「法隆寺」については「五重塔」心柱伐採年次が「年輪年代測定法」により「五九四年」と確定したわけですが、『書紀』の中で「五九四年」の前後の項を見てみると「法興寺の用材を切り出しに山に入った」旨の文章など「法興寺」の関係の記事で埋められており、「法隆寺」の影も見えない状態です。『書紀』をみるとこの頃は「法興寺」の建築が最大関心事であり、重要なスケジュールとなっていたようです。しかし、実際には「五九四年」に伐採された材料が「法興寺」ならぬ「法隆寺」に使用されているわけです。
仏教用語として「法興」と「法隆」とは対語です。「法興」とは最初に「仏法」を「興す」ことであり、「法隆」とは一度「興された」「仏法」を再び活発にすることです。(これは「重興仏法」という用語に近い意味があるようです。)このことからもこの二つの寺に、ある特別な関係があることは容易に想像されます。
『法隆寺伽藍縁起竝流記資材帳』(いわゆる「西院資材帳」)には以下のように書かれています。
「合食封参佰戸
右本記云、又大化三年歳次戊申九月廿一日己亥、許世徳陀高臣宣命納賜己卯年停止。」
「小治田/天皇大化三年歳次戊申九月二十一日己亥/許世徳陀高臣宣命為而食封三百《火+因》/入賜〈岐〉」
つまり、「大化三年」に「許世徳陀高臣」が「天皇の命」により「食封」に相当する戸を施入したとされているわけですが、それが「停止」されたのが「己卯年」であるとされているわけです。しかしに「小治田/天皇」とは「推古」を表すと思われますから、「大化」という年号とは時代が合いません。表記された「戊申」という干支から云うと「六四八年」ではなくその六十年前の「五八八年」がもっとも可能性が高く、「食封」が停止されたという時期も「六七九年」ではなく「六一九年」ではないかと思われるわけです。
さらに「戊午年」に行われた法華経(勝鬘経)講義を受け、「高施徳陀」大臣が「播磨国」の「五十万代」(一代は八尺四方の広さ、一町が三百尺四方)を施入し、それを「伊河留我(斑鳩)本寺」「中宮尼寺」「片岡僧寺」分の寺封としたと書かれています。
「戊午(五八九年か)年四月十五日請上宮聖/徳法王令講 法華勝鬘等経岐/其儀如僧諸王公主及〈臣〉連公民信/受無不喜也講説竟高座尓〈坐〉奉而/大御語〈止〉為而 大臣〈乎〉香爐〈乎〉手フ/而誓願〈弖〉事立〈尓〉白〈之久〉七重寶〈毛〉非常/也人寶〈毛〉非常也是以遠〈岐須賣/呂次乃〉御地/〈乎〉布施之奉〈良久/波〉御世御世〈尓母〉不朽滅/可有物〈止奈/毛〉播磨國依西地五十万代布/施奉此地者他人口入犯事〈波〉不在〈止〉白/而布施奉〈止〉白〈岐〉是以聖徳法王受/賜而此物〈波〉私可用物〈尓波〉非有〈止〉為而/伊河留我本寺中宮尼寺片岡僧寺/此三寺分為而入賜〈岐〉」(『法隆寺伽藍縁起竝流記資材帳』より)
この「戊午年」についても「五八九年」と見るべきですが、そうであればこの時の「法華経」講義の主体が「聖徳太子」(文中では『上宮聖徳法王』)ではなく「隋使」つまり「裴世清」ではなかったかと考えられる事となります。そうであればこの講義以降に「三経義疏」が書かれたとすると矛盾が生じるでしょう。それは「遣隋使」の歴史と整合しないからです。
「遣隋使」がもし『書紀』(あるいは『隋書』)の記述通りであったとしても、「六〇〇年」や「六〇八年」には「遣隋使」が送られているわけですから、「堤婆達多品」が補綴された「法華経」が伝来して当然といえますが、そうであれば「六一〇年代」に成立したとされる「三経義疏」に「堤婆達多品」が欠けている理由が不明となってしまいます。
既に述べたように『書紀』は『隋書』に合わせるべく原資料から相当の年数移動していることが推定され、「開皇年間の前半」つまり「五九〇年より以前」の記事が「六〇八年」の年次で書かれているとみられます。つまり移動年数としておよそ二十年が推定されるわけですが、それは同様に他の『推古紀』の記事についても移動の可能性があることを示唆します。
その『書紀』の記事に『縁起』が「整合」させられているという可能性が高く、その場合「六〇七年」とされる「隋使」の来倭は実際には「五八八年」であるという可能性が高いものと推量します。そう考えると、この「講義」の主体は「隋使」であり、それは「皇帝」が発した「訓令」の中味を伝達する一環であったことが考えられます。つまり「皇帝」(「隋」の高祖「文帝」)は仏教を国家統治の中心に据えたのであり、同様のことを「絶域」である「倭国」に求めたと推量されるわけです。そう考えるとこの時の「法華経」は(「天台智」により)「提婆達多品」が添付された「最新」のものであり、その意味では「三経義疏」の内容と矛盾しているのは「三経義疏」の成立がこの「講義」にかなり先行した時期であったからとみるべきこととなります。
実際に「百済」経由で「法華経」(これは提婆達多品が補綴されていないもの)がもたらされたのは「五八〇年」付近が想定されます。そうであれば、この縁起」に記された「伊河留我(斑鳩)本寺」とは「法隆寺」の前身寺院である「若草伽藍」を指すものではないかと考えられます。
発掘された「若草伽藍」の「レイアウト」や「瓦」などの素材もすべて「百済」に関連しているとみられることからも、「法華経」の伝来はこれら「若草伽藍」などの創建年次に近いことが推定されますから、この時伝えられた「法華経」に対する「法華義疏」などに「提婆達多品」が脱落しているのも当然であり、それは『書紀』の記事の年次配列に疑いを抱くのが当然といえることを示します。
従来からこの『縁起』については記述内容も曖昧であって、「法隆寺」の創建時期が明確でないことが挙げられていました。
