ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「阿毎多利思北孤」とはだれか:阿毎多利思北孤の業績:

光明皇后と鬼前大后及び干食王后


 「聖武天皇」の皇后である「光明皇后」は「東大寺」に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「悲田院」「敬田院」)を作り、貧しい人や病気の方達を献身的に介護したことが伝承として残っています。例えば『元亨釈書』によると「千人」の人の「垢」を取ることを祈願して、湯屋を建てそこで自ら多くの人たちの「垢こすり」をしたとされ、「全身」が「炎症」を起こし、あちこちが「膿んでいる」ような病気の方については、その傷口の「膿」を口で吸い取ったという逸話まであります。これほどの「献身」が、単に「光明皇后」という一人の女性の「思いつき」でできるものでしょうか。つまり、彼女には「啓発」されるような「前例」となる事例があったのではないかと思われるのです。

 ところで、現在「四天王寺」の別院として知られているものに「勝鬘院」があります。この「寺院」は元々「四天王寺」の「施薬院」として開かれたという伝承があり、またここで「勝鬘経」が講説されたという伝承もあって、そのことから「勝鬘院」と呼ばれるようになったとされています。
 この「四天王寺」は「聖徳太子」の手になる創建が伝えられていますが、この「別院」である「施薬院」についても同様に「聖徳太子」に関わるものとされ、ここでは、「薬草」の栽培から、「調剤」そして「投与」という段階まで行なっていたとされるなど、「貧窮」し、「病」に倒れた民衆の救済にあたっていたとされています。(『四天王寺縁起』による)
 このようなことが事実かどうかと言う点ではやや疑問とする向きもあるようですが、「光明皇后」の事例から判断すると実際にあった見る事もできると思われます。
 ところで、「四箇院」のような「病気治療」などに関連するものとして、「法隆寺」の釈迦三尊像の「両脇侍」の存在があると思われます。
 この「両脇侍」は『聖徳太子傳私記』では、「薬王菩薩」と「薬上菩薩」であると指摘されています。

「…次法髮{問寺
先金堂。…。内陳南正面戸三本。余三面各戸一本。石壇長口〈傍一字消タリ〉。四面連子也。其内中ノ間。太子御印。與願施无畏。等身金堂釋迦像。〈光銘。太子御入滅事見タリ〉脇士二體。〈薬王。薬上。〉共手持玉。…」(『聖徳太子傳私記』より)

 この「脇侍」は、本体は簡略な造形であるとされる一方、「蓮華坐」が技巧を凝らして造られているとされ、それは『法華経薬王本事品』の「女人の往生者は蓮華の中の宝座の上に生まれる」とされていることと関係しているとされます。
 
「…若有女人、聞是薬王菩薩本事品、能授持者、盡是女身、後不復受。若如来滅後、後五百歳中、若有女人、聞是経典、如説修行、於此命終、即往安楽世界、阿弥陀仏、大菩薩衆、圍繞住所、生蓮華中、寶座之上。…」(『法華経 薬王菩薩本事品』より)

 この「両脇侍」については、「釈迦像」が「尺寸王身」とされ「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)をかたどったものとされていることの類推から、彼の「母」と「夫人」を模したものであり、「法隆寺釈迦三尊」の光背に書かれた「鬼前太后」と「干食王后」を示すのではないかとされています。
 この事と「四天王寺」に「施薬院」が別院として造られたこと、そこで『勝鬘経』が講説されたことには「関係」があるのではないでしょうか。つまり、この「釈迦如来」の「両脇侍」に彼女たちが配されているということは、彼女たちの「功績」を示唆するものだと思われるのです。

 この「釈迦像」はその「光背」に書かれた文章によれば、「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)の病に際して「造像」され始められたものであり、その時点では、急ぎ「釈迦像」完成を目指していたものと考えられますから、「両脇侍」については後回しになったものと思われます。
 「釈迦三尊像」の「光背」銘文は以下の通りです。
(奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥・白鳳の在銘金銅仏」によります)

「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間若是定業以背世者往登浄/土早昇妙果二月廿一日癸酉王后/即世翌日法皇登遐癸未年三月中/如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳/具竟乗斯微福信道知識現在安穏/出生入死随奉三主紹隆三寶遂共/彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁/同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造」

 この「銘文」から、「釈迦三尊像」は「鬼前太后」が亡くなられ、「上宮法皇」が病に倒れた時点以降造り始められた事が判明しますが、結局その完成を待たず「上宮法皇」は他界したものです。当然「釈迦像」の完成は死後のこととなりましたが、この「両脇侍」はその時点において、ほぼ同時に亡くなられた「鬼前太后」と「干食王后」についての「追慕」を表すため造られることとなったものではないかと見られ、その際に「薬王」「薬上」菩薩に擬して造像されたものと考えられます。そして、それは「四箇院」で行われていた、「怪我や病気で苦しむ人を救う」という「事業」の遂行者が彼女たちであったことを示すものではないでしょうか。

 この「四箇院」は「阿毎多利思北孤」の「母」など彼の親類縁者の「女性」達により営まれた、当時としては画期的な「福祉施設」であったものと推測されます。「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘文によると「阿毎多利思北孤」と「鬼前太后」「干食王后」はほぼ同時に亡くなったとされていますが、それは何らかの「感染症」によるという可能性もあり、それがこの「施薬院」等における「看護活動」の際に、患者から何らかの「病気」に「感染」した結果という可能性もあると思われます。
 同時期に複数の人間が病に倒れ、死に至るというからにはそのような「感染症」や「伝染病」を考える必要がありますから、「四箇院」の存在はその感染ルートとして考慮の対象とすべきものと思われます。その際最も可能性が考えられるのは「天然痘」ではないでしょうか。
 『敏達紀』にも「疱瘡」による死者が多数に上ったことが書かれていますが、その「疱瘡」という表記やそこに書かれた「火に焼かれるよう」という表現からも「天然痘」が最も疑われます。
 その時代からかなり年数は経過していることとなりますが、「筑紫」など半島と交渉のある地域から繰り返し「病原菌」が持ち込まれていたものと思われ、「上宮法皇」たち三人もそのような環境の中で「天然痘」患者の救済にあたっていたものであり、患者から感染したものではないかと考えられます。


(この項の作成日 2012/11/16、最終更新 2015/01/18)