『隋書俀国伝』には「鵜飼」の情報も書かれています。(これは「遣隋使」が隋皇帝の下問に対して答えたもの)
「以小環挂廬鳥滋鳥項令入水捕魚日得百餘頭。」
つまり小さな首輪を「廬鳥」(これは「鵜」のこと)につけて、それを水に入れさせ魚を取らせるという漁法があるというわけですが、これは「鵜飼」を指すものであるのは明らかです。この「鵜飼」については一般に「長良川」の風習として有名です。それは「大宝二年」の「美濃国戸籍」の中に「鵜飼部」という「姓」があり、そのことから「美濃」地方では少なくとも「七世紀」には「鵜飼」が行われていたことがうかがえます。しかし『記紀』には「神武歌謡」と言うべき「歌謡」が記されていますが、その中に「鵜養が伴、いま助けに来ね」という表現があり、神武の出身地である九州(これは「筑前糸島」か)では弥生時代から鵜飼が行われていたことを示しています。
「戊午年…十有一月癸亥朔己巳。皇師大擧。將攻磯城彦。先遣使者徴兄磯城。兄磯城不承命。更遺頭八咫烏召之。時烏到其營而鳴之曰。天神子召汝。怡奘過。怡奘過。過。音倭。兄磯城忿之曰。聞天壓神至。而吾爲慨憤時。奈何烏鳥若此惡鳴耶。壓。此云飫蒭。乃彎弓射之。烏即避去。次到弟磯城宅而鳴之曰。天神子召汝。怡奘過。怡奘過。時弟磯城 然改容曰。臣聞天壓神至。旦夕畏懼。善乎烏。汝鳴之若此者歟。即作葉盤八枚。盛食饗之。葉盤。此云毘羅耐。因以隨烏。詣到而告之曰。吾兄兄磯城聞天神子來。則聚八十梟帥。具兵甲將與決戰。可早圖之。天皇乃會諸將。問之曰。今兄磯城果有逆賊之意。召亦不來。爲之奈何。諸將曰。兄磯城黠賊也。宜先遣弟磯城曉喩之。并説兄倉下。弟倉下。如遂不歸順。然後擧兵臨之亦未晩也。倉下。此云衢羅餌。乃使弟磯城開示利害。而兄磯城等猶守愚謀不肯承伏。時椎根津彦計之曰。今者宜先遣我女軍。出自忍坂道。虜見之。必盡鋭而赴。吾則駈馳勁卒、直指墨坂。取菟田川水以潅其炭火。■忽之間出其不意。則破之必也。天皇善其策。乃出女軍以臨之。虜謂大兵已至。畢力相待。先是皇軍攻必取。戰必勝。而介胃之士。不無疲弊。故聊爲御謠以慰將卒之心焉。謠曰。『■■奈梅弖。伊那瑳能椰摩能。虚能莽由毛。易喩耆摩毛羅毘。多多介陪■。和例破椰隈怒。之摩途等利。宇介譬餓等茂。伊莽輸開珥虚禰』。果以男軍越墨坂。從後夾撃破之斬其梟帥兄磯城等。」(日本書紀卷第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇)
これによれば「鵜飼」は「鳥取」などと同様「王権」に直属する重要な職掌であったらしいことがわかります。彼ら「神武」一族は「筑紫」から「東征」したものであり、当然「鵜飼」も「鳥取」も「筑紫」において成立していた「部」であり、「伴」であったこととなるでしょう。
記録によれば「九州」にはその後も風習として残ったことがわかります。たとえば『太宰管内志』(これは江戸後期の成立)には鵜飼の風習について次の通り書かれています。
「…廬鳥*滋鳥*を飼て、此川の年魚(これは「鮎」)を取て、なりはひとするもの多し…其鵜飼舟と云ものはいといとちひさくして、わづかに鵜つかふ人と船さす人と二人のるばかりに作れり、船ノ中には薄(スヽキ)の松明あまたに入れて、それを左ノ手にともして、右ノ手にて鵜をつかふ事なり、ひとりにて四ッも五ッもつかふに、手をひねりつヽ糸のみだれぬやうにとりさばくさま、えもいはずおもしろき見(ミ)物なり、…」「日田川〔筑後川の上流。豊後国日田郡〕
「…生葉郡吉井亦有養廬鳥*滋鳥*、待夜使捕 魚者是曰夜川、…」吉井〔筑後国生葉郡〕
「…其川邊及三里者皆養廬鳥*滋鳥*〔中略〕使廬鳥*滋鳥*自上流逐之待魚之聚於網上而後擧網一網或得魚数百…」瀬高庄〔筑後国山門郡〕
このように筑後川とその上流である「日田川」において鵜飼という漁法が残っていること了解できます。
「長良川」の鵜飼については上にみたように「七世紀後半」当たりには存在していたようですが、それがどのくらい時期として遡上できるかは不明です。ただしその後「信長」「家康」などの時の最高権力者の閲覧するところとなったのは何らかの歴史的経緯を踏まえたものということも考えられるところです。
また高良大社文書『筑後国高良山寺院興起之記』(十四世紀頃の成立とされる)には、九世紀における高良大社近辺の人物による鵜飼が記されています。
「阿曇ノ大鷹見麻呂トイフモノ有リ。性遊猟ヲ好ミ、動モスレバ廬鳥*罩(ろたく)ニ随フ。…天長八年辛亥年(八三一)七月廿九日、少病少悩ニシテ奄逝ス。…」(原文は漢文)浄福寺
『万葉集』にも大伴家持の次の長歌があり、「越」の地でも「鵜飼」が行われていたことがわかります。
「大君の 遠の朝廷ぞ み雪降る 越と名に負へる 天ざかる 鄙にしあれば 山高み川とほしろし 野を廣み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛と 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに かがりさし (以下略)『万葉集』巻十七 四〇一一」
平城京から出土した木簡にも筑後地方の鮎を記したものがあります。
「筑後国生葉郡煮塩年魚 伍斗 霊亀二年」(七七一年)
「筑後国生葉郡煮塩年魚 四斗二升 霊亀三年」(七七二年)
これでみると生葉郡(浮羽郡)は古くから「年魚」(鮎)の産地だったとみられます。その「鮎」が「鵜飼」漁法に依ったものということも十分推測できるものです。
さらに、柿本人麻呂の長歌に以下のようなものがあります。
「やすみしし わが大君は 神ながら 神さびせすと 芳野川 たぎつ河内に 高殿を (中略)上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて奉れる 神の御代かも 〔巻一、三八〕」
この中の「芳野川」という地名については「奈良県」の吉野であるという理解が通常ですが、『和名抄』には「河内」という地名が奈良県吉野近辺には見あたらず、他の地域を渉猟すると佐賀県に多いことや、佐賀県と福岡県の県境となっている筑後川旧流に接する久留米市長門石町には「上鵜津」「中鵜津」「下鵜津」という字名が残っていることなどから、この「芳野川(吉野)」が「筑後」の「吉野」ではないかと思われるわけです。
以上から、『隋書俀国伝』に書かれた「鵜飼」は「筑後川」で行われていたものと考えることができるでしょう。
(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2017/07/08)