ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:隋書たい国伝:倭国の諸情報:

「入れ墨」について


 『隋書俀国伝』の中には「倭人」の「入れ墨」の風習に関する記述があります。

「男女多黥臂點面文身沒水捕魚」

 この書き方は『魏志倭人伝』の以下の記述を下敷きにしていると考えられそうですが、実は微妙に表現が異なります。

(倭人伝)「男子無大小皆黥面文身。…文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」

 ここでいう「黥」とは「入れ墨」であり、皮膚表面に「線刻」の傷をつけた跡に「墨」や「黒土」などをすり込むものです。また「點」とは単に「点」を意味する語であり、「墨」や「黒土」などで「ホクロ」のように印をつけることを言うようですが、「黥」とは異なり「傷」をつけることはなく「消すことのできるもの」であったと見られます。
 さらに「文身」は「身体」のほぼ全部に針先などで傷をつけ、そこに「墨」や「色素」などをすり込んで「文様」を描き出すこととされます。
 また「臂」とは肩から手首までを言い、「面」は顔を言います。
 これらを踏まえて考えてみると、『魏志倭人伝』と『隋書俀国伝』では以下のような違いがあることが判ります。
 『倭人伝』では対象としては年令に関係なく「男子」とされ、女性については言及がないのに対して、「俀国伝」では「男女」となっており、女性も含まれています。
 『倭人伝』では「黥面」とされ「面」つまり顔に「入れ墨」がされているとしていますが、『俀国伝』では「面」は「點」とされ、これは「入れ墨」ではなく、消したり書き換えたりができるものと考えられます。
 
 また『倭人伝』ではただ「文身」とされていますが、『俀国伝』では「臂」と「身」とで表現が異なっており、「黥」つまり「入れ墨」は「肩から手首」までに施されるものであるのに対して、「文身」はそれ以外の身体各所に施されるものであり、表現が異なることが注意されます。

 これについては「黥」は元々「中国」では「刑罰」としてのものしか存在せず、それは「顔面」にだけされるものであったと見られます。そのことを示すのが『漢書地理志』の「魏」の「如淳」が施した「注」です。

「楽浪海中有倭人,分為百余国,以歳時来献見云,如淳日,『如墨委面』,在帯方東南万里,臣さん日,倭是国名,不謂用墨,故謂之委也,師古日,如淳云如墨委面,蓋音委字耳,此音非也,倭音一戈反,今猶有倭国,魏略云,倭在帯方東南大海中,依山島為国,度海千里,復有国,皆倭種」(『漢書地理志』より)

 ここでは「如墨委面」とだけ書かれており、その簡潔に過ぎる表現もあってその後の「臣さん」や「顔師古」の注がこの「如淳」の注の意義を誤解し、そのためやや的外れなことが注として書かれることとなっています。(この「如墨委面」を国の名とする理解もあるようで、誤解もはなはだしいと思われます)それもあって全体として混沌とした理解となっているようですが、これは古田氏がいみじくも指摘したように(※)「墨刑」という刑罰のことを示しているものとみられ、あたかも「中国」における「墨刑」のように「倭人」は顔に「入れ墨」をしている、という説明と見るべきでしょう。(「黥」は「墨」とも称したもの)それが「帯方郡」の東南万里にいるというわけであり、これは『魏志』の伝える「倭国」と一致する表現です。つまりここでは「刑罰」ではなく別の意義で「入れ墨」をしているというわけであり、そのような変った風習が倭人にはあるというわけです。
 この「黥」は「墨刑」になぞらえられるだけあって「墨」だけで書かれているのに対して、「文身」では色と模様が入っているものと思われます。(それらは共通して「沈没」して「魚」を捕らえる際に「虹龍(サメなど)の害」を避けるためのものであるとされますが、同時に「飾り」ともなっていたともされます)。

 以上からみて明らかにこの『魏志』と『隋書』の双方の記事はその内容が異なるものであり、『隋書俀国伝』は単に『倭人伝』から記事を引用したのではなく、その時点の最新の風俗を記したものと見られます。それはこの記事が「遣隋使」が自ら語った内容をベースにしたものと考えられる事からも明らかであり、「六世紀末」の「倭国」における「入れ墨」という風習についてかなり確度の高い情報と考えられます。そうであれば、『倭人伝』の時代(三世紀半ば)からこの間三百年間ほど経過している事となりますが、その時間的経過の中で「黥面」に対する感覚の変化があったと見られることとなります。
 年月が経過する内に事物に対する考え方や感覚が変化することは起きて当然ともいえるわけですが、この場合その変化の原因として最も考えられるのは「犯罪」に対する刑罰としての「黥面」の発生です。
 『書紀』の中でも「刑罰」として「黥面」にした後さらに「奴婢」とし、それが「部民」に及んだという記事が見られます。そこでは「犯罪者」に対してその「しるし」として「顔面」に「黥」を施すこととなったものであり、それはあきらかにそれまでの「風習」としてのものから変質したことを示します。

(日本書紀卷第十二 去來穗別天皇 履中天皇)「元年…夏四月辛巳朔丁酉。召阿雲連濱子詔之曰。汝與仲皇子共謀逆。將傾國家。罪當干死。然垂大恩而兔死科墨。即日黥之。因此時人曰阿曇目。…」

