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「法隆寺」解体修理書の疑問点と「移築」


 米田良一氏により、「法隆寺」については「移築」ではないかという観点からの研究が出されています。(※1)以下はそれに沿っています。

 「法隆寺」という寺には「日本最古の寺」という称号が与えられています。その意味は「根本的な」修理が建立以来なされておらず、建造当初の姿かたちをそのまま保っている、ということからですが、実際昭和に入り、「昭和の大修理」という、解体を含む抜本的な修復作業を受けるまではほぼ手付かずの状態であった、という報告がその修復作業の際の「解体修理書」に書かれています。 (江戸時代にも部分的な補修はされているようです)しかし、その「解体修理書」の記載する「法隆寺」の建築技法等に関することには、米田氏によるといくつかの矛盾がある事が指摘されています。
 たとえば金堂と五重塔の基壇の石積みの違いの問題があります。金堂では詰み石の「小口」(端面)の出方が左右に見えるのに対して五重塔では反対に見えない構造となっています。(ちなみに現在の金堂はそうはなっていません、つまり同じになるように後から補修されています。)「金堂」と「五重塔」とで「正面」が異なることとなります。当然「金堂」と「五重塔」は共通デザインであったはずですから、これは「不審」と考えられるものです。
 また各部の部材につけられていた「位置と方向」を示す符牒についての疑問も提出されています。
 建物を宮大工が組み上げていくときに必要な情報となる「符牒」(記号)が「部材」に記されているわけですが、調べてみると部材の中には示された「符牒」が示す位置、方向が実際の「法隆寺」には「存在しない」ものがあることが確認されています。当然、その「符牒」とは「違う位置」にその部材は入っていることとなります。正しく理解すると、使用すべき場所がないという、はなはだ不可解な状態となっているのです。

 ほかにも、基礎に据えられた礎石は大部分が自然石であり、他の飛鳥地方の同時期の寺(山田寺等)にあるような「柱座」や「地覆座」を作出していないこと、さらに礎石の水平が出ていないため(同じ高さでないということ)柱はその差の分だけ根継ぎされているものがあることなど、基本的には基礎工事が極めて簡単になされているという指摘がされています。
 また、五重塔の「塔心礎」は「解体修理書」によれば、「心柱は基壇上に補入された礎石上から立ち、その下方は空洞となっていた。」とあります。つまり法隆寺においては、心礎は地中深く埋められているのに対し、実際の心柱は基壇面より高い位置にある心礎に乗るようになっていたために、実際には心礎には何も乗っていなかったと解されます。
 この部分については「通説」では腐食のため切り取られたのだ、とされていますが、「解体」せずにどのように切断するのかが疑問であり、「解体」したとすると「一度も解体された形跡がない」という報告書の内容と矛盾するものと考えられます。

 一般に建物の心礎(心柱用の基礎)の高さは、地域と時代によって異なっているのですが、「飛鳥時代」の大和地方では基壇面より3mほど下がった地中にあるのが通常です。それが時代が進み「奈良時代」になると心礎の位置が上昇してきて基壇面とほぼ同じ高さになります。
 この心礎の深さの変化、というものはおそらく地中に埋められた部分の木部の腐食を防ぐ意味などもあって、心柱を地上に出す必要から心礎が上昇してくるものと考えられます。
 「五重塔」の場合、心礎は確かに「2.7m」基壇面から下がった地中に据えられていたので、この点は他の「明日香」地方の寺と違いはないのですが、実際には心柱は地下まで降りてきていなかったのです。これは明らかに「基礎」に関わる技術レベルとその上に乗る「建築」レベルに明確な差があることを意味し、両者が同一人物であったり、同一の技術者集団とは見られないことを示します。

 他にも、建物内部にあったはずなのに長年月風雨に曝された形跡があるものなど、疑問とすべき部分があり、法隆寺がすべて新品の部材で建築されたのではない、というよりそもそも「新築された建物ではない」のではないかという疑問が提出されたわけです。

