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「碾磑」について


 『推古紀』に「碾磑」(てんがい)に関する記事があります。それによれば「推古十八年」に「高麗」から僧が来倭して彼らによりこの「碾磑」が「造られた」とされます。

「推古十八年(六一〇年)春三月。高麗王貢上僧曇徴。法定。曇徴知五經。且能作彩色及紙墨。并造『碾磑』。盖造『碾磑』始于是時歟。」

 この時の「碾磑」の使用目的は何だったでしょうか。
 そもそも「碾磑」は、元々「粉挽き用」の石臼であり、「米食」が盛んではなかった「北斉」「隋」「唐」と「北朝」に顕著なものであり、それらの地方では「雑穀」あるいは「小麦」を挽いて粉にし、それを加工する「粉食」が盛んであったものです。このため「川」などに「碾磑」を設置し、水力で「石臼」を回して「粉挽き」を行っていたものであり、このためたびたび「潅漑」の邪魔になり、トラブルが発生していたとされ、「唐代」には大量に破壊を命じた例まであります。
 その後これを「工業用」に改良したものが出てきます。

「肅宗乾元元年,經費不給,鑄錢使第五g鑄「乾元重寶」錢,徑一寸,?緡重十斤,與開元通寶參用,以一當十,亦號「乾元十當錢」。先是諸鑪鑄錢?薄,鎔破錢及佛像,謂之「盤陀」,皆鑄為私錢,犯者杖死。第五g為相,復命絳州諸鑪鑄重輪乾元錢,徑一寸二分,其文亦曰「乾元重寶」,背之外郭為重輪,?緡重十二斤,與開元通寶錢並行,以一當五十。是時民間行三錢,大而重稜者亦號「重稜錢」。法既?易,物價騰踊,米斗錢至七千,餓死者滿道。初有「?錢」,京師人人私鑄,併小錢,壞鍾、像,犯禁者愈?。鄭叔清為京兆尹,數月榜死者八百餘人。肅宗以新錢不便,命百官集議,不能改。上元元年,減重輪錢以一當三十,開元舊錢與乾元十當錢,皆以一當十,『碾磑鬻受』,得為實錢,?錢交易皆用十當錢,由是錢有?實之名。」(新唐書/志第四十四/食貨四/錢制)

 ここでは「鬻」という語が使用されていますが、これは本来「粥」状になりトロトロになるまで煮ることをいうものであり、この場合は「碾磑」で挽いて「粉々」にすることを言う意と思われます。これは旧貨幣である「開元通宝」を破砕して、新貨幣用の原料にしているというように理解されますから、「工業用」に特化したものと思料します。
 工業用のものは上下の石臼の摺り合わせ部分の「溝」の形と深さが「製粉用」とは大きく異なっており、「水」を「溝」の中に流しながら「金属」を砕いて「微粉末」にする、いわゆる「湿式粉砕」を行うために特化しています。(ただしこの「粛宗」段階まで工業用のものが現れなかったという意味ではありません。後でも述べますが、「南北朝時期」ですでに造られていたと推定されます。)

 『推古紀』の「碾磑」がいずれの用途かが問題となりますが、当時の日本列島には「小麦」もなく、「碾磑」の本来の目的としては需要がなかったと考えられ、この『推古紀』の「碾磑」の用途としては「製粉」に用いるものではなかったと思われます。(ただし、『養老令』には「碾磑」が「主税寮」に関する事物として出てきますから、「祖」として納められた「米」あるいはそれ以外の雑穀を「碾磑」を使用して「製粉化」していたらしいことが推察され、この時点では本来の用途として使用される実態があったものと見られます。)

(参考)「職員令/主税寮条/主税寮。頭一人。掌。倉廩出納。諸国田租。舂米。碾磑事。…」

 中国の場合は「製粉用」がほとんどであり、これは「寺院」などが「小麦」を挽いて、それを販売するという「商売」のために使用していたことが判明していますが、倭国の場合「小麦」の需要も生産もなかったわけですから、「碾磑」の用途としては当初は「工業用」に特化したものしかなかったと考えられます。 
 さらに、それ以前に「黄金」が助成されていること、この「曇徴」という僧は「彩色」にも優れていると書かれていることから考えて、「寺院」などで「丹塗りの柱」などに使用する「朱丹」の生産に使用していたか、「金メッキ」をして「金銅仏」を製作したというケースが考えられます。「碾磑」を使用することによりそれらの原材料を短時間に大量に微粉末に加工することができるわけです。そのため他の寺院でも使用していたらしいことが推察され、「東大寺」にも存在したという記録があります。
 上の記事でも「曇徴」という僧について「彩色」に優れていることが書かれていますが、「彩色」という言葉が「寺院」と関係して使用されている場合は「塔」の「柱」を荘厳するための「彩色」のことと考えるのが相当のようです。

「…佛言。聽作。佛聽我以『彩色』赭土白灰莊嚴塔柱者善。佛言。聽莊嚴柱。佛聽我畫柱塔上者善。…」(「大正新脩大藏經/律部二/一四三五 十誦律/卷四十八第八誦之一/揶齧@之一」より)

 また「金銅」が助成された記事の翌年のこととして書かれている「仏像」を「堂」に入れるという記事(下記)では「金銅」とは書かれておらず、単に「銅像」と表現されていますから、まだ「鍍金」(金メッキ)はされていないこととなります。

「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰条」「銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。」

