事」と理解されたことを示しているようです。このことから「上宮法王」という人物が「釈迦」に擬されていたということが明らかになったものと思料します。
 この用語の解析から考えても、「釈迦三尊」は「鬼前太后」が亡くなられた後から造り始められたものであることが分かりますが、そのことは「創建時」の「本尊」は「別」であったことを示します。
 では、それは「寺内」にある別の「仏像」なのかと考えるとそうでもなさそうです。たとえば「薬師三尊」であったかというと、それは違うようです。この「薬師三尊」はその「様式」や「鋳造技法」の面からは、もっと「新しい」と考えられ、七世紀後半の作と考えられています。
 また、「阿弥陀三尊」は「平安時代」に(最後に)加わったものであることが明らかになっています。
 さらに、「法隆寺」で「秘仏」とされてきた「救世観音」と「百済観音」が「本尊」であるとする考え方もありますが、いずれも「菩薩」であり、「如来」ではありません。(この「救世観音」と「百済観音」は「阿毎多利思北孤」の太子である「利歌彌多仏利」とその「皇后」であるという可能性も考えられるでしょう。)
 その創建が「隋帝」からの「訓令」による「法華経」推進であったとすると「本尊」としては「釈迦仏」ないしは「阿弥陀仏」であったと想定するのが正しいでしょう。そう考えると、「元々の本尊」といえるものは、この「法隆寺」の中には存在していないこととなります。そのことは、この「法隆寺」が「他所」からの「移築」であること、「法隆寺」という寺名が「寺名確定」の「詔」が出された後のものであると考えられることなどから、「本尊」は今現在は失われたか、あるいは別の寺院に納められているという可能性が考えられます。
 これについては「六〇六年」に「元興寺」の金堂に「丈六仏像」を納めたという記事を考える必要があるでしょう。

「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰(八日)。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。」
 
 この記事は「仏陀」の誕生日である「四月八日」に併せて「仏像」を金堂に納めるという計画であった事を示すものですが、また、後半に書かれている「自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。」という文章からも「灌仏会」と「盂蘭盆会」がこの時から始まったという事を意味すると考えられます。
 「灌仏会」は「釈迦」の誕生日を祝うものですから、この時の「仏像」納入というものが「釈迦」に対する「信仰」を表すものであることを示すものと思われ、このことからこの時納められた「銅像」は「釈迦像」であったことを示すものと思われます。しかし、この時納入された「仏像」は二体であり、一体は「繍仏」でした。これは「繍帳」であったと考えられますが、そこに描かれたものは「阿弥陀来迎図」のようなものではなかったでしょうか。そう考えるのはすでに見たように「法隆寺」の創建と「法華経」の伝来に深い関係があるからです。
 
 当時の「倭国王」が「法華経」に共感したのはなぜかと言うことを考えると、「阿弥陀」と「自分」という存在が「相似形」であることを意識したのではないかと考えられます。
 「阿弥陀如来」は元々西方の国の「王」であったとされ、「民」を救うためには「政治」だけでは足りないとされ、「修行」され「悟り」を開き「如来」となられ、多くの人々を救ったとされているのです。
 このような「大乗」の教えはそれまでの「小乗」の教えと違い、自分が助かるだけではなく、多くの人々を救済するという「王」としての自らの「統治」の根本を為すテーマに合致するものであったものと思われます。
 このことから「主仏」としては「銅仏」として「釈迦仏」を戴き、「副」としては「繍帳」に「阿弥陀仏」を描き、これらを「内陣空間」に配置していたのではないでしょうか。

