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「出雲」と医療


 「古代」において「治療」というと、既に触れましたが、「大国主」に関連した説話として知られている「因幡の白兎」というものがあります。この中では「大国主」は「八十神」に欺された「兎」に「薬」(蒲(がま)の穂)を与えたとされます。
 また『出雲風土記』の中では「大国主」自身が「大やけど」を負う事態になったときに「宇武賀比売」と「支佐加比売」により治療を受けた際、「赤貝の粉」と「ハマグリの煮汁」を火傷の場所に塗布されたとされているなど、「出雲」という地域には「薬草」だけではなく、怪我・病気治療に関して多くの「薬」の存在とその処方の知識があるように感じられます。
 他にも『出雲風土記』などには大量の「薬草」となる「草木」の名前が列挙されており、その種類の数は『延喜式』に記載されている数の過半に亘り、他郡を圧倒しています。まさに「薬」の「特産地」であることが示されています。
 その後も「出雲臣」とその子孫が「各代」の天皇の「侍医」を勤めるなど、「出雲」と「医術」の関わりは深いものであり、これは長い伝統のなせるわざと考えられるものです。
 また「大国主」と共に国造りをしたとされる「少彦名命」は現在も大阪に「祭神」とする神社が多く、「薬」に関係した神とされています。彼は『書紀』では「カガミ」(これも薬草の名前と考えられています)の皮で造った舟に乗ってきたとされます。
 また、『書紀』の別の部分(「神代第八段一書第六」)では「大国主」と「少彦名」は人間や益のある動物のため、病を治す方法を定めたとされています。

「一書第六曰 大國主神 亦名大物主神 亦號國作大己貴命 亦曰葦原醜男 亦曰八千戈神 亦曰大國玉神 亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神 夫大己貴命與少彦名命戮力一心經營天下 復為顯見蒼生及畜? 則定其療病之方 又為攘鳥獸昆蟲之災異 則定其禁厭之法。是以百姓至今咸蒙恩ョ。」

 さらに、「大国主」と「少彦名」については各地の伝承として「薬」と共に「温泉」の治療効果を人々に教えたとされています。
 『伊予国風土記』(『釈日本紀』に引く逸文)には「大分の速見郡の湯」により「死んだはず」の「少彦名」を「大国主」が生き返らせる話が書かれています。
 また『風土記』逸文としては享保二年(一七一七年)の『鎌倉実記』の中に「北畠親房」の『准后親房の記』という書物(これは正体不明)からの引用があります。その中では『伊豆国風土記』にあるとして「大己貴」(「大国主」)と「少彦名」とが、民が早死にすることを憐れんで、「薬」「温泉」の術を定め、そのような中に「箱根」の湯もあるとされています。

「准后親房記 引伊豆國風土記曰 稽温泉 玄古 天孫未降也 大己貴與少彦名 我秋津州 憫民夭折 始制禁薬湯泉之術 伊津神湯 又其数而 箱根之元湯是也 …」

 『出雲風土記』にも後の「玉造温泉」につながる記事があります。

「忌部神戸。郡家正西廿一里二百六十歩。國造神吉詞奏參向朝廷時御沐之忌里。故云忌部。即川邊出湯。出湯所在兼海陸。仍男女老少或道路駱驛或海中沿洲日集成市繽紛燕樂。一濯則形容端正再沐則万病悉除。自古至今無不得驗。故俗人曰神湯也。…」

 この「温泉」は「大国主」の御子である「阿遅須枳高日子」が「口の利けなかった」ものが「快癒」した事とつながっているものであり、このように「温泉」の効能が「大国主」や「出雲」という地域との関連で語られているのです。
 これらの「出雲」と「薬」あるいは「治療法」というものの間に深い関係があることや、「大国主」という存在が「力」だけを背景にした統治者ではなく「医療」など文化的側面においても傑出した存在であったことなどに付いては現代においてもある程度認知されているようです。しかし、それらは一般には「弥生時代」のことであるとして、いわば「過去」の出来事というような扱いをされています。
 しかし、そうとばかりは云えないと思われるのです。それは、『書紀』で「医」「薬」について具体的な記事が見られ始めるのが「六世紀」半ばのことであり「温湯」に至っては『舒明紀』まで存在しないと云うことが重要であると思われるからです。それまでも「湯」という単語に関連する記事は各種あるものの「温湯」ないし「温泉」という記事は以下の記事が初出なのです。

「(舒明)三年(六三一年)秋九月丁巳朔乙亥条」
「幸干攝津國有間温湯。」

 このように各種の資料等が示す「出雲」と「薬」また「温湯」というものの間に他の地域より緊密な関係が存在している事と、「六世紀」から「七世紀」というかなり「新しい」年代にそれらの記事が『書紀』に現れること、また「施薬院」が設置され、病と傷の治療に「薬草」などの知識が導入されるようになることの間には深い「関係」があるように考えるのが相当です。
 つまり、それはこの時点で「王権」の内部に「出雲」の「薬」に関する知識が導入されたことを示すものと思われ、それは「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」あるいは「鬼前太后」などという「王権中枢」と「出雲」の間に何らかの関係があった事を推定させるものといえます。
 そして、そのことにつながる「信仰」が「薬師如来」であり、「薬師信仰」であると思われます。


(この項の作成日 2012/11/16、最終更新 2015/01/18)