この「法隆寺」が元々あった場所について推定する方法としては、その建築技術が先ず挙げられます。
上に述べた「心礎」の状態(地上に出ている)というのは、「七世紀」の「近畿」の状況とは合致しません。「近畿」ではこの「七世紀」という時代には「心礎」は「地下」にあるわけであり、このような技法を持っていた地域は「筑紫」しかないのです。
つまり、「法隆寺」に使用されている建築技法は「筑紫」のものとみられるわけですが、「法隆寺」に使用されている「寸法」(尺度)についても同様に「筑紫」に関連するものであることが判明しています。
従来から「法隆寺」の建築の際の「基準尺」が「近畿」の近隣の寺院とは全く違うことが知られていましたが、その詳細は不明でした。そこに使用されている基準尺は「半島」から渡来した「高麗尺」というものであるとされていました。しかし、実際に「高麗尺」で各部の寸法を当たると各所で「端数」が出るのです。このため「高麗尺」そのものの存在が疑われ、他に整合する「尺」を探していろいろな説が出されていました。
川端俊一郎氏の研究によれば(※1)「法隆寺」は「営造法式」で造られており、また「殿堂法式」として造られたとされます。「殿堂法式」の場合は「一等材」が使用されるとされ、「営造法式」によれば「一材」としては「宋尺」の8.25寸とされることから、「宋尺」は約32cmだったので、一材は26.5cmほど(正確には269.5o)ほどとなり、明らかに「唐尺」(=296mm)や「高麗尺」(唐尺の一尺二寸)とは異なる数字となるとされます。(「宋」は「北宋)を指す、以下同じ)そして氏はこれは実際には「南朝尺」(=245mm)の1.1倍と考えるべきであり、「法隆寺」がその基準となる尺を「南朝」由来のもの(「営造法式」に言う「二等材」)としていたとされるわけです。
しかしこの考え方には二つ問題があると思われます。それは「南朝尺」の「1.1倍」という数字がどこから出てくるかということと、「宋尺」を基準寸法としていることです。
「隋王朝」成立後、度量衡を新たに定めたとき、「隋尺」は「南朝尺」の1.2倍とされたものであり、その時点以降「隋尺」を「大尺」、「南朝尺」を「小尺」と呼称することとなりました。つまり「南朝尺」と「隋尺」との間には一定の(換算可能)な関係があるわけであり、「営造法式」における「材」の寸法として「南朝尺」に対する一定の比率が存在するとしても、それが「隋尺」や「唐尺」あるいは「宋尺」とは「関係がない」とは言えないこととなります。そうなると「材」と「分」によって「法隆寺」が作られていることは確かとは思われるものの、それが「南朝」の「尺」を基準にしているとは即断できないこととなるわけです。つまり「法隆寺」における一材寸法としての「269.5mm」というものの算出基準が不明なのです。
「宋代」のものとして出土している「尺」としては10支程確認されていますが、かなりばらつきがあり平均的なところとしては310mmほどが民間では使用されていたとみられますが、他方「宋王朝」が公定していた「宋官尺」としては「307.2mm」があったとされ、そこから考えても「269.5mm」という材寸法は「一等材」とされる「8.25寸」にはなりません。
また「法隆寺」の推定される建築年代として「六世紀末」が推定されていることから考えて(心柱の伐採年代として「五九四年」が推定されています)、この寺院の建築に「北朝」(「隋」)との関係を考えるべきこととなります。
これに関してはすでに「隋使」「裴世清」と「遍光高」等の一行が「元興寺」の完成を見届ける為に「来倭」したらしいことを考察しましたが、この「元興寺」という寺院そのものも「隋」の技術が入っているという可能性があると思われます。さらに私見では「元興寺」と「法隆寺」とは「同一の存在」と見るわけですが(後述)、その場合「元興寺」と「隋尺」が関連があるとして不自然ではないこととなります。
その「隋尺」としては「296.7o」程度が通常措定されますから、その比で考えるとおよそ「九寸」となります。つまり「営造法式」に則れば「一等材」よりも太い在が選定されていることとなるわけです。
