「薬師」信仰は非常に新しいものであり、中国では「薬師」信仰も「薬師」仏も見られません。特に「日本列島」で盛んになったものです。
「法隆寺」の「金堂」には「薬師如来」像が存在しますが、その「光背」には「用明天皇の時に病気になった天皇の治癒祈願のため」に「薬師如来像」が造られたとされ、この時点付近で「薬師信仰」が始まったように書かれていますが、この「仏像」も「光背」も実はかなり新しい、と考えられており、「光背」に書かれたことは「事実」ではないと考えられています。ただし、巷間言われるような「七世紀後半」の事であったとは考えられません。実際には「薬師寺」の創建とほぼ同時であって、「七世紀半ば」のことではなかったかと推察されます。
しかし「光背」で、特に「用命」という時代設定にされているのは、「仏」の力と共に「薬」などの力によって「病」を直すという事が行なわれるようになったのが「用命」つまり「推古」の兄であり「聖徳太子」の「父」とされる人物の時代であったという「伝承」があった事を示すものとも思われます。(これは「天然痘」に対する救済としてのものであった可能性が高いと思料します)
そして、それはそのまま「阿毎多利思北孤」の時代に重なるものであり、この年次付近に「薬師信仰」の根源があることを示す為にこの「如来像」は造られ、また「光背銘」が書かれたものと考えられ、この「薬師如来」の「光背銘」や「如来像」の「形式」などが「擬古的」なのは、「天王寺」の「施薬院」の創建時期と重ねることを想定したものと推定します。
ところで、「薬師如来」と「素戔嗚尊」が同一化されている事例が多いことは注目すべきであり、例えば京都の「八坂神社」は、祭神が「牛頭天王」とされていますが、これは「素戔嗚尊」のことを示すといわれ、また「薬師如来」の化身でもあるとされています。
つまり「薬師如来」と「素戔嗚尊」が関係づけられているわけですが、「素戔嗚尊」が「出雲」に深く関係した人物であることは言うまでもなく、「出雲」の「薬」に対する知識というものが「薬師」信仰の下敷きにあったと考えるべきことを示唆します。
例えば「アイヌ」が狩りに使用していた「トリカブト」という「毒草」があります。この「根」の部分の毒は特に強烈で「フグ毒」に次ぐとされています。しかし、この部分は「加熱」などの加工を加えると「減毒」される事が知られており、そのようにしたものは「痛み止め」あるいは「麻酔」としての効果が期待されていました。
そして、これは「藤原京遺跡」から出土した木簡などから当時「武蔵」など「東国」からの「貢納品」であったと推定されています。しかし、その「トリカブト」の「和名」は「於宇」であるとされています。これは「出雲」にある「意宇郡」という地名との関連が強く示唆されるものであり、(「意宇郡」も「和名抄」によれば「於宇」と発音されていました)本来「出雲」の特産であったという可能性もあります。(「トリカブト」は東国や北海道だけではなく全国広範囲に自生しており、当然「出雲」にも存在します)
当時も今も「薬」に期待する一番のものは「痛み止め」であると思われ、それが「ケガ」であれ、「病気」であれ、痛みを伴わないものは皆無とも言えますから、「痛み」を和らげられるものが一番「珍重」されたものと考えられます。そのための「特効的」なものとして「トリカブト」(表記としては「鳥頭」「附子」等)が用いられたものではないでしょうか。
これら「鳥頭」や「附子」は「漢方」の世界では中世以前から「鎮痛」「温熱」「利尿」など有効性の高い治療薬として著名であったものです。
「トリカブト」は日本全国至る所に繁茂していますから、特にそれについての使用法などがアイヌのように「東北・北海道」に居住していた住民などに限定された知識であったというわけではないと思われます。それは「コンブ」が「軍布」と記され、「アイヌ語」をそのまま「漢字」に当てはめていると考えられるのに対して、「トリカブト」や「ブス」あるいは「於宇」(オウ)も「アイヌ語」ではない(アイヌ語では「スルク」(Suruku)と呼称されています)という事からもその関わり合いが直接的ではないか、あるいは関わり合いがあっても、その程度が非常に薄い事を示すと考えられるからです。
つまり、「於宇」という「和語」で記されていることを考えると、「東国」から伝わったものではなく、それとは全く別の次元(領域)との関連で発生したことを示唆するものと言えるでしょう。
