ところで、『平家物語』他を見ると「厳島神社」の創建の伝承として「神功皇后」が出てきます。
「開祖」とされる人物は「神功皇后」には妹、「龍王」の「八歳の娘」(龍女)にも妹、「淀姫」には姉とされています。またその「創建」の年を『書紀』の「崇峻」年間の「五九三年」としているのが確認できます。さらにこの「祭神」を「宗像三女神」のひとりである、「市杵島比売大神」とする伝承もあります。
このように「厳島神社」と「神功皇后」の時代を「年次付き」で現在時点として語られている伝承が存在していると言うことが重要です。このように「創建」の年代に関連して「神功皇后」の時代が設定されている意味は何でしょうか。
このような「伝承」が『書紀』に書かれた内容を「無視」して成立するとは思えません。それでは何の「威厳」も「説得力」もなくなってしまうからです。
古代においては「国家」の権威と寄り添うことが自己の権威の確立に必須であったと考えられるものであり、そのような時代において、その「国家」の成立について述べた『書紀』と反する時系列を表明する伝承や説話を生成・存続させることに何の意味もないと思われるものです。
このことは、この「伝承」が語る事実と整合する国家の「成立事情」というものが「実在」していたことを示すものと推定され、それを反映したものが「神功皇后伝承」であると考えるのが、一番合理的な理解の方法であると思われます。
「西村氏」が云うように「天下り神話」の重要な部分は「海幸彦山幸彦神話」であり「潮満瓊潮干瓊伝説」です。「山幸彦」が海へ行って釣り針を捜して「龍神」の宮へ行き、その帰りに「潮満瓊潮干瓊」を貰って帰るというわけです。
もちろん「神話」の中には、古来より「口承」で伝えられた「昔語り」様の伝承の類なども含まれていると思われますが、一部については「後代」に「新しく」造られた、或いは新しい「知識」「情報」により「変改」されたものもあったのではないかと考えられ、そのようなものの中に「海神」から「潮滿瓊及潮涸瓊」を渡されるようなタイプの神話が有ったと推測します。
つまり、古来より伝えられてきた「純粋」な「神話」が底流にあり、それを「アレンジ」してこの「潮滿瓊及潮涸瓊」が出てくるストーリーが「後から」造られたと考えられるものであり、このような「新しい」と考えられるストーリーに強く関係していると思われるのが『賢愚経』や『大方便仏報恩経』という仏教の経典に出てくる「説話」です。
そこには「善の兄王子と悪の弟王子」という兄弟の存在、「善の王子が衆生のために如意寶珠を取りに行く」話、「善の王子が龍宮で如意寶珠を手に入れる」等々「海幸彦山幸彦神話」に類似した点が数多くあります。つまり、「龍神」と「龍王」、「海幸」「山幸」と「釈迦」「提婆達多品」、「潮満瓊潮干瓊」と「如意寶珠」というように各々の登場人物とモチーフ、鍵を握る「珠」他状況設定等の対応が明確であり、この二つの説話が深い関係にあることは確実です。これらの経典はかなり早い時期に「北魏」などで漢訳されており、「南北朝期」(五~六世紀)には中国国内でかなり著名であったものです。これらの経典が倭国にも早期に伝来していたという可能性もあると思われます。
このような「酷似」が発生する要因ないし状況には二つの可能性があると考えられます。一つはこのような「仏教説話」あるいはそれがまとめられた「類聚」の類が「六世紀後半代」に倭国に伝来し、それの影響を受けて「同時代」(すぐに)に「海幸彦神話」が形成されたという場合です。この場合は「説話」の伝来に直接リンクして、「リアルタイム」で「神話形成」が行なわれたこととなります。
もうひとつは「後代」つまり「八世紀以降」の『書紀』の編纂過程において「仏教説話」が利用され、それを「種本」として『書紀』が書かれたという場合です。この場合であれば、全て後代の「改定」と「潤色」で固められていることとなるでしょう。
いずれの可能性が高いのかと云うことを考えると、『古事記』の内容が「推古」までしかないことの他『隋書俀国伝』に「如意寶珠」記事があるという重要なポイントがあります。
『隋書俀国伝』には「隋」の「開皇二十年」(六〇〇年)に「倭国」からの「使者」が述べた記事の中に「俗」の信仰として「如意寶珠」があるとされています。
