「西村秀己氏」の研究(※)では、「応神」と「瓊瓊杵尊」、「仁徳」と「彦火火出見」(山幸彦)というように、『神功皇后紀』と「天孫降臨説話」の各々の人物相関図が酷似しているとされます。非常に鋭い観察力といえます。ただ、「西村氏」はその「酷似」とも言うべき両者の関係をどう考えるべきか結論は出しておられませんが、私見によれば「神話」に合わせて『神功皇后紀』を造作したとするなら、その意図も目的も不明と言わざるを得ないでしょう。そのような「改定」や「造作」にどのような「現実的」利益があるか全く想像できません。しかし、その逆なら可能性としてはあり得ると思われます。つまり『神功皇后紀』に合わせて「天下り神話」を造作したという場合です。ただし、その場合でも、その造作が実際の『神功皇后紀』付近で行われたとする必要があるでしょう。それは「神話」に現実を投影することにより、現実に「説得力」を持たせるという「神話形成」の常道とも言うべき目的があったと考えるからです。
「西村氏」は「神功皇后」の時代の現実を「神代」に当てはめたのか、あるいはその逆なのか、と言う問題が提起されているわけですが、実はその結論に関わらず、いずれも「不審」なものとなると思われます。その理由は、いずれの時代も『書紀』が成立したとされる時代からかけ離れているということにあります。
『書紀』の成立が『続日本紀』に書かれたように「七二〇年」という年次であったとした場合、そこに書かれた内容はその「八世紀時点」の政権にとって「有利」となる内容であるはずですし、少なくとも「彼等」の利益に直結する内容でなければならないはずです。しかるに『神功皇后紀』と「神代」が酷似していることがどれほど「八世紀」の政権に有利に働くのでしょうか。
その効果というものは「八世紀」に存在していた誰か或るい誰か達の先祖である「神功皇后」の時代の正統性保持には役だっても、現実の「政権」の中央に位置する彼等には恩恵は少ないと思われます。そのような「隔靴掻痒」ともいえる「まだるこしい」ことをせずに、「八世紀」の「現実」と「神代」が「直接」結びつくような「神話」を構築する方が遙かに簡単で効果的ではないでしょうか。
「現実」と「神話」の「リンク」は有り得えても、「古代」と「神話」の「リンク」はその動機と目的が「曖昧」というより「無意味」でさえあると思われます。
「神話」は決して「民話」そのものではなく、権力により作られる「政治的」なものという性格が強いと思われ、「建国神話」という類のものは全て同様の性格を有していると言えます。そう考えると、その「権力」の座にあるものが声を大にして主張したいこととは、現実の政権の正統性(正当性)であり、現実の政権の「大義名分」の所在であり、それを「保有」しているという現実が「神話」により裏打ちされていること、また「伝統」に立脚し依拠しているということを主張するためのものであって、「現実」というものが「神話」から帰結された「予定調和」であるということを言わんとして作り上げられたものといえるものです。(これによく似た論理は戦争当時軍部を中心として行われた「八紘一宇」とう思想で現実化しています。そこでは「現実」としての「神国日本」を構築するために「神話」が積極的に利用されています。これによく似た論理が使用されたものではないでしょうか)
もし、そうであるとすると、「現実」と「神話」は「直接」リンクさせられて当然であり、逆に「古代」と「神話」をリンクさせるとすると、その意味が不明となるでしょう。それでは「現実」と「古代」の間をさらに結びつける必要が出てきてしまい、いわば「二重手間」となってしまうからです。
これを合理的に理解するためには「時代」の位相をずらす必要があると思われます。つまり、『神功皇后紀』の実年代は『書紀』に書かれたような時間帯ではないと考えられ、これを「古代」から「現実」に引き戻す必要があると思われますが、ではその「現実」とは「いつ」のことなのでしょうか。
そう考えると、『神功皇后紀』が現実の世界としてアクティブであった時代を想定する必要がありますが、それが『書紀』や『古事記』の示す時代ではないことは明らかです。少なくとも『書紀』と『古事記』で圧倒的に時代が異なるというのはそもそも不審であり、『神功皇后紀』という時代について「七世紀」から「八世紀」にかけての時期に固定的、安定的な理解が当時形成されていなかったこととなります。
「改定」や「潤色」の内容が『古事記』『書紀』で異なっているというのは、この『神功皇后紀』やその前後関連した『応神記』『仁徳紀』などの時代の事をどう評価すべきなのか「王権」の中で固まっていなかったことを示しているものですが、それは彼等をそのまま評価すべきなのかどれほどの潤色改定を加えるべきなのかが定まっていなかったことを示すものであり、それほど評価がいわば「クリチカル」であったことを物語るものです。このことは「彼等」の業績(治績)がそれほど「画期的」であったことを示すものであり、「毀誉褒貶」の含まれる性質のものであったということではないかと思われますが、それは「対中国」という中でのことではなかったかと考えられます。それを示すのは「神話」など『古事記』『書紀』の中に「卑弥呼」が全く現れないことです。
「卑弥呼」は「倭王権」にとって欠くべからざる「倭王」であり、「万世一系」を謳うならば必ず「天皇」の一人として描写すべき人物であるはずですが、それは見事に欠落していると同時に「晋の起居注」が『神功皇后紀』に小さく引用されています。これは「晋」や「魏」への「卑弥呼」の対応に対する評価が『書紀』『古事記』編纂時点では高くなかったことの裏返しでしょう。
「卑弥呼」や「壹與」は「魏」「晋」に対して「臣従」する意を表し、何度も「朝貢」していたわけであり、それは『古事記』『書紀』編纂担当者(というより当時の王権)からは「屈辱的外交」と受け取られていた可能性があるでしょう。彼等はそのため意図的に「卑弥呼」を記事から外しているのではないでしょうか。同様のことは「卑弥呼」になぞらえられた『神功皇后紀』そのものにいえるのではないでしょうか。
「卑弥呼」と関連づけたこと及びその「神功皇后紀」自体に対して「年次移動」その他の「潤色改定」を相当程度加えたと見られることは、「神功皇后」自体に対しても肯定的評価をしきれなかったことが窺えるわけです。とすれば「卑弥呼」同様『応神記』『神功皇后紀』『仁徳紀』などに対しても対中国という点で「倭国王」としてあるべきではない「屈辱的行動」があったと見たものではないでしょうか。ではそれは一体どのようなものであったのでしょうか。
確かに「倭国」の対中国との関係は常に一方的であり、その意味では常に「屈辱的」であったといえるかもしれません。その意味では「倭の五王」も同様に「南朝」に対して臣従する意を呈していたものであり、それも批判的に見られるべきものであったかもしれませんが、最も可能性があるのは「隋」との関係ではなかったでしょうか。
「隋」との間には「天子」自称について「宣諭」されそれを受け入れた(受け入れざるを得なかった)事件(当然謝罪を伴ったものと思われます)やそれに先立つ「訓令」事件があり、それらに対する対応について「否定的」な見解を持っていたものと思われるのです。
そう考えると、彼等の真の時代としては「六世紀後半」が最も想定されるものであり、そのため『古事記』『書紀』で「四世紀」などへの年次移動を行うこととなったものと思われますが、そのことにより「空白」となってしまった「六世紀末」には本来は「五世紀末」付近である「推古」の時代を持ってきていわば「穴埋め」をしていると思われます。
(※)西村秀巳「神代と人代の相似形」(古田史学会報 2004年2月5日 No.60)
(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2015/07/05)