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「天鈿女」や「天照」の服装と五世紀


 この「建国神話」の形成が実際には「六世紀末」付近ではなかったかということは『古事記』の「天の岩戸」神話に出てくる「天鈿女」の服装からも窺えます。
 彼女は「アマテラス」が「岩戸」に隠ったのを誘い出そうと「滑稽」な仕草で周囲を笑わせ、不審がった「アマテラス」を見事岩戸から出させたわけですが、その描写の中に彼女の服装が現れています。

「故於是天照大御神見畏 開天石屋戸而…『掛出胸乳 裳緒忍垂於番登也』 爾高天原動而 八百萬神共咲」

 ここに示されている服装は明らかに「貫頭衣」ではありません。「貫頭衣」では「掛出胸乳」というようなことは無理であると思われるからです。これは明らかに「合わせ襟」の服装であり、また「裳緒」という表現からも上着とは別にスカート状のものをはいている姿が想定されるでしょう。

 さらに『神代紀』には「天照」が「スサノオ」が来るというので「男装」して迎え撃つシーンが書かれています。

「於是。素戔鳴尊請曰。吾今奉教將就根國。故欲暫向高天原與姉相見而後永退矣。勅許之。乃昇詣之於天也。是後伊弉諾尊神功既畢。靈運當遷。是以構幽宮於淡路之洲。寂然長隠者矣。亦曰。伊弉諾尊功既至矣。徳文大矣。於是登天報命。仍留宅於日之少宮矣。少宮。此云倭柯美野。始素戔鳴尊昇天之時。溟渤以之鼓盪。山岳爲之鳴■。此則神性雄健使之然也。天照大神素知其神暴惡至聞來詣之状。乃勃然而驚曰。吾弟之來豈以善意乎。謂當有奪國之志歟。夫父母既任諸子、各有其境。如何棄置當就之國。而敢窺 此處乎。『乃結髮爲髻。縛裳爲袴。』便以八坂瓊之五百箇御統御統。此云美須磨屡。纒其髻鬘及腕。…」

 ここでは「『乃結髮爲髻。縛爲袴。』とされ、「髪」を結い上げ、「裳」を縛って「袴」としたと書かれています。つまり女性の服装としては「髪」は結い上げず、「裳」というスカート状のものを装着していたことを示すものです。これら「天鈿女」と「天照」に共通する服装は「裙襦」であると思われます。

 『隋書俀国伝』には「其服飾,男子衣裙襦,其袖微小,履如?形,漆其上,?之於脚。人庶多跣足。不得用金銀為飾。故時衣橫幅、結束相連而無縫。頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。至隋、其王始制冠、以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後、亦衣『裙襦、裳皆有?。』」とあり、ここでは「倭国」の服装として古くは「貫頭衣」のようなものであったが、「今」は「男女」とも「裙襦」であるとされ、その「裳」には「縁取り」があるとされています。
 この「裙襦」は漢民族の伝統的服装とされ、中国北半部が「胡族」に制圧された「南北朝」以降は「南朝側」の服装として著名であったものです。「裙」とは「裳裾」を指し、また「襦」は「短衣」を意味しますから、全体としては「天鈿女」が着ていたような「合わせ襟」で腰から下よりは長くない上着をいうと思われ、「下」は「裳緒」で腰部を締める「縁取りのあるスカート状のもの」であると思われるわけです。

 『魏志倭人伝』には「貫頭衣」が「倭人」の服装とされ、『隋書』でも「古い時代」は「故時衣橫幅、結束相連而無縫」というのですから、これは「卑弥呼」の時代を踏まえた表現と思われます。しかし、ここでいう「裙襦」は「漢服」であり、「南朝」の服装であったわけです。
 「倭国」と「南朝」の関係は「倭の五王」が遣使をするようになった「五世紀」以降ですから、「服装」が変化したのもそれ以降であると見るのが正しいでしょう。すでに「天孫降臨神話」については「弥生」の始まりと深く関係していると見たわけですが、上に見るように服装という点では「倭の五王」以降と考えられるわけであり、そうであれば「神話」の形成には少なくとも二段階あることとなるでしょう。このことから「南朝」の影響を受けた服装で「天鈿女」が舞い踊ったのは「弥生神話」をその当時の知識と技術によりアップデートしたものが新たな「神話」として形成されたことを示すと思われ(文字の使用が可能となったため「口伝」から「書かれた記録」へといわば「進化」したものか)、それは「倭の五王」以降『隋書俀国伝』までのどこかと推定されることとなるでしょう。

 さらにそれは「古墳」に付随する「埴輪」の中に、「女性」と思われるものがあり、その服装からもいえることです。それらの多くが「スカート状」のものをはき、腰紐らしきものを結び、上は襟の表現が見られるなどやはり「裙襦」と思われる服装をしています。(※1)
 「人物形象埴輪」が見られ始めるのは(近畿では)「五世紀以降」であり、その時期としてもやはり「南朝」との交渉が活発になった時期と重なります。
 それと関連があると思われるのが『応神紀』と『雄略紀』の双方に見られる「織女」記事です。そこには双方に「同一」と思われる記事があり、「呉」つまり中国南朝から「織女」と「織物技術」が下賜されたとあります。

「(応神)卅七年春二月戊午朔。遣阿知使主。都加使主於呉。令求縫工女。爰阿知使主等。渡高麗國欲逹于呉。則至高麗。更不知道路。乞知道者於高麗。高麗王乃副久禮波。久禮志二人爲導者。由是得通呉。呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」

「(雄略)十四年春正月丙寅朔戊寅。身狹村主青等共呉國使。將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。…
三月。命臣連迎呉使。即安置呉人於桧隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛爲漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。」

 つまり「呉」つまり「南朝」に遣使したところ、「呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」(『応神紀』)、「呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。」(『雄略紀』)とされ、「工女」や「中国風」の「織物技術」を伝術されたというわけです。
 これはいわゆる「重出」と思われ、どちらかが「真実」ではないこととなりますが、すでに行った考察により『雄略紀』が(六十年)遡上すべき記事であり(つまり『応神紀』に合致することとなります)、「五世紀前半」の出来事であったものと推定されることとなりました。これは「倭の五王」の一人である「讃」の時代の事となり、彼により「織物」や「縫製」の技術が取り入れられたと見ることができるでしょう。そしてその時代以降「南朝」的服装である「裙襦」が「倭国」、特に「王権」やそれに近い層に広がったと見られることとなります。これを「古墳」の女性像が反映していると思われるわけです。
 それはまた「天鈿女」や「猿田彦」などの存在が「伊勢」との関連から「日神信仰」につながると考えられる事にもなります。その「伊勢神宮」が現在の地に鎮座したのが「六世紀末」付近と想定できますから、これらの「神話」形成の時期も同様であるという可能性が高いと思料されます。


(※1)布施友理「女子埴輪を考える」(『物質文化研究』『物質文化研究』編集委員会 編二〇〇七年三月所収)
(※2)武田佐知子『古代国家の形成と衣服制 ― 袴と貫頭衣―』吉川弘文館一九八六年


(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2017/01/03)