 これによれば「阿雲連濱子」は「謀逆」という罪を犯した結果「墨刑」とされたものであり、「黥」を施されたものです。(彼らはさらに「奴婢」とされたものと見られます)
 つまり、元々単なる「風習」であった「黥面」が、後に「犯罪者」に対してその「しるし」として「顔面」に「黥」を施すこととなったものであり、明らかにそれまでの「風習」としてのものから変質したことを示します。
 このような変化は「黥面」そのものに対する意識の変化が先にあったものと思われます。『倭人伝』の中でも罪を犯した場合「没」されるとは書かれていても「黥」されるとは書かれていません。それは当然当時「黥」には「犯罪者」の印という意義がないからです。そのようにそれまでは特に普通のことであった「點面」が、ある時期以降「蔑視」されるようなこととなり、そのため「一般人」は「彫る」ことはせず「點面」にとどまるとなったものと見られるわけです。(但し「文身」はまだこの「六世紀末」という時点でまだ遺存しているようですし、「臂」に「黥」する習慣もまだ残っていますから、これらは「衣服」などにより直接見えないことから「刑罰」の意義がないことと考えられたものと思われ、「黥面」だけが「刑罰化」したこととなるでしょう。)

 「改新の詔」以前には「黥面」は「犯罪者」及び「奴婢」の他「部民」にも施されていたものであり、「鳥飼部」「馬飼部」なども「入墨(黥)」がされていたとらしいことが『書紀』の記述から窺えます。

(同上)「五年…秋九月乙酉朔壬寅。天皇狩干淡路嶋。是日。河内飼部等從駕執轡。先是飼部之黥皆未差。時居嶋伊奘諾神託祝曰。不堪血臭矣。因以卜之。兆云。惡飼部等黥之氣。故自是以後。頓絶以不黥飼部而止之。」

 このような「黥面」の刑罰化は「黥面」の風習を強く保持していた集団あるいはそれらの集団で構成されていた「クニ」の衰退あるいは没落と関係しているのではないかと考えられるところです。
 この「黥面」や(「文身」も)という風習は「沈没」して「漁」をすると書かれている事からも海の民である「海人族」のものであるのは明らかですから、どこかで彼ら「海人族」にとって致命的とも言える政治的事案が起きたということではないでしょうか。そう考えてみると、「伊都国」の衰退と関係しているという可能性があると思われます。

 「伊都国」はその支配領域が「海」に近接した領域であり、また「邪馬壹国」と関係の深い「クニ」でもあり、「形骸化」はしているものの『倭人伝』で諸国の中では唯一「王」の存在が書かれている「クニ」でもあります。
 「倭国」において指導的「権威」を長く保持し続けてきた「伊都国」が海に深く関係しているとすれば、「黥面」という倭国の一般的風習の形成に「伊都国」が関係していたという可能性はあるものと思われます。
 「魏志」の「韓伝」においても(「弁辰」の項)「「倭」と接しているところでは「文身」している」とされています。(男女近倭,亦文身。)
 「倭」に近いところと言う「倭」とは「対海国」や「一大国」あるいは「九州島」の北端である「伊都国」などを指すと思われますから、この地域と「文身」という習慣が密接な関係があるのは確かと思われます。(但し「黥面」については書かれていませんから、「黥面」は「倭人」独自の習慣であったものでしょうか。)
 しかし、その「伊都国」は『倭人伝』でも「一大率」が「伊都国王」を差し置いて「刺史」の如く統治権を行使しているように書かれており、既にかなりその権威が低下している風情がみられ、これがその後さらに進行し、推測によれば「博多湾」に面した「大津城」が「伊都国」の支配下から「奴国」に編入されるという事案が発生したとみられる時点以降、「伊都国」そのものがいわば消滅したものではないかと推量され、このような政治的変化が(あるいは闘争を伴って)起きて以来、「伊都国」を象徴するものとして存在していた「黥面」が、その「伊都国」という権威の否定と共に「刑罰」化したものではないでしょうか。(倭人伝時点で既に「戸数」も少なくなっており、実力はほぼなかったと思われますから、伝統とそれに基づく権威だけで存在していたと見られ、その意味でも消えゆく運命であったともいえるものです。)
 またそれは「海人族」一般の没落をも意味していると思われ、その後の「倭の五王」などの時代には「海人族」は傍流という立場とされていたのではないでしょうか。このことは相対的により内陸にあった勢力が伸張したことを示唆するものであり、「筑紫」から「筑後」そして「肥後」というように「玄界灘」から奥まった地域に倭国の権力中心が移動したことを暗示するようです。
 そして以後この「黥面」は「罪」を犯して「奴婢」となった人々以外にも「東国」など「被征服民」として「部民」とされた人々に対しても同様に施されたものであり、これが停止されるのは「阿毎多利思北孤」の改革まで待たなければならなかったものです。


(※)古田武彦「「邪馬台国」はなかった」(文庫版)角川書店一九七七年


(この項の作成日 2014/09/11、最終更新 2017/01/29)