既に述べたように現行の「法隆寺」はその関わる全てにおいて「百済」の影響が見られず、「隋」ないしは「初唐」と思われるものしか確認できません。このことからも「法華経講義」と「若草伽藍」(斑鳩寺)の間に関連があるのではなく、その後身といえる「法隆寺」との関連を考えるべきこととなるでしょう。(『縁起』の日付が「干支」で書かれていることもそれを裏付けるものであり、後代的と思われるわけです。)
「法隆寺」は「五九四年」と測定されている心柱以外の部材は(「六二四年」伐採のものもあるものの)「かなり遅い」年代のものが多く、それを詳細に眺めると「金堂」に関しては一番新しい部材でも「六七〇年より以前」に伐採されたものが使用されていると考えられるのに対して、「五重塔」の場合は「六七三年より以前」の部材が使用されていると考えられています。このことは「金堂」と「五重塔」にはその建立年代に違いがある、という事を示しています。
また、これらのことは『書紀』が言う「法隆寺」の火災における表現「一屋余すなし」という「全焼」記事とも大きく矛盾するものです。「法隆寺」ではこの寺は「聖徳太子」創建のままであるという伝承を持っていました。つまり「火災」になど遇っていない、と言うのです。この伝承に従えば「六七〇年」に焼けたとされているのは「別」の寺院である、という事となります。そう考えると上に見た「前身寺院」と思われる「斑鳩寺」という寺の存在が注目されます。
「舒明」死去後「田村皇子」と「山背大兄皇子」の間で後継争いが起き、「山背大兄皇子」が立てこもったのが「斑鳩寺」とされます。この直前に「聖徳太子」の宮であった「斑鳩宮」が焼かれ、同様に「聖徳太子」ゆかりの寺である「斑鳩寺」についても攻撃を受けます。
「(皇極)二年(六四三年)十一月丙子朔。…「巨勢徳太臣等燒斑鳩宮」…。」
そして、この寺はその後『書紀』で「法隆寺」に火災があったと記す一年前に同様に「火災」に襲われているようです。
「(天智)八年(六六九年)是冬。修高安城收畿内之田税。于時災斑鳩寺。」
ところで、『書紀』中でも「斑鳩寺」と「法隆寺」が同一であるとはどこにも書いてありません。「法隆寺」については「聖徳太子」との関連も『書紀』中では触れられていないのです。
しかし、一般には「斑鳩寺」と「法隆寺」は同一視されているわけですが、(それは「聖徳太子」に関する各種の伝記などの影響と考えられますが)明らかに、この両者は「別」の寺院であると考えられます。なぜなら、「法隆寺」の地下から別の寺院跡が発見されており、こちらが「斑鳩寺」であると考えられるからです。
また、「法隆寺東院」の地下からも「遺構」が発見され、これについては「斑鳩宮」跡と推定されているようです。この「遺構」には火災の痕跡が確認され、『書紀』の記事から、「皇極二年」(六四三年)のことと考えられています。
この「斑鳩宮」は『書紀』によれば「聖徳太子」が自身の宮として営んだものとされています。
「(推古)九年(六〇一年)春二月。皇太子初興宮室于斑鳩。」
これによれば「斑鳩寺」とほぼ同じ時期に造られたと見られます。
上で見たように「己卯年」(実際には「六七九年でも六一九年でもないと思われますが)という年次が「元興寺」から「法隆寺」へ「寺名」が切り替えられた年と考えられるものであり、この「食封停止」が書かれた「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」の「原資料」となったものは「元興寺」に関するものであったと考えられ、「寺名」が変更になった結果、(推測によれば移築も行われたものと思われます)「名前」も「実体」も「筑紫」から「消えてしまったと云うことが「食封停止」の直接的理由であったと思料されるものです。
ところで、『聖徳太子傳補闕記』の記事によれば「乙卯年」の記事に連続して「庚午年四月卅日夜半有災斑鳩寺…」という記事が書かれています。しかし、「乙卯」の次の年は「庚辰」であり「庚午」ではありません。ここには明らかな錯誤か混乱があるわけですが、「東野治之氏」は其の論文(「文献資料から見た法隆寺の火災年代」)の中で、「火災記事」が「乙卯年」の翌年に配されているにも拘わらず「干支」が「庚午」であるのは、『書紀』に記された「法隆寺」火災記事が「庚午」であることとの関連で、「正しい」とされ、そのまま「六七〇年」の「庚午年籍」と結びつけられました。しかし、それでは「太子在世中」ではなくなるはずですが、それにはコメントされていません。
これは「乙卯年」の翌年なのですから「本来」は「庚辰年」であったものを、『補闕記』の作者が『書紀』の表記に「引きずられ」た結果、「庚午年」と誤記したと考えるのが正しいと思われます。そうなると、「太子在世中」という考えからはこの「乙卯年」は「六一九年」、その「翌年」である「火災記事」は「庚辰年」の「六二〇年」と推定されます。この「直後」の「太子」の「愛馬」の記事も「辛巳」の年のこととして書かれており、この「辛巳」という干支が「六二一年」を示すことから、「前後」の干支の連続性が確保されているという点では「庚辰」年と解釈する方がはるかに良いと思われます。
そもそも、この「補闕記」の「年次」は全て「六世紀後半」から「七世紀初め」の事と考えられますので、ここに「庚午年」という年次で記事が挿入されている事自体が甚だ不審であり、疑わしいものです。
(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2017/07/22)