「元興寺」という寺院があったとされます。(というより現存していますが、それが過去のものと同一かを問題にしようとするためこのような書き方としています。)
この「寺」は一般には「法興寺」と同じものであり、またその「法興寺」は「飛鳥寺」と呼称したとも言われています。また、「平城京」に「法興寺」が移設された後は「本元興寺」と呼ばれるようになり、また奈良の「法興寺」は「元興寺」と呼称されたとされます。ちょっと考えても「複雑」であり、このような寺名の変遷は他の寺ではお目にかからないものです。このような「寺名」変更の過程を経た寺院は他にはなく、その背景に特別な事情があることが想像できます。
そもそも「寺名」は「勝手に」変更できるものではなく、国家の承認が必要であったものです。そう考えると、「平城京」完成時に移転された寺院が全て「寺名」が変更されているというわけではないことからも、この「元興寺」の例が「八世紀」の「新日本国王権」にとっても、非常に重要で特別であることが分かります。
しかも『書紀』では「移転前」であるのに「元興寺」と称した記事が存在しています。
「六〇六年」十四年夏四月乙酉朔壬辰。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。
「六〇九年」十七年夏四月丁酉朔庚子。筑紫大宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于肥後國葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。
五月丁卯朔壬午。徳摩呂等復奏之。則返徳呂。龍二人。而副百濟人等送本國。至于對馬以道人等十一皆請之欲留。乃上表而留之。因令住元興寺。
また、これ以前の「六〇五年」に以下の記事があります。
「(推古)十三年(六〇五年)夏四月辛酉朔。天皇詔皇太子。大臣及諸王。諸臣。共同發誓願。以始造銅繍丈六佛像各一躯。乃命鞍作鳥爲造佛之工。是時。高麗國大興王聞日本國天皇造佛像。貢上黄金三百兩。」
この寺院に対しては「天皇」以下諸臣に至るまで「共同」で「發誓願」しているわけであり、ほぼ「勅願」とも言えるものと理解できます。そのような経緯により「仏像」が納入されるような「寺院」そのものについても「勅願」といえるものであったと考えるのは不自然ではありません。
「四天王寺」他「聖徳太子」の「御願」にかかる寺院はいくつかあったとされますが、「倭国王」直々の「勅願寺」もあったと想定して不審はないと思われます。
この「仏像」が納められたのが冒頭の「六〇六年」記事であり、ここではその寺院名が「元興寺」であると明記されています。
(『元興寺伽藍縁起』にも「楷井等由羅宮治天下等與彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百 歳次癸酉正月九日 馬屋戸豐聰耳皇子受勅 記元興寺等之本縁及等與彌氣命之發願 并諸臣等發願也」とされ、同様の記述となっています。)
通常この寺院は上でみたように「法興寺」と同一であると考えられているわけですが、そうすると「法興寺」が「蘇我氏」の「私寺」であり、「官」つまり「朝廷」の寺ではない事と「矛盾」します。
この寺が「勅願寺」ではなく「私寺」であったのは、その「創建」に関わる話を見ると明確です。つまり、以下に見るように「王権」と「蘇我」などのグループと「物部」が仏教信仰をきっかけに対立した際に、戦いにあたり「聖徳太子」が「四天王」に願を掛け、その勝利したことを感謝して「四天王寺」を創建したとされていますが、その時「蘇我馬子」も同様に願を掛け「法興寺」を建てたとされており、この経緯から考えて明らかに「蘇我」の「私寺」であって、「官寺」ではないこととなります。
「崇峻即位前紀」
「(用明)二年秋七月…軍の後に隨へり。自から忖度りて曰く。將(はた)敗らるること無からむや。願に非ずは成し難けむ。乃ち白膠木(ぬりで)を?(き)り取りて、疾く四天王の像に作りて、頂髮(たきふさ)に置きて、誓ひを發てて言はく。白膠木。此云農利泥。今若し我を使て敵(あた)に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉爲(みため)に寺塔を起立(たて)む。蘇我馬子大臣又誓ひを發てて言はく、凡そ諸天王・大神王たち等、我を助け衛りて、利益(か)つこと獲したまはば、願はくは當に諸天と大神王の奉爲に、寺塔を起立てて三寶を流通へむ。誓ひ已りて種種(くさぐさ)の兵を嚴ひて進みて討伐つ。…」
