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「法隆寺」と「元興寺」


 『書紀』の「元興寺」への「丈六仏」の納入に関して、天皇以下諸臣に至るまで「共同發誓願」したのとほぼ同じ「形式」の出来事が「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘にも書かれています。

(以下「釈迦三尊像」の光背銘を抜粋)
「…法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間…」

 ここでは、「太后」が亡くなり、「法皇」も病に倒れ、「王后」も「疲労」してしまうと言う状態になったので、「王后王子等及與諸臣懐愁毒共相發願」したとされています。「元興寺」の例と同じように「皇太子以下諸臣に至るまで」という「勅願」に準じるレベルのものであり、「共同發誓願」と「共相發願」というように文言も似通っています。このことから、この「法隆寺」も「勅願寺」であったのではないか、と考えられるものであり、「両寺院」(「釈迦三尊像」が納められるべき寺と、「丈六仏像」が納められていた寺)とは、同一であった可能性が示唆されます。少なくともこの二つの寺院は「性格」の非常によく似たものであることは間違いないでしょう。
 「法隆寺」が「勅願寺」、つまり「倭国王権」に直結する「寺院」であると言うことは、その「建築方式」を検証することでも判明します。

 川端俊一郎氏の研究(※)により「法隆寺」には、その設計に際して「営造法式」が適用されていると推定されています。
 「営造法式」」とは十二世紀初頭に「北宋」の「李明仲」がまとめたものですから、もちろん「法隆寺」が「営造法式」に基づいて造られているはずはないわけですが、「営造法式」の内容はそれまでの中国建築技術の集大成であると考えられており、その建築基準や技術は南北朝時代まで遡るものと考えられ、「法隆寺」の建築時点でも建築の際の基準として機能していたことが推定できます。
 またこの「営造法式」はもっぱら寺社建築に適用されるものであり、そこで「一等材」とされる材は各代によってやや異なるとされ、それが「隋・唐」の時代であるなら「唐尺」(=隋尺)である「29.6センチメートル」が基準値とされており、以下「法式」により等級が各々決められているとされます。
 「法隆寺」の場合はその建物構造から考えて「殿堂法式」であると推定されています。このような「建物」は日本では「法隆寺金堂」と「五重塔」だけであるとされています。「殿堂法式」は間口の広い、梁の長い、規模の大きい建物に使用されるものであり、「勅願寺」にふさわしい規格であることが理解できます。(ただしその寸法が「川端氏」が云うように「南朝尺基準」であるかは現在不明と言えます。)
 こう考えてくると、「勅願寺」が「複数」あったと言うこととなりますが、それはありうるのでしょうか。「王」の「勅願」というのは「重大」であり、それはある意味「選ばれた」存在であると考えられるものです。
 たとえば「法隆寺」の「釈迦像」などについて考えても、そのような経緯で作られた「釈迦像」などは他のどこにも存在していません。この「法隆寺」という寺院において「特別」にこの「釈迦像」が「王后以下諸臣に至るまで」の総意で作られているものであり、そうであれば「勅願寺」としてはこの当時「法隆寺」だけが存在していたこととなると考えられます。
 このことから、「元興寺」と「法隆寺」は実は、「同一」の寺院を指すと推定されるものであり、「寺名」の違いはその使用された「時期」の違いであると考えられるものです。
 これに関しては大越氏の研究(法興寺の研究)があり、そこでは『天武紀』に出された「寺名確定」の詔について言及されています。結論への当否は別として、これは重大な示唆を受けるものであり、これにより「元興寺」は「法隆寺」の元々の寺院名であり、『天武紀』に記された「寺名」確定の「詔」により「切り替り」があったものと思料します。

 「(天武)八年(六七九年)夏四月辛亥朔乙卯条」「詔曰。商量諸有食封寺所由。而可加加之。可除除之。是日。定諸寺名也。」

 本来「寺名」はその宗派で重んじる「経典」に由来しているかそれが建てられている場所によるかのいずれかと考えられますが、いずれにしろ基本的には「自称」であると考えられるのに対して、この記事は「定」という言葉が示すようにそのような「未定」あるいは「不確定」であって「通称」あるいは「自称」のレベルであったような寺名を「国家」として「命名」した事を示すものであり、この時点で、「寺院」が「国家」の管理に入ったことを示します。それはその直前に「寺封」記事があることでも分かります。「寺」に対して「国家」が「補助」を行うということは、全ての「寺院」が「半ば国有化」されたようなことを示すと考えられ、その時点で「私寺」と「官寺」「勅願寺」などの「差」がなくなった事を示すのではないかと考えられます。
 これを示すと思われるのが、『七代記』の記事です。それによれば「上宮太子」が「造立」した寺院が「八個所」あるとされ、そこでは以下のように書かれています。