 「玉虫厨子」は「金堂」の完成模型として知られていますが、その表面下部の「須彌座」部分には「阿弥陀如来」と考えられる像が描かれています。実際の「金堂」空間はこれを発展拡大したものが配置されていたと考えられ、それと「釈迦銅仏」の双方を「本尊」としていると思われます。その際の「釈迦仏」の「脇侍」としては通常(後の「釈迦三尊像」のように)「薬王」「薬上」両菩薩であると考えられるのに対して、この時は「救世観音」と「百済観音」と言う、「真影」つまり「倭国王」の実際の姿とその「后」を「模した」観音像を配したものと推定されます。
 「救世観音像」が「菩薩」や「如来」の伝統的な面貌ではないことからも「真影」という伝承は正しいと言えるでしょう。その顔についていえば、「分厚い唇」や、「大きな鼻」「しかめたように見える眉」等々、古来の理想的な「仏」の顔と言うよりは、明らかに実物の人間を写したと考えられるものであり、これは当時の「倭国王」(利歌彌多仏利か)の実際の顔を表すものではないかと推量されるものです。しかも、この人物は「如意宝珠」を「胸」に抱えています。

 「阿弥陀如来」がこの金堂の本来の「主仏」であったことは「金堂」が本来「東面」していたと考えられる事からも分かります。
 現在の金堂は「南面」しており、その内陣に「釈迦三尊像」が置かれ、「西側」の壁に「阿弥陀三尊像」、「東側」の壁に「釈迦三尊像」という配置形式になっています。しかし、「昭和の大修理」の結果から当初は「南北」方向を長手にした「東面金堂」であったことが推測され、この場合は「内陣」の中央に「阿弥陀繍仏」が置かれていたという可能性が強いといえます。それは寺域の「西」側に「南北」方向に配置された金堂はその本尊に向かうと「西方浄土」を向くこととなるわけであり、そのことからこの金堂の「本尊」が「阿弥陀仏」であったという可能性が強いと考えられるからです。
 その後「阿毎多利思北孤」の病が進行するに従い、伏して起き上がることが出来なくなり、臣下の目に入ることがなくなったことから、「釈迦」が「天に昇り母に説法」していた伝承になぞらえ、「尺寸王身」の「釈迦仏像」を造り、それを代わりに礼拝することとしたとみられます。
 こう考えると「阿毎多利思北孤」の死後もその製作を止めなかったという理由も分かります。亡くなって会えなくなればかえってその必要性は高まるからです。
 また現在の「金堂」が「東西」方向に向いているのは、造られた「釈迦像」が「尺寸王身」という「阿毎多利思北孤」本人を模しているからと考えられ、その場合「釈迦像」は「倭国王」そのものであったわけですから、「天子は北面する」という思想から「南面金堂」へ変更したという可能性が考えられ、その場合、すでに「筑紫」にあった段階で「金堂」の向きが変更されたという可能性も考えられます。

 また現在の脇侍については、鎌倉時代に書かれた「古今目録抄」において「薬王・薬上菩薩」とされています。
 これについては「亀田孜氏」の研究(※)があり、そこではこの「脇侍」は「法華経」の「薬王菩薩本事品」などに基づくものであり、『「法華経」を信仰する女性は死後に阿弥陀の極楽浄土に往生できるとある』と指摘しています。また、「脇侍」本体は簡略な造形であるとされる一方、「蓮華坐」が技巧を凝らして造られているとされ、それは「薬王菩薩本事品」の「女人の往生者は「蓮華の中の宝座の上に生まれる」とされていることと関係しているとされます。

「法華経 薬王菩薩本事品」
「…若有女人、聞是薬王菩薩本事品、能授持者、盡是女身、後不復受。若如来滅後、後五百歳中、若有女人、聞是経典、如説修行、於此命終、即往安楽世界、阿弥陀仏、大菩薩衆、圍繞住所、生蓮華中、寶座之上。…」

 この「法華経」の内容に基づき、「脇侍」が造られているとされており、そのことからこの両「脇侍」が「女人」を表しているとするのです。つまり、これらは「阿毎多利思北孤」の「生母」である「鬼前太后」と、「王后」である「干食王后」を表していると見られるとの指摘であり、強く首肯できるものです。


(※)亀田孜「法隆寺の法華経関係の美術」(『仏教芸術』132号1980年)


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/01/11)