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斑鳩寺と火災について


 「聖徳太子傳補闕記」という聖徳太子の伝記によれば、「寺」に仕える「奴婢」同士の「争論」があり、それを「寺」つまり「斑鳩寺」の「法頭」が裁定している様子が描かれています。

『聖徳太子伝傳補闕記』
「…家人馬手 草衣之馬手 鏡 中見 凡波多 犬甘 弓削 薦 何見等 並爲奴婢。黒女 蓮麻呂 爭論。麻呂弟万須等 仕奉寺法頭。家人奴婢等根本妙ヘ寺令白定。麻呂年八十四 己巳年(六〇九年か)死。子足人古年十四年壬午(六二二年か)八月廿九日出家大官大寺。麻呂者聖コ太子十三年丙午年(五八六年か)十八年始爲舍人。癸亥年(六〇三年か)二月十五日始出家爲僧云云…」

 記事の中ではそれ以前に「斑鳩寺」は焼亡してしまっていますから、一般にはこの「争論」記事はその後のことと考えられていますが、「補闕記」の冒頭にもあるように、この「元」となった資料は「ふたつ」あり、この後半部分は、「火災」を記した「前半」とは別資料と考えられ、年次が連続しているとは断言できません。
 この段階で「寺」と言って何の注釈も入れていないのは、まだ「斑鳩寺」が存在していることを示すとも推測され、「斑鳩寺」がまだ存在している段階で起きた争論に対して、その解決に中心的役割があったとする「付会」の文章であると考えられ、「年次」を拘束するものではないと考えられます。
 これについて「東野氏」は「庚午年籍」造籍と関連しているものと考えられたようですが、推定される年次が「干支一巡」繰り上げて考える必要がある事や、また「斑鳩寺」があった時期を考慮する必要があるとすると、「庚午年籍」ではないこととなります。
 「六二〇年」という年次に「急いで」「奴婢達」の身分について確定する必要があったとすると、やはり「造籍」と関連しているのは確かであると考えられますが、そうであれば「正倉院」に残る戸籍からの分析として「女子人口」のピークが確認される「最古」の年が「六三〇年」であることとつながります。これはその十年前に「造籍」が行なわれ、戸籍がその時点で確定したことを示すものであること、その時点以降「十年後」の再造籍までに生まれた子供達を「一括」して記録したものと思われるわけです。この「六二〇年」はその「起点」となった年であり、この年次で最初の造籍が行なわれたことを示すと思われます。
 更に、同じく「正倉院戸籍」における「筑紫」地方の戸籍の様式が「両魏式戸籍」と近似していると判断される事ともつながるものでしょう。この「両魏式戸籍」は「隋」の時代以降は行なわれていないわけですから、「遣隋使」によってしかもたらされるはずのないものだったと言えます。であるとすると「六二〇年」という年次は、まさに「遣隋使」によりもたらされたその瞬間と言っても良いぐらいのものですから、ここでの造籍を想定することは合理性があることとなります。
 
 またこう考えると、『書紀』の六七〇年の「火災記事」は「事実ではない」ということとなります。
 確かに「法隆寺」に伝わる伝承では「創建以来」「火災」には遇ってはいないとされています。火災にあったのは「法隆寺」の「前身寺院」であり、「法隆寺」そのものではないということです。
 そもそも、「若草伽藍」と「法隆寺」はその「配置様式」から全て異なるものであり、同じものを再建したものではないわけですから、この時点では「新築」か「他からの移築か」いずれかしか考えられないのは明らかです。
 それを考える場合、「法隆寺」の各所に使用されている部材の年代が参考になると考えられます。その中には、かなり「新しい」ものも含まれており、これは「創建のままである」という伝承とは矛盾することとなります。ただし、古い部材もかなりの割合を占めており、逆に考えると、「法隆寺」がもし新築された建物であるなら、このように古い部材がなぜ多いのかを説明する必要がある事もまた確かでしょう。
 伐採された部材を「寝かせる」期間は、それが「太く」「長い」部材である場合は「あばれる」量が多くなり、寸法に狂いが出るものですから、長めに取るでしょう。(十年以上など)しかし、端材などの場合はそのような懸念も少ないわけですから、それほど長い期間は必要ないものと考えられ、せいぜい二〜三年と考えられます。
 「法隆寺」の場合「年輪年代測定」された部材の一番早期(古い)のものは、「金堂」の場合で「六五〇年」と測定されており、「最新」との差は二十年以上となるわけですが、「五重塔」の場合はもっと広く「心柱」を除いても「五十年」以上の年代差があります。
 もし「新築」であるとするともう少し伐採年代が揃っているものと思料され、そのことからも「新築」ではないと推察され「移築」である可能性が高くなります。そう考えると「新しい」と考えられる部材の年代は限りなく「移築」の年次に近いことが考えられます。
  一般に新築の場合は「法興寺」などがそうであったように「山に入る」などして「新しい部材」を調達します。しかし「法隆寺」には逆に「新しい」と考えられる部材もまた少ないわけですから、「少なくとも」「新築」された建物ではない、という事が言えると思われます。「新築」された建物でなければ、それは「移築」としか考えられません。
 部材のもっとも新しい伐採年代が「六七〇〜六七三」年付近であると言うことは、その「直後」付近の年次が「移築」の年次ではないかと推定されるものであり、「六七五年」付近が想定できるものです。
 つまり、「斑鳩寺」は「六二〇年」に火災に遭い、焼失してしまったものであり、その跡地に「法隆寺」を移築したのです。その「法隆寺」は「筑紫」に「六〇七年」に建てられたものであり、それは「阿毎多利思北孤」のために「利歌彌多仏利」が建てたものと考えます。
 そして「火災」があったとされる「庚午年」(六七〇年)という年次は、「移築」が「決定」した年次であったのではないでしょうか。そして、以前からここに「法隆寺」があったことを「装う」為に「火災記事」を置いたものと思料します。
 
