ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「阿毎多利思北孤」とはだれか:阿毎多利思北孤の業績:

「九州制」の施行


 現在「九州島」には「九州」という名称がつけられていますが、この「九州」という名称そのものがこの地域に最高権力者がいたのではないか、という疑問を生じさせるものです。それはこの「九州」という名称は、中国の古典によれば、「天子の直接統治する領域の全部」を指す言葉なのです。この言葉(用語)がこの地域に長年使用されつづけてきた、ということにはそれだけの意味があるのでしょう。
 このように「九州」とは「天下」を意味する用語ですが、また実際に「筑前」「筑後」「豊前」「豊後」「肥前」「肥後」「日向」「薩摩」「大隅」の九国をも指しています。このように九州島内が九国であるのは、偶然ではなく、意図的なものだと思われます。  『筑後』や『豊後』風土記には「元々」は一つ(「筑紫」や「豊」)だったが、「後に」前後に分かれたと書かれています。しかしこの「前」「後」分割がいつ行われたか不明であるわけですが、この分割が「数あわせ」のためなのは明白ですから、「九州」という名称が使用され始めた時期と分割した時期とは同時と考えられます。

 そもそも「九州」という名称は平安時代の末期から九州地方の役所(太宰府)や寺社(観世音寺など)の自称となっていたようです。(以下古賀達也氏の研究(※)に準拠します)

 「一一〇八年」の太政官符案(観世音寺文書)に出てくる「九州」が、「九州」島が自称した最古の「九州」であるといわれます。それ以前の公文書には「国家」の意で「朝廷」が使用している例がありますが、この段階以降「朝廷」ではなく、「観世音寺」や「太宰府」の自称となります。つまり、「観世音寺」が「九州」を使用し始め、その時に朝廷がそれを認めた(容認した)ものです。
  何故そのような名称を自称したか、というと一番考えられるのは「そこが元々『九州』という地名、行政区画であった」と言うことです。巷間言われていることは、「九国二島」の構成となっているから、という理由からですが、そうであれば「九州」でなく「九国」となるはずで、そうはなっていません。(現に四国は「四州」とはいわず四国といいます)
 
 歴史的には、「倭国」は「南朝」を天子の国として「尊崇」していたものですが、「南朝」滅亡後「隋」が「天子」を自称するようになると、「倭国王」「阿毎多利思北孤」も自らを「天子」の地位に置き、「隋皇帝」に「天子としての対等性」を主張する国書を出すなどの行動をとっているようです。
 「九州」という制度はすでにみたように「天子の直轄領域」を指す用語ですから、この「隋皇帝」への「天子」を自称した国書提出時点で自らを天子の地位におく体制に変更した「多利思北孤」が自らの「足下」の地域に対して使用を開始したものと考えるのが自然です。
 その彼は「隋」成立間もなく「遣隋使」を派遣したものとみられ、その段階で「隋」の制度・文化の吸収を本格的に実施しようとしたと考えられますが、この「遣隋使」派遣という段階では「九州制」はまだ施行されていないものと考えられます。それは「九州制」が「六十六国分割」事業と密接に結びついていると考えられるからです。

 『常陸国風土記』などを見ると「古老」が話す時点では「縣制」が施行されており、ここで「国―縣制」が行われていることがわかりますが、それは「隋」の「州県制」と関連したものと考えられ、「阿毎多利思北孤」が「遣隋使」を派遣し、「隋」から数々の先進技術と知識を吸収した段階ではじめて「国県制」と「九州制」を施行したものと思料されます。そう考えるとその実施時期としては「隋」の「高祖(文帝)による「制度改革」後である「五八〇年代」が想定され、彼から「訓令」による「法華経」伝搬に端を発しているという可能性が考えられるでしょう。

 ところで、「六十六国分割事業」では、それまで小国が分立していた「諸国」を中心に「合併」などを進めて再編成したわけであり、『常陸国風土記」などでわかるように「我姫之道」を分割していますが、この場合は元々「小国」だったものを「まとめて」「広域行政体」として「国」(いわゆる「大国」)としたわけです。それに対し「九州島」内など「西国」の場合は事情が違い、「筑紫」「豊」「肥」などは「古」から「大国」であり、「まとめる」必要はなかったわけです。というより、「我姫」とは逆に「前後」に分けられることとなったものです。それは「九州制」施行のためであり、「州」(「国」)の数を「九」にするための措置なのです。
 「筑紫」「豊」など北部九州の国は、他の諸国が「小国」であるような時代でも、その後の「令制国」につながる「大国」であったわけであり、「六十六国分国」の前後では「領域(範囲)」が「前後」に分割された以外は変化はないと見られ、「強い権力者」がこの地に他に先んじて発生したことを示していると考えられます。
 また、この領域(関東の「毛野国」なども同様ですが)は後の近畿王権から「君」と呼ばれる支配者が存在していたものであり(他は「国造」や「直」など)、彼らにとって他の地域の権力者と違う別種の「独立性」があったことを示すものです。
 
 既に述べたように、『隋書俀国伝』に書かれた「百二十」あるという「軍尼」が管理する領域は「倭国」の「本国」領域に関する事であったと思われます。これらの地域(九州を含む西国)は「既に」「三十三国」という「令制国」に匹敵する領域が成立していたものであり、「利歌彌多仏利」のさらなる「三十三国分国」事業の対象となったものは「我姫(あづま)」など「東国」を代表とする「諸国」であったと考えられます。
 つまり「軍尼」の統括している範囲は「評」の内実と一致すると思われ、通常「国」-「評」という階層構造であったと思われることから一つの「国」に複数の評があるのは自然であることとなります。『隋書』によればおよそ4つの「評」がひとつの「国」にあることとなるわけです。
 「九州」島内では「九州制」を施行すると言うだけのために「前後」に分国したわけですが、当初は「筑紫」は「前後」ではなく、「筑紫国」と「筑紫後国」という構成となったものです。その時点で「肥国」を「前後」に分割しなおかつ、中央部を「筑紫」領域へ編入する措置がとられたのです。その部分が以降「筑後」(筑紫後国)と呼ばれることとなったわけです。そのことは『筑紫風土記』と称するものの中で「筑前」領域について「筑紫」と称していることからも分かります。

「筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の縣(あがた)。子饗(こふ)の原。…」
(『釈日本紀』巻十二、五〇〇ページ)

 これは「国名」がなく「県名」から始まっていて、ここでいう「筑紫」が「福岡県程度」を指すことが分かります。つまり「筑前領域」を指して「筑紫」と称していることとなるわけです。
 このように「九州島」内は明らかに他の地域と性格を異にしているわけですが、この時点で「九州」制が施行され、それは「法華経」の思想による「六十六国分割」と古代からの「天子」思想による「九州制」がここで「合体」した事を意味することとなったわけです。


(※)古賀達也「九州を論ず-国内史料に見える「九州」の変遷」(『市民の古代』第15集1993年「市民の古代研究会」編、後に『九州王朝の論理』所収。

        
(この項の作成日 2011/07/26、最終更新 2016/12/24)