中国で「一九七三年」に発掘された「馬王堆」漢墓からは、「薬」等についての記録が発見されており、それは「五十二病方」と呼称されているものですが、その中の記載では圧倒的に「鳥喙」(「鳥頭」と同義であり「トリカブト」のことを指すもの)関連記事が多く、それは当時から「鎮痛」などに対してかなりの「有効性」が認められていた事を示すものと思われ、このような「医薬」についての知識が「倭国」にかなり早期に伝えられていた事は蓋然性の高い出来事と思えます。この事からも「トリカブト」に関する知識というものが「アイヌ」からと云うよりは「中国」から伝来したものである可能性が高いと考えられ、そうであれば「東国」から「特産」となったのは「後代」のことであり、「東国」に行政制度の網がかぶせられ、「支配地域」として「倭国体制」の中に強力に組み込まれることとなった「七世紀」初め以降のことであろうと考えられるものです。
そうであれば「出雲」に中国の医薬の情報が入ったのはそれ以前のこととなるわけであり、一番契機となった時点は「遣隋使」による「医薬」の伝来ではないでしょうか。
「六世紀末」に行われた「遣隋使」とその返答使としての「隋使」の往来では、多くの文物が導入されたものと見られますが、医薬の分野においてもその時点の最先端の知識や技術あるいは薬などが倭国へ導入されることとなったと考えて不思議はなく、この時点が画期となったことは間違いないと思われます。
「史料」から見てその主役は二人おり『元興寺伽藍縁起』に「裴世清」と共にその名が書かれた「遍光高」という人物と、さらに「倭国」から「遣唐使」として送られ、特に「医薬」の知識を持って帰国したため以降「薬師」と呼ばれたという「恵日」という人物が挙げられます。
「遍光高」は「尚書祠部」という役職であったことが『縁起』に残されていますが、この「尚書祠部」の管轄範囲には「医薬」も含まれており、この時の「来倭」ではそのような「医薬」に関するものも彼との交渉の中に含まれていたのではないかと思われます。
『隋書』には「倭国」に関して「医薬」に直結する記事はありませんが、「知卜筮尤信巫覡。」という文章があり、そこからは「病気」などに罹ったときに「祈祷」「お呪い」などによって治療行為を行っていたという可能性が示唆されます。このような背景の中で「倭国」から「隋」に対して「最新の医療技術」あるいは「薬」などについての要望があったとしても不思議ではないでしょう。それに対応するように「隋」も「裴世清」という通常の外務官僚以外に、「尚書祠部」という役職の担当官を「副」として随行させたものと見られ、彼の存在意義もそこにあると思われます。
さらに「恵日(惠日)」はすでに見たように『書紀』が描くような「遣唐使」ではなく「遣隋使」であったという可能性が高いものと推量され、その「遍光高」の示した医療技術などを実際に「本場」で習得しようとして派遣されたものと見られ、その後の「漢方医療」の祖とも言うべき位置にいると思われます。(ただし、後にその子孫は「医薬」とは違う職掌に就いていたため、「薬師」という「姓」を忌避して新しい「姓」を朝廷から下賜されたことが『続日本紀』に見えています。)
これらのことから「薬師如来」と「出雲」さらには「隋」との間には「深い」関係が考えられるものですが、その「実体」としては時代的にも「阿毎多利思北孤」ないしは「利歌彌多仏利」へ投影されていたものと思料され、それはこの「薬師如来」の発祥につながったものとして、「釈迦三尊」の両脇侍である「薬王菩薩」と「薬上菩薩」の存在があったことを想定すべきであるように思われます。
「薬師如来」は、いわばこの両「菩薩」の「発展形」とも言えるものと思われ、「鬼前太后」と「干食王后」の業績が、年月の経過と共に「美化」「聖化」されていく経過があったと見られるとともに、そこに「阿毎多利思北孤」等の業績も加味されることとなっていったと考えられます。
このような「美化」「聖化」が行なわれたのは「七世紀なかば」の時代であり、「倭国王」の皇后であった「厩戸勝鬘」によるものと推察され、(これはまだ「利歌彌多仏利」の時代のこと)「鬼前太后」達を崇拝する為と同時に、自分の夫であり「倭国王」である「利歌彌多仏利」の「延命」を祈願して「薬師寺」を創建したと推定されます。
(この項の作成日 2012/11/16、最終更新 2015/01/18)