(ただし、この記事は後で述べるように実際には「十年」程度の遡上が措定され、「五九〇年付近」のこととなると思われます。)
このことは実際の問題として「如意寶珠」についての信仰が「六世紀末」の「列島」に存在していたことを示すものであると言えますが、それは「如意寶珠」との関連で「海幸彦山幸彦神話」がこの時点で形成されたと考えても不思議ではないことをも示すものです。
またそれを示すのが、「宇佐神宮」に「如意寶珠」信仰があったことが資料から判断できることです。それらの資料によればかなり古い時代のこととして「如意寶珠」信仰について書かれており、そこに書かれた年次(干支)から考えても「六〇〇年」以前であるのは確実であり、それは『隋書俀国伝』の「如意寶珠」とほぼ重なる意味を持っていると思われます。
そう考えると、『隋書俀国伝』に言う「巫覡」と「宇佐神宮」の「神官」や「巫女」という存在は「如意寶珠」を媒介としてつながっているといえるでしょう。
これらのことから「六世紀末」以前に「北朝」から「半島経由」で「如意宝珠」と「釈迦の兄弟」に関する説話の類が伝来していたことを示すと思われ、「俗」(民間)にこの「如意寶珠」に対する信仰が広まり、それは「神話」の構成から考えてまず「海人族」を中心に受容されたことを示すと思われます。それは「宇佐」そのものが「海人族」の信仰の中にあったことからもいえることです。
ところで「聖徳太子」の撰とされる『法華義疏』には「提婆達多品」がありません。「八歳の龍女説話」はこの『提婆達多品』の中に存在するものですから、このことは彼が依拠した「法華経」には「提婆達多品」が「ない」ことになり、その依拠する資料は「天台大師」以前のものであることが明白であることとなります。少なくとも「五八〇年代前半」以前の流入を想定すべき事となるでしょう。そうであれば、有力なものとしては「五七七年」のこととして「百済」から『法華経』が伝来したという以下の記事が相当すると思われます。
「藥恒法花驗記云。敏達天皇六年丁酉。百濟國獻經論二百餘卷。此論中。法華同來。」(『扶桑略記』より)
「(敏達)六年(五七七年)夏五月癸酉朔丁丑条」「遣大別王與小黒吉士。宰於百濟國王人奉命爲使三韓。自稱爲宰。言宰於韓。盖古之典乎。如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。」
「(同年)冬十一月庚午朔条」「百濟國王付還使大別王等。獻經論若干卷并律師。禪師。比丘尼。咒禁師。造佛工。造寺工六人。遂安置於難波大別王寺。」
ここでは「大別王」という人物を百済に派遣して、「仏典」等を招来したというわけですが、その中に『法華経』の経典があった、という事のようです。(『一切経』が招来されたものか)そしてこの『法華経』の中には「提婆達多品」がなかったということとなります。逆に上にみるような「海幸山幸神話」に元となるような経典がそこに含まれていたということは十分考えられます。
このような経緯があったとすると、その後も「如意寶珠」と「満干の瓊」との類似性が強く意識されることとなったものと思われ、謡曲「鵜羽」では「豊玉姫」を語る際に「八歳の龍女」と「如意宝珠」が引き合いに出されています。
(以下謡曲「鵜羽」の一部)
「鵜の羽葺き合はせずの謂委しく承り候ひぬ。さて干珠満珠の玉のありかは何くの程にて候ふぞ。さん候玉のありかもありげに候。誠は我は人間にあらず。暇申して帰るなり。そも人間にあらずとは。いかなる神の現化ぞと。袖を控へて尋ぬれば。終にはそれと白浪の。龍の都は豊かなる。玉の女と思ふべし。龍の都は龍宮の名。又豊かなる玉の女と聞けば豊玉姫かとよ。あら恥かしや白玉か。何ぞと人の問ひし時。露と答へて消えなまし。なまじひに顕はれて。人の見る目恥かしや。隔てはあらじ芦垣の。よし名を問はずと神までそ。唯頼めとよ頼めとよ。玉姫は我なりと。海上に立つて失せにけり。/\。嬉しきかなやいざさらば。/\。この松蔭に旅居して。風もうそぶく寅の時。神の告げをも待ちて見ん。/\。八歳の龍女は宝珠を捧げて変成就し。我は潮の満干の瓊を捧げ。国の宝となすべきなり。」
『書紀』の「神功皇后紀」の「豊玉比売」の説話と「法華経」の「八歳の竜女」説話とが同一のレベルの話となり、混在して理解されているわけです。