しかし、「六〇五年」記事と「六〇六年記事」を重ねて考えると分かるように「元興寺」には「勅願」(倭国王以下諸臣に至るまで)としての「仏像」が納入されています。このことから、「元興寺」そのものが「勅願寺」であったと考えられ、「蘇我」の「私寺」であったと考えられる「法興寺」とは明らかに「別」の存在であることとなります。
そもそも「平城京」遷都以降の寺院名であるはずの「元興寺」が「七世紀代」の『書紀』に登場するのは「矛盾」であるわけです。「寺名」は「国家」により正式に認定されたものだけが使用を認められていたものであり、「元興寺」と「法興寺」が同じ寺院の「別」の名称であるとして、それが『書紀』という「正史」に出てくるというのは、国家が「複数」の寺院名を認めていたこととなってしまいそれもまた「矛盾」と言えます。
この事から「元興寺」という寺院名が「七世紀代」からあるものであり、決して「平城京遷都以降」だけに現れるものではないことを意味します。(「元興寺」というのが通称ではないのは「元興寺」という「寺名」を書いた「額」が掲げられていることからも明白です。このような「額」としてはその寺院の「正式名称」が掲げられて当然だからです。)
また、「六〇六年記事」によれば、「元興寺」の「金堂」に「丈六像二体」が納められています。「銅繍丈六佛像並造竟」と言いますから、一体は「布地」に「刺繍」を施した「繍帳」(「タペストリー」様のもの)であったと思われ、もう一体が「銅仏」であったようです。
また、ここで使用されている「金堂」という用語は、「本堂」であるとか「仏舎」というような用法がこの時代一般的であるのに比べ、『書紀』ではこの一箇所しか出てきません。そもそも「金堂」の「意義」(語義)は、「堂内」が金色であるか「本尊」が金色であるか、また「仏」のことを「金人」というからなど複数理由が考えられますが、「金人」説の場合、他の寺院では「金堂」という呼称をなぜしないのかその理由を別に探す必要があると思われます。
そう考えると、「堂内」が金色であるか、「金色」に輝く「本尊」があったためか、いずれかの理由でそう呼ばれたものと推察されますが、いずれにしろ「高麗國大興王」から「貢上」された「黄金」がその「金色」に荘厳するために使用されたものと見られ、とすれば「元興寺」こそ「天皇」以下が「共同發誓願」した「勅願寺」であるとことはより明確になると思われます。(これについては「高麗大興王」が「隋」の「文帝」を指す用語であり、またこの「元興寺」創建に関しては「文帝」からの「訓令」というものの影響を考えるべきという考察からも、「倭国王」以下の勅願であるのは当然のこととなるでしょう。)
しかし、「六〇六年」の段階ではまだ「金メッキ」に必要な技術も設備もなかったと思われ、「金堂」という表記は「後代」の「潤色」ではないかと考えられます。
「金メッキ」は以下の記事にあるように「六一〇年」に「碾磑」(大型の石臼)が倭国にもたらされた後に「技術」として確立したと考えられ、それ以降であるならば首肯できるものです。
「(推古)十八年(六一〇年)春三月。高麗王貢上僧曇徴。法定。曇徴知五經。且能作彩色及紙墨。并造『碾磑』。盖造『碾磑』始于是時歟。」
実際に「金メッキ」するためには「黄金」を細かく砕いて「微粒子」にする必要がありますが、「黄金」が貢上された時代の「倭国」にはまだその技術と機材がなく、メッキできる状況ではなかったと思われます。
そのためには「碾磑」(石臼)が必要であったわけであり、それが「倭国」にもたらされたのはそれから「五年」ほど経過した「六一〇年」であったと見られます。
この記事からは「碾磑」が始めて「倭国」に出現したものであり、「高麗」から派遣されたという「曇徴」「法定」により「碾磑」を使用して「黄金」を砕くことができるようになり、それを利用して「銅像」その他に「金メッキ」を行なったり、堂内に金箔を張り付けたりすることが出来るようになったことを意味するものと考えられます。
この「碾磑」とそれを利用する技術を持った人間により「金メッキ」が実用化されたものと思料されますが、そのことはそれを遡る時期である「六〇六年」段階ではまだ「金色」には染めることはできないことを示すものです。
このように「黄金」をメッキ材料などに使用する技術が確立した後に、「堂内」に納められた仏像か、堂内そのものが「黄金」により「メッキ」されたことが想定され、まさに「金堂」の名にふさわしくなったものと見られます。
寺院多しといえど「黄金」で光り輝いていた「本尊」を持つ寺院はこの「元興寺」だけだったのです。
また、『天武紀』には以下のような「詔」が出されています。
「(天武)九年(六八〇年)夏四月乙巳朔甲寅…
是月。勅。凡諸寺者。自今以後。除爲國大寺二三以外。官司莫治。唯其有食封者。先後限卅年。若數年滿卅則除之。且以爲。飛鳥寺不可關于司治。然元爲大寺而官司恒治。復嘗有功。是以猶入官治之例。」
