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「律」(刑法)について


 また、『隋書』の「記事」からは「刑法」の存在が窺え、後の「笞杖徒流死」の原型とも言うべき「杖流奴(奴隷になる)死」が定められていたようです。この事から「奴婢」という存在は「犯罪」に関係していると考えられるでしょう。

「其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中令取之、云曲者即螫手矣。」

 「無財者沒身為奴」という表現からは「窃盗」の罪に問われた際、「賠償」不可能であるときに「奴隷」となるとされますから、基本的に「奴隷」とされる条件は「賠償能力」の問題であるようです。
 『倭人伝』においても「刑」の一つとして「没」あるいは「滅」する場合があるとされています。

『魏志倭人伝』「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸、及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。」

 これは犯した罪の軽重により及ぶ範囲が異なっている事を示すものですが、いずれも「没」や「滅」とされています。これらは「官戸」「官奴婢」などに身分を落とされることを意味していると考えられます。(「没」が「奴婢」になるということを意味するのは『書紀』や「中国」史料にも多数見られ、伝統的な用法のようです。)
 
 また、ここでは「笞」の刑が書かれていません。「笞」は「孝徳朝」とされる「東国国司の詔」の中に(以下のように)現れます。ただし、後でも述べるように、この「詔」が実際には「七世紀前半」に出されたものと考えられ、その時期的変遷から上に見た「杖」と「奴」との間に新たに「笞」刑がその時点で加えられたらしいことが推定され、これは「強い権力」の出現と重なると思われます。つまり、「強い権力」の出現は、「律」の制定(改定)を伴ったものとみられますが、「犯罪」の規定が変化して種類が増えるとそれに伴って「刑」の種類も増加せざるを得ず、その結果「笞刑」が追加されることとなったのではないでしょうか。

『日本書紀』巻二十五「大化二年(六四六年)三月辛巳条」
「詔東國朝集使等曰。集侍群卿大夫。及國造。伴造。并諸百姓等。咸可聽之。以去年八月朕親誨曰。莫因官勢取公私物。可喫部内之食。可騎部内之馬。若違所誨。次官以上降其爵位。主典以下。决其『笞杖』。…」

 中国の例でも、社会の進歩は即座に犯罪の増加につながり、またその増加は数と共に種類の増加でもあったものです。「漢王朝」成立後、「高祖」は「犯罪」の種類を簡素化しましたが、それはそれまでの「犯罪種類」の数の多さに人々が「辟易」していたためであり、それを大胆に削減したものです。(しかしそれもまた暫時増加することとなったとされます。)
 「秦王朝」は「法治国家」を目指し、また完成させたとされますが、それを支えていたのは膨大な種類の「刑法規定」であり、それに伴う「刑罰」の種類の多さであったと思われます。「統治行為」の中心には強大な「警察・検察機構」の存在が必須であり、またそれは発生する犯罪の多角化を招くこととなったと思われます。その結果「微罪」が増加することとなり(微罪でさえも許容しないという姿勢であるため)、その「微罪」に対しては「杖」の刑では重すぎると言うこととなって「笞刑」が追加されることとなったと見られます。
 このように「笞刑」が増加された時点は「強い権力者」の出現と同期していると考えられ、それもやはり「天子」を自称した「六世紀後半」の「阿毎多利思北孤」の即位時点付近を想定するのがもっとも蓋然性が高いと思料します。

 また、ここで見られる「奴」の制がその後の「徒」の制に変わったものと思われ、いずれも「強制労働」の意が含まれているようです。
 但し、「徒」の方は「身分」の変更を伴わなかったのではないかと考えられ、「良民」はその「良民」のまま一時的に「強制労働」をさせられていたと見られます。

 また「盟神探湯(くがたち)」と思われる「罪」の有無の判定法が書かれているのが印象的です。これは「解部」によって「審判」が行われるわけですが、判断が難しいとき、あるいは双方の主張が折り合わないときは「神意」に任せるため、「熱湯」の中に手を入れさせ、焼け爛れない方の言い分を認める、というもので、後の江戸時代にも行われていたという記録があるほど日本では古代からポピュラーな方法でした。『書紀』にその例を求めると「垂仁」「応神」「允恭」「継体」と確認できますが、それ以降は見られません。
 また当然「磐井」の「解部」時代にもあったものと思料されます。
 「隋使」には非常に珍しかったようで、詳しく書かれています。ただし「継体紀」の例は「任那」における例であり、日本からの官人が「正邪」の判断を専らこれで行い、焼け爛れて死ぬものが多く、大不評だったことが書かれています。
 
 また「盟神探湯」とやや似ているのが「罪の有無」を「炎の中に身を投じさせ」、火に焼かれなければ「無実」という方法でした。これは『欽明紀』にある記事であり、そこでは「鞍」の飾りを盗んだとされる「馬飼首歌依」が拷問で死んだ後彼の子供に対して「刑」として「投火」つまり「火の中に投げ入れる」というものを行おうとしたとされます。(結局は実行されなかったもの)これについては『書紀』編纂者の「注」とおぼしき文が書かれてあり、そこでは「古の制度か」とされています。)

「(欽明)廿三年(五六二年)…夏六月…是月。或有譖馬飼首歌依曰。歌依之妻逢臣讃岐鞍薦有異。熟而熟視。皇后御鞍也。即收廷尉。鞫問極切。馬飼首歌依乃揚言誓曰。虚也。非實。若是實者必被天災。遂因苦問。伏地而死。死未經時。急災於殿。廷尉收縛其子守石與中瀬氷守石。名瀬氷。皆名也。將投火中。投火爲刑。盖古之制也。咒曰。非吾手投。以祝手投。咒訖欲投火。守石之母祈請曰。投兒火裏。天災果臻。請付祝人使作神奴。乃依母請許沒神奴。」

 このような制度もあったものと見られますが、これが「死刑」の一種なのか、「拷問」の一種なのかやや不明ですが、「神託」による審判という意味においては「盟神探湯」と共通しているようです。しかし『隋書』に記された「刑」の分類中には「窃盗」は「没」とされており、結果的にはこの「馬飼首歌依」の子供も「神奴」とされたらしいですから、整合しているといえなくもないですが、通常の刑と異なっていると思われ、それは「皇后」の所属に帰するものの盗難事件であったからではなかったかと思われます。

 ちなみに「咒曰。非吾手投。以祝手投。咒訖欲投火。」という部分を見ると、「倭国」においては「祟り」が大変恐れられていたらしいことが窺え、他人を死に至らしめたものは「祟り」に見舞われると信じられていたらしいことことが推察できます。そのため「自分」が火の中に投げ入れるのではなく、「祝」(神官のような人物)がこれを行うのだと「咒」っています。これはこのような際の決まり文句だったかもしれません。つまり「神」に仕える者であれば「祟り」を免れるものも、それ以外の者の行動では「祟り」が避けられないと信じられていたもののようです。
 またこの事は「死刑執行人」のなり手がいなかった可能性を示唆するものであり、それは結局「部民」に割り当てられるべき作業となっていたのかもしれません。
 後の「律令」の導入においても「死刑制度」などについてはその範囲が狭く、たいていの場合死刑ではなく罪一等を減じているのも同様に「祟り」を恐れたものともいえるでしょう。
 戦いの中で傷つけ合うことはあっても、戦いのその後では極刑に処しているのは「蘇我倉山田麻呂」の謀反記事の中で「物部」が「山田麻呂」の首をはねたという記事が初見であり、それ以降「有間の皇子」と壬申の乱の「中臣金」が絞首刑ぐらいであり、明らかに「死刑」は避けられているといえます。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/01/03)