「上宮太子造立寺合八所 四天王寺時俗爲荒陵寺 法隆寺時人名爲鵤僧寺 法興寺時俗呼爲鵤尼寺 法起寺時人喚爲池後寺 菩提寺時人喚爲橘尼寺 定林寺世人名爲立部寺 妙安寺世人名爲葛木尼寺 廣隆寺時俗号爲蜂岡寺 已上依日本記等略抄出其梗概耳」

 ここでは「時俗爲」「時人名」「時俗呼」等々「通称」とも言うべき名称と「正式名称」と二つ書かれていると考えられ、「時」という表現からも、これらの「通称」が当初行われていたものが、後代になってこれらの「正式名称」が定められたものという推測が可能であり、その根拠としては上に見た「天武」の詔が考えられるものです。
 『聖徳太子傳補闕記』にも以下のように「斑鳩寺」「蜂岡寺」として出てきますが、これらの「名称」がその時代には寺院名として使用されていたことが窺えます。

「…『斑鳩寺』被災之後 衆人不得定寺地 故百濟入師率衆人 令造葛野『蜂岡寺』 …」

 そう理解するならば「法興寺」も「法隆寺」も「後代」の「定められた寺院名」であることとなり、たとえば「法興寺」を移築して「法隆寺」としたとははなはだ言いにくくなります。
 また、「法興寺」についてはそもそも「通称」として「斑鳩尼寺」とされているのに対して、『書紀』の記事によると当初から「僧(法師)」が住持していたとされており、食い違いがあります。
 しかし、「元興寺縁起」を見るとその創建に関与して「丁未年」(五八七年)「用明天皇二年」に「百済」から使者が訪れ、彼が「『法師寺』(尼僧ではなく男性の僧の寺)を作るべき」と「天皇」に語った事から、建てられる事となったと書かれています。これによれば、それまでに「尼僧」の寺(尼寺)が存在していたことを示しており、それが「法興寺」の「前身寺院」かも知れません。

「元興寺伽藍縁起併びに流記資財帳」
『…然るに久しからざる間、丁未年、百濟の客來たる。官の問いて言いしく、「この三尼等、百濟國に度り受戒せんと欲す。この事云何にすべきや」と。時に蕃客(あたしくにのつかい)答えて曰く、「尼等が受戒の法は、尼寺の内に先ず十尼師を請(ま)せて已に本戒を受け、即ち法師寺に詣り十法師を請す。先の尼師十と合せて二十師が所に本戒を受けるなり。然るに此の國は但尼寺有りて法師寺及び僧無し。尼等、若し法の如く爲さんとせば、法師寺を設け、百濟國の僧尼等を請いて受戒せしむべし」と白しき。…』
 
 近年発見された「資料」である『日本帝皇年代記』には「寺院名」がかなり多数出てきます。これらはいずれも「初出」の段階で必ず「創建」が語られています。しかし、「元興寺」には「創建伝承」が書かれていません。同様に直接的な「創建」に関する記事がない「善光寺」についても「善光寺如来」が出現したという言い方で「間接的」に語られています。そうすると、『年代記』中に「寺名」が登場する「寺院」の中で「創建」が語られていないのは「元興寺」だけとなります。

(以下「年代記」中の「元興寺記事」)
@己巳(光元)五(六〇九年) 百済国沙門慧弥・道欣来朝、居元興寺、/太子製勝鬘経疏(この記事は『書紀』に同様の記事があります。)
A壬子白雉 依長門国上白雉也、/元興寺仁王會并最勝講始之
B戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識
 
 他の寺院(「四天王寺」「蜂岡寺」「橘寺」「大安寺」「山階寺」「(崇)福寺」「観音寺」(観世音寺)「禅林寺」(當麻寺)「薬師寺」「大官大寺」「興福寺」「長谷寺」そして「法隆寺」)については、その「創建」が記されているのに対して、「元興寺」は上のように複数の記事があるのにも関わらず、「創建記事」が欠けているのです。(逆に「法隆寺」はその創建が語られているもののそれ以降は一切登場しません。)
 つまり「年代記」中では「いつの間にか」「元興寺」はそこにあるということとなります。これは『書紀』などで「太宰府」が同様の扱いとなっていることを想起させるものです。このような「重要」な官衙なり寺院なりが「いつのまにか」建っていると言うことはあり得ず、それが書かれていないのは、その創建について語ることが「タブー」となっていたことを示唆します。(「法隆寺」の創建が語られていることからも、後の時代の「建前」により書かれているという点は隠せません。)
 