これは「國大寺二三以外」は「官治」すべきではないとしたもので、この除外された「寺院」の中には「飛鳥寺」が入っていないのです。この後半に書かれているように「飛鳥寺」は「以前から」「大寺」とされていたために「私寺」ではあるものの「官治」を継続するとされているわけです。
この「飛鳥寺」は「法興寺」と同一の寺院を指すと考えられ、そうであればこの「詔」からも「法興寺」は「官寺」ではなく、「蘇我」の「私寺」でしかないこととなります。このような「寺院」を「元興寺」と同一視することはできるはずがないのです。(書かれてはいませんが「二三」の「大寺」という中には間違いなく「元興寺」は入っているものと推定します。)
またこの時作られた「銅仏」はその「金メッキ」に要する黄金が「高麗」の「大興王」からの助成であったとされますが、これは実際には「隋」(文帝)からのものであったと考えられ、当然技術と水準もこの時点の「隋」のものであったと推定されますから、その「様式」も「北朝様式」であることとなります。
もし「高麗王」が助成したとすると「寺院」や「本尊」などは「純粋」な「高麗様式」となって当然ですが、実際には「瓦」も「本尊」も明らかな「北朝形式」であり、「高麗」の独自なものが全く見られません。これは「高麗王」という表現に「虚偽」があることを意味するものであり、実際には「隋」の直接的援助があったと見られることとなります。(これは前述したように『隋書』の「開皇二十年記事」にある「訓令によりこれを改めしむ」という記事と対応しているという可能性もあると思われます。)
現在この「隋」の様式と見られる「本尊」に該当するのは「飛鳥大仏」として知られる「安居院飛鳥寺」の本尊でしょう。これは「本体」だけで「三メートル」近くあり、「丈六」という表現に似つかわしいものです。
この「仏像」が当初はこの場所に納入されたものではなかったと考えられるのは、その「光背」に「畢竟して坐す」という意味の表現があることからも分かります。ここでいう「畢竟」するとは、『様々な「途中経過」があったものの、最後にはここに来た』という意味を持っています。
(以下「丈六仏像」の光背銘を抜粋)
「…十三年歳次乙丑四月八日戊辰、以銅二萬三千斤、金七百五十九兩、敬造尺迦丈六像、銅繍二躯并挾侍。高麗大興王方睦大倭、尊重三寶、遙以隨喜、黄金三百廿兩助成大福、同心結縁、願以茲福力登遐諸皇遍及含識、有信心不絶、面奉諸佛、共登菩提之岸、速成正覺。
歳次戊辰、大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清、使副尚書祠部主事遍光高等來奉之。
明年己巳四月八日甲辰、畢竟坐於元興寺。…」
この銘文に書かれた内容はその年次と「高麗大興王」という名称からわかるように基本的には『書紀』によっていますが、「裴世清」とその副使である「遍光高」という人物などの肩書きや職掌などから、これが「隋初」という時期であることが強く推察されます。それらはこの銘文全体の信頼性をある程度担保するものであり、ここに使用されている「畢竟」という「語義」についても実態を表すものという可能性が示唆されるものです。つまり、元々この「仏像」がこの寺の「本尊」ではなかったものが「紆余曲折」の果てにこの寺院に収まったことを示すものといえるでしょう。
また、「元興寺」記事が「七世紀の初め」(実際には六世紀末か)という時代にだけ現れるのには理由があり、それは『書紀』編纂時点の「八世紀」以降の時点では「丈六仏」は「法興寺」にあったからであると思われ、それは「上」に見たように「当初」からあったというわけではないものの、後年訳あって「丈六仏」が納まることとなった事に起因していると思われます。
この「丈六仏」は「倭国王」の「勅願」として造られたものであり、それが納まって以降「阿毎多利思北孤」の「法号」にちなんで「由緒正しい」「法興寺」という寺名に変更されることとなったものと考えられます。
また『書紀』において「七世紀初め」の記事として「元興寺」が出てくるのは、「難船」した「百済」からの漂流民が最終的に「元興寺」に所在していたということが、動かせない事実として記録されていたという可能性があります。そのような「明確」な事実と結びついていたがゆえにこれら「二例」だけ、「元興寺」という「寺名」を登場させざるを得なかったという可能性も考えられるところです。
以上から、「元興寺」を「法興寺」と「読み替える」のは正しいとは言えないものであり、この両寺院は全く「別」の存在であると理解すべきと思われます。
(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2015/03/21)