このことには(当然)意味があると思われ、「規格外」の太さが採用されていることとなるわけですが、それは「皇帝」に直結するものだからという解釈が想定できるでしょう。いわば「超一等材」というわけです。これについては当時「文帝」肝いりで作られた他の寺院(「大興善寺」など)が残っていてその在の太さを確認できればわかることなのですが、その後行われた(唐代の)「廃仏毀釈」により古代からの寺院はほとんど廃棄されてしまったためそれが叶わないこととなっています。そのため、現状では詳細は不明としかいえないわけですが、「営造法式」の規格を超えていることには充分留意する必要があるでしょう。
ここで隋尺の「九寸」という寸法が選定されているとすると、その「九」という数字に秘密があるかもしれません。「易経」によれば一から十までの数字を「奇数」と「偶数」に分け、「奇数」が「陽」であり「天」であるとされました。「九」は「天数」の中の最大であり「極値」です。このことから「材」の寸法として「九寸」という太さが選ばれたという可能性があるでしょう。
(これを「古韓尺」という「半島」に存在していたという「古尺」に想定する考え方もありますが(※2)、今見たように「隋」からの直輸入でこの寺院が作られたとみると、「半島」由来のものではなく「中国」の古式に則ったものであったという可能性を考えるべきでしょう)
また、「観世音寺」や「太宰府政庁」についても同様に「営造法式」に則っているらしいことが推定され、(こちらは「隋唐尺」の八寸(≒240mm)が「在」の寸法として想定されます)「筑紫」に建てられた建物の類にはすべて「中国」の古代技術が導入されていたこととなります。(ただしこれらは「法隆寺」とはやや時代が異なるとは考えられ、やや遅い時期を想定すべきですが)
このように「法隆寺」と「筑紫」に存在していた建築物とが同様の建築技術であったこととなるわけですから、このことは「法隆寺」が元々建っていた場所を如実に示していると考えられるものであり、「法隆寺」は「筑紫」にあったこととなると推定されることとなります。
また、その本来の配置(レイアウト)は「小口」の出方の違いなどから「東面金堂」であったと考えられ、現在「観世音寺式」と呼称されている建物配置は、本来「法隆寺」(元興寺)に始まるものであり、「元興寺式」とも称されるべき配置であったと考えられます。
この「配置」は「阿弥陀仏」を主尊に戴く場合には当然ともいえ、これが寺院建築の本流のものであり、「筑紫」に建てられた時点で「隋」から直輸入された寺院建築における「思想」によってその「配置」も決定されたものとみられます。
この「様式」は「四天王寺式」や「若草伽藍」などとはかなり異なるものであり、その違いはこれらが「百済」を通じてもたらされた「南朝」の形式のためと理解できます。このような様式は「百済」の首都であった「泗〔さんずい+比〕都城に存在していた「定林寺」と同様であったことが、出土した遺跡から明らかとなっています。
この「法隆寺」タイプのレイアウトはその後の寺院の建築の基準となったと考えられ、この様式を踏襲したものに「観世音寺」や「川原寺」「志我山寺(崇福寺)」があったものであり、これらをみると「天智」が創建したとされる寺院ばかりであることがわかります。
これらのことからこの「法隆寺」の当初の建築に当時の倭国王「利歌彌多仏利」(あるいは「難波皇子」)が深く関わっているのは確かであると考えられ、「天智」がその影響を強く受け、そのしそうと技術を継承しようとしていたことが窺えることとなります。
(※1)川端俊一郎「法隆寺のものさし−南朝尺の『材と分』による造営そして移築」(『学園論集』一〇八号 北海学園大学 二〇〇一年)
(※2)新井宏『まぼろしの古代尺―高麗尺はなかった』一九九二年
(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2017/01/06)