「娑竭羅龍王」の「八歳の竜女」は「厳島神社」の創建に関わって「神功皇后」の妹として出て来るわけですが、「神話」では「豊玉比売」という人物は「彦火火出見」の妻として出てくるものであり、「竜王」の「娘」とされます。このことは『書紀』の「満干の瓊」と「法華経」の「如意寶珠」が同一視されていた証明でもありますが、またそれが説話の形成時期として「同一」であるという証明でもあると思われます。(※)
この「龍女説話」が含まれる『法華経』の伝来は「遣隋使」と「隋使」の往還によると考えれば「五八九年付近」のこととみることもでき、そうであれば「厳島神社」の創建が「五九三年」とされていることは、その意味で整合的であり、これらが直接関連していることを示すものです。つまり彼らにより『提婆達多品』が添付された『法華経』が「倭国」にもたらされたものであり、それに啓発されて「八歳の龍女」伝承が「厳島神社」などでみられるようになったものと思われるわけです。それは「神功皇后」の実年代も同様に「六世紀末」であるということを示唆するとものですが、それは別の言い方をするとこの時点付近で「神話」が国家により形成されたと考えることもでき、結局「神話」が「民話」の段階から「国家」としての「建国神話」となる時点の上限は「六世紀の末」付近であることが推測できるというわけです。
この時点で「建国神話」が造られたとすると「建国神話」の登場人物は「現実」(「利歌彌多仏利」時点)での実在の人物と強く「リンク」していると考えられます。
たとえば、「天孫降臨神話」の説話は、「当人」である「瓊瓊杵命」及びその母である「萬幡豊秋津師媛命」、またその父である「高皇産靈尊」(高木神)、「天孫降臨」に随伴する「思兼神」(これも「高皇産靈尊」の子供)、「瓊瓊杵命」の子である「彦火火出見(山幸彦)」、「瓊瓊杵命」の父である「天忍穂耳命」、その更に父である「素戔嗚尊」などで構成されています。
上で考察したように、この「原・日本紀」とも言うべき史書の成立がこの時代であるとすると、これら「神話」中の人物は『神功皇后紀』の登場人物を「媒介」として「利歌彌多仏利」の周辺の人物に同定可能となると考えられます。
たとえば、「神功皇后」は「法隆寺釈迦三尊像」の「光背」に書かれた「鬼前太后」に比定されるものと思われますが、彼女は「高皇産靈尊」の子供である「萬幡豊秋津師媛命」に対応していることとなるでしょう。
また、彼女が抱いていたまだ幼い「瓊瓊杵命」は「胎中天皇」と呼ばれた「応神天皇」を通じて「阿毎多利思北孤」に対応しているものと考えられます。(「胎中」という用語は「隋の文帝」についても使用されており、『書紀』編纂者は『隋書』を見て「応神」について「胎中」という用語を使用していると思われますから、「隋の文帝」のイメージそのものが「応神」に投影されているという可能性があるでしょう。また、その意味でも「六世紀末」という時期が措定されるのは妥当であると思われます。)
(隋の文帝に関する「胎中」の使用例)
「歴代三寶紀卷第十二譯經大隨
開皇十七年翻經學士臣費長房上
大隋録者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。雲慶露甘珠明石變。聾聞瞽視?語躄行。禽獸見非常之祥。草木呈難紀之瑞。豈唯七寶獨顯金輪。寧止四時偏和玉燭。是以金光明經正論品云。因集業故得生人中。王領國土。故稱人王。處在『胎中』諸天守護。或先守護然後入胎。三十三天各以己德分與是王。以天護故稱為天子。赤若之??屋馭時。土制水行興廢毀之。佛日火乘木 運?年。號以閏皇。可謂法炬滅而更明。否時還泰者也。…」
(※)この「潮満瓊潮干瓊」や「如意寶珠」は元々「シリウス」の表象であったという可能性があると思われます。それは「赤玉」を示す「瓊」という表現や「干満」を司るといういわば「気候変動」の要因に結びつけられていることなどからの類推であり(通常の干満であれば規則通りに起きるものであり、それには「神秘性」がないと思われるからです)、それらは「弥生時代」の始まりという年代との関連が考えられ、神秘性についても(古代ローマのRobigo伝承のように)その時代から続くものであったと見る事もできるのではないでしょうか。
(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2017/01/03)