 つまり、推定に拠ればこの「寺名確定」の「詔」が出された時点で「元興寺」から「法隆寺」へと寺名が変更になったものと見られるわけです。
 その後「八世紀」以降の「日本国王権」により「元興寺」と「法隆寺」との間の関連を断ち切り、「法隆寺」と「斑鳩寺」の同一化及び「法興寺」と「元興寺」の同一化が図られたと考えられます。
 冒頭に述べたように「複雑」な「寺号」の変遷とその共存は、「元興寺」を巡る事実関係に「隠蔽」せざるを得ないものが背後にあることを強く示唆するものです。(平城京に存在している「いわゆる」「元興寺」は、そのためにこしらえた「寺院」であり、「本来」の「元興寺」とも「飛鳥寺」とも全く関係のない寺院であったと思料します。)
 それは「法隆寺」が倭国王の勅願寺であり、「筑紫」に存在していたという事実を消去する目的であったと考えられます。その目的のために、「斑鳩寺」が焼亡したことを幸いとしてこれとの同一化を目論んだと見られるわけです。このため、「公的記録」において、「焼亡」した時期をずっと後代のことと「潤色」し、「斑鳩寺」とのつながりを「連続」と見えるように細工したと推定します。

 そもそも「平城京」の「元興寺」には「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」という「資料」が残されていますが、それには明確に「元興寺」と「寺名」が書かれていること、つまり「国家」により「認定」された「正式名」が「元興寺」であるということが示されているにも関わらず、『書紀』の中に「法興寺」と「元興寺」さらには「飛鳥寺」が混在しており、またその中で最も「出現数」が少ないのがその「元興寺」という寺名であるという不審点を考えると、上に述べたような「法興寺」や「飛鳥寺」と「当初」の「元興寺」とは「別」の寺院であるということは明白であると思われます。

 「高麗国王」から「貢上」された(というよりは「倭国側」から招請したものと思われますが)「慧灌法師」は「元興寺」に住していたとされています。

「…百済仏法傳日域。後至推古天皇御宇三十三年乙酉。経七十四年當大唐高祖武徳八年乙酉。此年高麗国王貢僧慧灌来朝。此乃三論學者。随大唐嘉祥大師。受學三論而来日本。是日域界三論始祖。…至第三十七代聖主孝徳天皇御宇。乃請『元興寺』僧高麗慧灌法師令講三論。」(『三国仏法伝通縁起(中巻)』より)

 また「福亮法師」も先に述べたように「元興寺」に住していました。また彼の息子とされる「智蔵法師」の弟子の「道慈」「智光」「禮光」も「元興寺」にいたものです。
 さらには「道照」(道昭)も「遣唐使」として「白雉年間」に派遣された後、帰国後は「元興寺」に禅院を造りそこに居していたとされます。
(以下は「道昭」が死去した際の『文武紀』に書かれた「伝記」様のものです)

「文武四年(七〇〇年)三月己未条」
「道照和尚物化。天皇甚悼惜之。遣使弔賻之。和尚河内國丹比郡人也。俗姓船連。父惠釋少錦下。和尚戒行不缺。尤尚忍行。甞弟子欲究其性。竊穿便器。漏汚被褥。和尚乃微笑曰。放蕩小子汚人之床。竟無復一言焉。初孝徳天皇白雉四年。隨使入唐。適遇玄弉三藏。師受業焉。…於『元興寺』東南隅。別建禪院而住焉。于時天下行業之徒。從和尚學禪焉。於後周遊天下。路傍穿井。諸津濟處。儲船造橋。乃山背國宇治橋。和尚之所創造者也。和尚周遊凡十有餘載。有勅請還止住禪院。坐禪如故。…」

 彼らはいずれも「国家」の権力の元に派遣され、また来倭したものであり、「国家」が強く関与しているのは明らかですが、そのような場合「常住」する場所としてはいずれも「元興寺」と記されています。このことは「元興寺」という寺院が「官寺」の中でも「最高」の地位、つまり「勅願寺」であったことを如実に示すものと思われます。
 しかし、「元亨釈書」には「福亮法師」の「息子」である「釋智藏」について、「入此土居法隆寺。」つまり「帰国」してからは「法隆寺」に所在していたとされていることが注目されます。上に見たように彼の場合、「父」である「福亮法師」もその師匠である「慧灌法師」もさらには「智蔵」の弟子達も全て「元興寺」に所在していたわけですから、彼が帰国して以降当然「元興寺」に居するのは当然と思われる中で、記事では「法隆寺」にいたとされるわけですから、ここに「元興寺」と「法隆寺」とが同一の寺院であるということが示されていると思われます。


(※)川端俊一郎『法隆寺の物差し』ミネルヴァ書房二〇〇四年


(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2013/04/04)