また上の記事中に見える「衣服」についても「男女とも」「裙襦」を着用しているとされることが注目されます。
「…其服飾,男子衣裙襦,其袖微小,履如?形,漆其上,?之於脚…婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有?…」
この「裙襦」という服装は「半島」の各国の服装について触れた以下の部分から考えて、それらとはかなり異なる習俗であることがわかります。
「隋書/列傳 凡五十卷/卷八十一 列傳第四十六/東夷/高麗
「…服大袖衫,大口袴,素皮帶,素革帯。婦人裙襦加〔示+巽〕。…」
(同百済)「…其衣服與高麗略同…」
(同新羅)「…風俗、刑政、衣服,略與高麗、百濟同…」
つまり、「高麗」以下半島諸国では「袴」を基本としており、「裙」つまり「和服」様のものとは全く違う形状をしていると思われます。この「高麗」の服装は「隋・唐」に通じるものであり、北方系の習俗と考えられるものです。それは「乗馬」の習慣と深く関係していると思われるものであり、馬に「跨る」という必要性から発達したものといえるでしょう。
それに対し「裙襦」は中国(漢民族)の伝統的服装とされ、中国北半部が「胡族」に制圧された「南北朝」以降は「南朝側」の服装として著名であったものです。
「裙」とは「裳裾」をいうものであり、和服(呉服)様のものを指すといえます。また「襦」は「短衣」とされますから、腰から下よりは長くない上着をいうものです。それは袖が「微少」という形容からも窺えます。このよう形態は乗馬には全く適さないものであり、「南方系」の習俗であることを推察させます。
「衣服」という重要な部分が「半島」からの伝搬ではないらしいということは、南朝との結びつきがかなり強かった過去があったことを推定させます。
(女性の服装は「半島」も「倭国」も共通であり、それは「漢文化」の影響であるといえますが、上の考察からは「高松塚」のような遺跡の壁画などから「女性」の服装だけを見て、「半島」の影響であるとは断定できないこととなります。)
これと関連しているのは『天武紀』の以下の記事です。
「(天武)五年(六七六年)春正月庚子朔。…癸卯。高市皇子以下。小錦以上大夫等。賜衣袴褶腰帶脚帶及机杖。唯小錦三階不賜机。」
ここでは「朝廷」から各位に「袴褶腰帶脚帶」が支給され、服装が一新されたらしいことが記されています。この「服装」が「隋・唐」の様式であるのは言うまでもありませんが、それが「倭国」の正式な服装として導入されるまで長年月かかったのはなぜでしょう。
「遣隋使」「遣唐使」はこの『天武紀』まで幾度となく派遣され、また「隋・唐」からも使者が幾度となく来ているにもかかわらず、これだけの時間を要したと考えるのは不審と言わざるを得ないのではないでしょうか。
少なくとも「六四八年」に「新羅」を通じ「起居を通じた」とされている時点の至近で「唐」の様式を取り入れたとしても不思議ではないように思われる訳です。
後でも触れますが、この『天武紀』など『書紀』で「七世紀後半」とされる時期の記事は実はもっと早い時代のことではなかったかと考えられるものであり、「潤色」と「改定」の手が大幅に入っている疑いが強いものです。
(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/01/29)