 また「法隆寺」には「幡」(灌頂幡)が何点か伝来しています。そこには「年次」が書かれているものがありますが、その「幡」の様式などから「八世紀に入ってからのもの」という推定がされているようですが(※2)、私見によればそれは疑わしいと思われます。なぜならそこには「大寶」とか「慶雲」というような「年号」が(一点を除き)書かれていないからです。少なくとも「年号」と「干支」の併用が為されて然るべき時期であると思われますが、そこでは「干支」しか書かれていません。
 ちなみに年次の「干支」表記は「壬午」「戊子」「壬辰」「己未」「辛酉」「癸亥」の各年であり、これらは各々「六八二年」「六八八年」「六九二年」「七二九年」「七二一年」「七二三年」と推定されています。
 しかし「大寶」建元以降は「年次表記」は「年号」によるというルールが定められたものであり、木簡なども「年号」「干支」の併用あるいは「年号」だけというスタイルに代わっています。(月日は別ですが)
 (『養老令』(以下)では以下に見るように「公文書」には「年号」を用いることとされたものであり、これは「民間」でも同様の事が行われたと見られ、「年次」を表記する場合には「年号」或いは「年号」と「干支」の併用というのが習慣化されたものと見られます。)

(儀制令公文条)「凡公文応記年者。皆用年号。」

 しかしこの「幡」では「干支」しか書かれておらず、これはその年次として「大寶」以後であるとは言い難いことを示すと思われ、それ以前のものである事が示唆されます。そうであればいずれも想定よりも六十年ないし百二十年遡上した時期を想定すべきこととなります。そうであれば「壬午」は「六二二年」、「戊子」は「六二八年」、「壬辰」は「六三二年」、「己未」は「六〇九年」、「辛酉」は「六〇一年」、「癸亥」は「六〇三年」という年次が推定されることとなるでしょう。
 実際にこれらの推定は「幡」の様式とも矛盾していません。この幡は「第一部」(最上部の区画)がかなり縦長であり、これは「古式」と考えられかなり時代が遡上する可能性を含んでいます。それは「隋代」が最も考えられるものであり、「遣隋使」という存在を抜きにしては考えられません。(この区画部分の形状は「初唐」段階では既に正方形に近づいていますから、この「法隆寺」の幡の年代を八世紀に入ってからのものとすると年代と形状が齟齬します。)
 これらのことから「法隆寺」に残されている「幡」はそのほとんどが「隋代」付近の製作であると思われ、それは「法隆寺」という寺院そのものの創建年代をも表していると思われることとなり、「七世紀初頭」段階で「法隆寺」が創建されていたという可能性を強く示唆するものです。

 このような推測は「西院伽藍」に残されている「梵鐘」の様式などからも言えることのようです。
 その「梵鐘」は、鋳上がりの程度や造形についての技術が「拙劣」であるという評価がされており(※3)、あきらかに創建時のものではなく、移築時点に新たに製造されたものと考えられることなります。しかし「観世音寺」や「妙心寺」の鐘のようにこの時代を少し下る時点で非常に優秀な「梵鐘」が「筑紫」では製造されており、それはこの「西院伽藍」の「梵鐘」が「筑紫」の製造ではなく現地である「飛鳥」で作られたことを示すものと思われることとなります。つまり「移築」に際して「鐘」が破損するなどのトラブルがあったものとみられ、新たに製造する必要が発生したということと思われますが、この「移築」が「倭国王権」の直轄事業であるなら、その「鐘」の再作製も同様に「倭国王」の直轄として行われたはずであり、「筑紫」の工房で鋳造されて当然と思われるのに対して、実際にはそれが現地の鋳物師により鋳造されているらしいという事の中に「移築」の主体が「倭国王権」ではなかったことが強く示唆されるものです。

 また「法起寺露盤名」によると「上宮聖徳王」の遺言により「福亮法師」が「法起寺」の「堂宇」(金堂)を建てたとされていますが、この「法起寺」はその「形式」が現行の「法隆寺」の形式と違い、「東面金堂」と考えられています。この形式は「法隆寺」の解体調査から判明した「法隆寺」の元々の形式に非常に近似していると思われ、参考にされたのが少なくとも「現行」の「法隆寺」でないことは明確です。
 逆に言うと、「原形式」で建っていた時点における「法隆寺」に「準拠」しているとも考えられ、建立された「戊戌年」(六三八年)という時点で「移築」前の「原・法隆寺」が建っていた証拠であるとも考えられます。


(※1)光谷拓実「年輪年代法と文化財」(『日本の美術』421 号2001 年など)
(※2)沢田むつ代「上代の幡の編年」(『繊維と工業』60号2004年)
(※3)坪井良平『新訂梵鐘と古文化 つりがねのすべて』(ビジネス教育出版社2005年)


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/04/08)