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藥獵(薬がり)と施薬院


 「施薬院」には「薬草」を栽培する場所を設け、数多くの「薬草」となる草木を植えていたと伝えられていますが、また『万葉集』にも、「茜さす 紫野行き 標野行き 野守はみずや 君が袖振る」という有名な歌があり、そこで言われている「紫野」とは「塗り薬」として使用されていた「紫根」を栽培していたところと思われ、「標野」とはそのような「薬草」を取るために区画された領域であったと思われます。
 この歌は「大海人」と「額田女王」の間に交わされたとされ、「七世紀なかば」の作と思われますが、このような場所が設けられるようになったのはそれを遡る「七世紀初め」の頃と考えられ、これらで得た「薬草」などを「施薬院」で、病に悩む人々の治療に役立てていたものではないかと思料されます。
 また、『書紀』には「施薬院」で使用する薬を採るためと思われる「藥獵(薬がり)」が行われていた事が記載されています。

「(推古)十九年(六一一年)夏五月五日。『藥獵』於兎田野。取鷄鳴時集于藤原池上。以曾明乃徃之。粟田細目臣爲前部領。額田部比羅夫連爲後部領。是日。諸臣服色皆隨冠色、各著髻華。則大徳。小徳並用金。大仁。小仁用豹尾。大禮以下用鳥尾。」

 ここでいう「藥獵(薬がり)」とは、「野山」に出て「野草」などを取るものですが、女性は、野で「薬草」を摘み、男性は「鹿狩り」をして「若い牡鹿の袋角」を取ったもののようです。(この記事自体「鹿狩り」を推定させるものと言えます)
 また、この記事は「五月五日」にこの「藥獵(薬がり)」が行なわれた事を示していますが、この「五月五日」は古来中国では「薬草」を採取して「毒気」を払う時期とされていたものであり、例えば「夏」の時代の「農事暦」であるとされる『夏小正』では「此日蓄採?藥。以?除毒氣。」とされていますし、「六朝時代」の「荊楚」地方(揚子江中流域)の「年中行事」を記した『荊楚記』では「荊楚人。以五月五日並?百草。採艾以為人。懸門?上。以禳毒氣。」などとされています。(以上は『藝文類聚』より引用)

 この「五月五日」という日付は「倭国」ではこれが「初見」ですが、この年次付近でこれらに関する情報が伝来したのかもしれません。(ただし『隋書俀国伝』によれば「節」の習俗はほぼ中国と同じとされていますから、「隋」との交渉以前からすでにそれら「節」の週間は国内に定着していたと思われ、「五月五日」の「薬がり」も行われていたのかもしれません。そのあたりは不明ですが、記述がないのは重要とも思われます。)
 後に「天智」の時代にも「藥獵」が行なわれており、その場所が「蒲生野」と記されていることから、この場所についても「蒲(がま)」の栽培を行なっていた「標野」であることが推定されます。「蒲」はもちろん『出雲風土記』に出てくる「大国主の兎」の話の中で、「兎」の背中に塗ったとされる薬草です。
 『推古紀』でも「薬狩り」をした場所として「兎田野」と書かれており、「兎」という字が入っているのは「偶然」ではないと思われます。

 このように「四天王寺」の「別院」として「施薬院」が営まれたわけですが、「鬼前太后」あるいは「干食王后」など「王権」の女性達がこの寺院の主役であったと考えられ、その場所で「聖徳太子」は「勝鬘経」を講説したとされているわけですから、「勝鬘経」と深く関係しているのはやはり「女性」であると考えざるを得ません。
 その「勝鬘経」の「講説」を受けた「厩戸某(女性)」が「感激」して、「出家」しその際に「戒」を受け「法号」を名乗ることとなった際に「勝鬘」を選んだと考えられます。そして、その「女性」は「厩戸皇子」(実態としては「阿毎多利思北孤」の「太子」であった「利歌彌多仏利」)の「正夫人」であり、後に「皇后」となった人物と考えられます。

 ところで『続日本紀』の「元正紀」には「菖蒲鬘」についての記事があります。

「(天平)十九年(七四七年)五月丙子朔庚辰条」「天皇御南苑觀騎射走馬。是曰。太上天皇詔曰。昔者五月之節常用菖蒲爲縵。比來已停此事。從今而後。非菖蒲縵者勿入宮中。」

 この「元正女帝」(既に「聖武天皇」に禅譲しているため「太上天皇」と称される)の「詔」では、「昔」は五月の節(五月五日)には必ず「菖蒲」を「鬘」にしていたものである。それは既に行なわれなくなっているが、今後はそれを復活させ、「菖蒲」を鬘にしなければ宮中に入ってはいけない、とする強い「指示」を出しています。
 この「詔」を出した「五月丙子朔庚辰」という日が「五月五日」です。この「五月五日」は上に見たように「藥獵」の日であり、「鬘」にするという「菖蒲」も薬草とされていたものです。

 「菖蒲」は「神農本草経(上品)」では「薬草」の先頭に書かれているものであり、古くから「治風寒、開心孔、補五蔵、通九竅、久服、軽身、延年。」等々の効果があるとされていました。その他の「薬草関係」の書にも非常に多数の効能や処方例が書かれており、「薬草」の代表例であったものです。
「元正」によれば、以前はこれを「藥獵」の際には「鬘」としていたというわけですが、上の『推古紀』の「藥獵」の記事によれば、参加者は皆「冠」を頭にかぶり、それと同色の衣服を身につけ、頭頂には「華飾り」を着けるとされています。但しこれは男性であり、女性はどうであったか不明ですが、「女性」はこの日は「薬草」を採取していたようであり、当然彼女らも(男性と同様)「華飾り」を頭に着けていたことでしょう。この「華飾り」が「菖蒲」の「花」であったという可能性があるのではないでしょうか。
 
 また、「元正」が「菖蒲」を「鬘」にするようにという「詔」を出したのは、「厩戸勝鬘」が「菖蒲」を「鬘」としていたからではないでしょうか。
 「厩戸勝鬘」はその名の通り、「花」の「鬘」(髪飾り)を頭に着けていたものであり、それが「菖蒲」であったという可能性があります。それは「阿毎多利思北孤」や「鬼前大后」達への崇敬の念からであり、「施薬院」を開き、貧しいもの、恵まれないもの達への愛情を示した彼女達の「功績」を忘れないために、その「施薬院」附属の「標野」で栽培していた「菖蒲」を髪飾りとして「鬘」にしていたのではないかと思われ、それを「元正」は知っていてそれに倣ったのではないかと考えられます。そのことから「元正」の「厩戸勝鬘」への傾倒が読み取れるものでもありますが、それは「聖武」の「后」である「光明子」に受け継がれたものと思われます。


(この項の作成日 2012/11/16、最終更新 2014/05/12)