 ところで、「昭和の大修理」の際に(一九四三〜五四年)五重塔の心柱の最下部2mほどが腐食していたと判断されたため(空洞があったもの)切断され、新しい木で根継ぎされました。この時切り取られた柱はその後「京大木質科学研究所」に保管されていたのですが、近年になり「年輪年代測定法」という技術が実用になり、この方法を用いて計測した結果、心柱最外輪は「五九一年」に形成されたことが確認されました。
 (この心柱の部材が保存されていたのは、その時点では実用化されていなかった「年輪年代測定法」がいずれ実用化されることを期待して保存していたものです)
 これに関連して、銘文中に出現している「法興元三十一年」が「辛巳の年」とされていることから、西暦で言えば「六二一年」と判断され、逆算すると「法興元年」は「五九一年」となります。この年に改元されているところから見て「上宮法王」がこの年次に即位したないしは「菩薩戒」を受けた(出家した)事を示すと考えられますが、それは「五重の塔」の心柱の最外部の年輪が形成された年でもあるわけであり、この二つが関連していると考えるのは自然です。
 実際の心柱は八角形をしており(最大幅約78cm)、また通常「スギ」などの材料では強度の関係から最外部の十〜五十年間程度に相当する部分が削られることが多いのですが、法隆寺の場合は「ヒノキ」材であり周辺まで硬いことが多いので他の木に比べ一般に使用可能部分が多くなります。
 さらにやはり、即位ないしは菩薩戒の年と同じ年が年輪の確認される最外部であることは偶然ではないように感じられ、ほとんど最外部まで使用されているのではないか、と考えられます。
 (この点については最新の研究(※2)により、この最外輪の外側に「白太」と呼ばれる建築材料としては不適な部分が存在することが確認され、その部分は「三年間」分であった、という報告が出ました。つまり、伐採年は「五九四」年と最終的な結論が出たのです )
 心柱の伐採年代が確定したことにより別の問題が発生しました。それは「法隆寺」の再建問題と関係しています。

 米田氏からは「移築説」が提出されているわけですが、「法隆寺」については以前から(今でも)「再建説」と「非再建説」とがあり、「再建説」は『書紀』の「六七〇年」の項にある「法隆寺に火災あり、一屋余すなし」という記事をそのまま信憑した場合の態度です。それに対し「非再建説」の場合はもっぱら美術史家による様式の方面からの考え方です。もし「一屋余すなし」が本当ならば、仏像なども火災にあっているはずであり、寺同様「再建」されたと考えるべきですが、仏像様式が非常に古い面影を残しており、奈良時代初期の作成と考えられるため、「法隆寺」という寺そのものも、仏像などと同様古い建物ではないか、という説(疑問)でした。さらに、講堂などの部分に全く火災の跡が発見されておらず、これらにより『書紀』にある「火災」の記事が虚偽である、という考え方になるものです。
 前記「昭和の大修理」によって、基礎まで解体したところ、現基礎とは別に別の建物の基礎が見つかり、そこには「火災」の痕跡が発見されたのです。その後も「発掘調査」が継続され、「前身寺院」である「若草伽藍」の全容がほぼ明らかになりました。
 これにより、現「法隆寺」は「再建」されたもの、という結論が出たわけですが、しかし、以前からの「古い面影を残している」という部分は疑問としてそのまま残ったのです。

 一般に寺社建築技法においては年代順に「切妻造」から「入母屋造」、「寄棟造」と変化、発展してきています。そして、それにつれ「屋根」を支える「垂木」は「平行」な並べ方から「放射状」の並べ方へと変化してきます。これは建物が大きくなると従来の「平行型」では屋根の隅荷重を支えることが出来なくなるためであり、「放射状」にして、垂木が屋根の奥「棟」の位置まで入って初めて、屋根の荷重を均等に受けることが可能となるのです。
 「法隆寺金堂」の場合は「入母屋造」であるのに、垂木は「平行式」となっており、これはかなり古い技術が使われているといえるでしょう。
 また、「部材」の伐採年代が数十年に亘るというような状況から考えて、少なくとも「法隆寺」が「新築」されたものではないことは明らかと思われます。
 一般に「新築」の場合(例えそれが火災後の再建であっても)、計画が立てられてから必要な部材の確保が始まるわけであり、基本的には全て「新材」を用意することとなるでしょう。そうすると「伐採年代」はある程度「狭い」年次範囲の中に集約されることとなるわけですから、「法隆寺」のように「散らばった」年代を示す事はないと考えられ、このことから「法隆寺」の部材は「新築」のために集められものではないことを示していると考えられることとなります。
 このように部材の年代が広範囲の年次に亘っている事および、建築技術的に「古い」という理由を説明できるものとしては、ただひとつ「移築」しかないと思われます。つまり、現在の法隆寺は、「斑鳩寺」(若草伽藍)が「焼失」した跡に「他のどこか」から「寺院」を移築したものと推定されるのです。


(※1)米田良三『法隆寺は移築された』一九九一年、『建築から古代を解く』一九九三年 新泉社
(※2)


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/11/07)