 この時点ではまだ「金メッキ」はされていないわけですが、実際に「金メッキ」するためには「黄金」を細かく砕いて「微粒子」にする必要があり、この時代の「倭国」にはまだその技術と機材がなく、メッキできる状況ではなかったと思われます。そのためには「碾磑」が必要であったわけであり、それが「倭国」にもたらされたのがそれから「五年」ほど経過した「推古十八年」であったということではないでしょうか。
 
 ところで、「観世音寺」には「碾磑」があったとされ、現在も保存されています。これはその溝の構造などから「製粉用」ではなく「工業用」であることが推定されています。(※1)このことから、この「碾磑」は『推古紀』の碾磑との関係が考えられるでしょう。そうであればこの『推古紀』記事は元々「筑紫」に関わるものであったという可能性も出てきます。さらにその「碾磑」が「元興寺」と関連しているというわけですから、「元興寺」そのものが「筑紫」に存在していたという可能性も浮かびます。(碾磑がそのまま筑紫に残され、観世音寺で利用されたという可能性も考えられます。)
 
 同様の「碾磑」が中国の「少林寺」にもあるとされますが、記録によれば「少林寺」は「唐」の「太宗」からこの「碾磑」を下賜されたとされ、さらにその時点で「土地」も「二十頃」併せて下賜されたと書かれています。

「…太宗嘉其義烈,頻降璽書宣慰,既奉優教,兼承寵錫,賜地廿頃,水碾一具,即柏穀莊是也。…」(「全唐文」より「少林寺碑」)

 この土地が「柏穀莊」と呼ばれたという事からもこの「土地」と「水碾(碾磑)」が「食料」(穀物)生産と関係していることが考えられ、「観世音寺」に残る「工業用」と同種のものではなかったと推定できるでしょう。
 そもそも「少林寺」は新しく建てられた寺ではないわけですから、柱の彩色などはすでに行われているわけですから、用途としてはそのようなものを想定することはできず、その意味で「観世音寺」とはその状況が異なると考えられます。つまり「少林寺」の「水碾(碾磑)」は『推古紀』の「碾磑」とは違うといえるでしょう。

 さらに、この「碾磑」は(「黄金」同様)「高麗」からもたらされたものと書かれているわけですが、その「高麗」が「隋」を意味する「隠語」として使用されているのではないかと推定をしたわけですから、この「碾磑」の出自についても同様である可能性が生じます。
 「銅仏」に「金メッキ」を施したいわゆる「金銅仏」は中国ではかなり早期から存在していたものであり、「北魏」成立以前の「五胡十六国時代」で盛んに小金銅仏が作られたとされます。それが「隋」が「中国」を統一して後「文帝」による仏教の半ば強制的拡大策により、一気に「金銅仏」作成の動きが高まりいわば大量生産がされるようになります。少なくとも、この時点付近で「金メッキ」技術も広範囲に広まったものと見られ、それとともに「碾磑」も「製粉用」から変化発展し、「工業用」としてのものが作られるようになった時点で「倭国」にもたらされることとなったと考えられるでしょう。
 それに対し「高麗」では「六世紀初め」には「金銅仏」として「千躰仏」が作られ、それが「高麗」周辺諸国に頒布されたらしいことが推定されていますが(※2)、その後それが更に活発に(つまり碾磑が必要なほど大量に黄金を使用して)なったというような記録は見られません。(仏像や寺院などが全く残っていないのです)

 また、『推古紀』の記録では派遣された「曇徴」と「法定」は「倭国」に来て当地で「碾磑」を作製しているようです。(「造」とされています)それは当然そのような技術がすでに「高麗」で一般化していたことを示すこととならざるを得ませんが、上に見るように「碾磑」を各資料に検索しても「高麗」に存在していたあるいは製法が確立していたというような記事、史料は見あたりません。「大興王」の件も含め『推古紀』の「高麗」はその多くが「隋」と読み替えて考えるべきではないかと推測されるものであり、「高麗」の僧とされる「曇徴」「法定」についても、「高麗」ならぬ「隋」から派遣されたものであり、彼らにより「碾磑」がもたらされたと見られることとなります。

 また「観世音寺」に現存する「碾磑」が『推古紀』に書かれたものと同一のものなのかは、「直接」的な証拠はないため不明ではあるものの、可能性はないとはいえないでしょう。

(ただし、「高麗」には「銀」生産があったものであり、「銀」の精錬のためには「微粉末」にする工程が必要でしたから、「碾磑」がそのために開発され、存在していたという可能性は「ゼロ」ではありませんが、後の「石見銀山」でも「石鎚」あるいは「金槌」で叩いて微粉末に加工していたことが確認されており、このような技術こそが「高麗」からもたらされたと考えて不自然ではなく、やはり「高麗」における「碾磑」という存在には疑問符がつくと思われます。)


(※1)三輪茂雄・下坂厚子・日高重助「太宰府・観世音寺の碾磑について」(『古代学研究』第108号(一九八五年))
(※2)一九六三年に新羅地域の慶尚南道の土中から発見された「延嘉七年」銘金銅仏立像の光背によれば、「延嘉七年」(これは「高麗」の「安原王」の時代と推定されており、「五三九年」を意味すると思われます)に高麗国の「楽良東寺」が流布させた千仏の一つであり、その二十九番目の仏像だという内容が刻まれています。(以下その光背銘文) 
「延嘉七年歳在己末高麗國樂良東寺主敬?子僧演師徒(四十)?人共造賢劫千佛流布?廿九因現義佛比丘法穎所供養 」


(この項の作成日 2012/05/20、最終更新 2015/04/03)