『隋書俀国伝』の中では「官位制」について以下のように書かれています。
「内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數」
このように「徳」及び「仁義礼智信」により冠位が定められているとされます。これは「儒教」の五徳そのものです。しかし「聖徳太子」が定めたという「冠位十二階」(以下の記事)は階の並び方が違っており、「徳」以下は「仁礼信義智」という順番になっていて、この順番は儒教に基づくものといえません。
「十二月戊辰朔壬申。始行冠位。大徳。小徳。大仁。小仁。大禮。小禮。大信。小信。大義。小義。大智。小智。并十二階。並以當色■縫之。頂撮總如嚢。而著縁焉。唯元日著髻華髻華、此云于孺。」
明らかに、『隋書』に書かれた「倭国」の制度の方がノーマルであり、また納得できるものです。ただし、官位の順が異なっている以外は全て同じですから、これを別制度とまではいえないと思われます。これは「隋」と「倭国」の間で相互理解が不十分の結果起きた誤解であったと考えられるでしょう。
ところでこの『書紀』に書かれた順は「隋代」に書かれた『五行大義』という「五常」に対する注釈集の中に出てきます。
「…由稟五行之氣。各有優劣。故有多等。善惡不同。今且分為四品。其神真道至聖德賢七者。受王氣而生也。善中辨『仁禮信義智』八者。相氣而生也。士庶農商工五者。休氣而生也。?小駑愚完五者。囚氣而生也。…」(簫吉『五行大義』巻五)
「…孔子曰…中五『仁人者』。為上不侈其功。為下不羞其陋。慈施惻隱。終而不衰。此仁人也。『禮人者』。分別尊卑。廉讓謙謹。為上恭敬。為下思敬。此禮人也。『信人者』。誠實不欺。片言折獄。達不肆意。窮不易操。此信人也。『義人者』。決斷分了。一度順理。從善屏惡。事無礙滯。此義人也。『智人者』。識達謀慮。鑒察物情。能知萌兆。豫睹善惡。此智人也。…」(簫吉『五行大義』巻五)
これを見ると『書紀』に書かれた順で項目が挙げられており、この部分が『五行大義』を参照したという可能性があるものと思われます。この『五行大義』は時代的に「隋代」成立ですから「隋」から成立直後にもたらされたということもあり得そうですが、『書紀』のこの付近の記事には真の年次と二十年程度の「ずれ」があることが推定されており、それに従えば「冠位十二階」は通常考えられている「六〇三年」ではなく「五八三年」の成立となって、これは「遣隋使」派遣以前であると思われますから、「隋」との交流により入手したとか影響を受けたとはいいにくいこととなります。そのことはもっと以前からこの「制度」が国内に行われていたことを推定させるものであり、「法華経」とともに「百済」から伝来したものと考えるのが相当といえるでしょう。
また、『隋書俀国伝』の別の部分(これは「隋使裴世清」の見聞を記したものと思料されます)に記すところによると、「隋使」が来たことを知ると、まず「十二階」中「二番目」である「小徳」という高位の人物を向かわせ、「倭国王」の「代理」として「歓迎」の「意」を表わさせた後、「旅の疲れ」が癒えたころに「七番目」という地位の「大禮」という「実務方」とも云うべき位の人物に「引率」させ「倭国王」に面会させているように見えます。
これが『書紀』に記載する「冠位」でいうと「大禮」は「五番目」の高位の人物となりますから、格段に「丁重」な扱いをした事となるでしょう。
「…倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多?、從二百餘騎郊勞。…」『隋書俀国伝』
しかし来倭した「裴世清」は最下級の官人(九品)でしたから『隋書』の順位でほぼ対等な関係ともいえ、『推古紀』では少なからず高すぎると云えるではないでしょうか。
またこの記事が『推古紀』の「六〇八年記事」と同じ事象を記したものと考えるには、『書紀』の「裴世清」を迎える儀式に参列する「人」「馬」とも『推古紀』と数字が異なるなどの違いが確認できます。
「(推古)十六年(六〇八年)夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。…
秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。」
つまり『隋書』では「二百餘騎」とされているのに対して『推古紀』では「七十五疋」というように「裴世清」を迎えた馬の数が異なっています。また『推古紀』では「飾馬」と共に「飾船」による歓迎風景も書かれていますが、『隋書』の方ではそれが(全く)ありません。さらに「日数」においても『隋書』では「倭国」の都付近に到着後「十日」ほどで「宮殿」に案内されたように書かれていますが、『推古紀』では「六月壬寅朔丙辰」(十五日)に「難波津」(難波館)に到着後一ヶ月半ほど経過した「秋八月辛丑朔癸卯」(三日)になって「入京」したと書かれていますから、これもまた大きく異なるものです。
これらはこの二つの記事が同一の記事とは思えず、本来「別」の事象であったことの証左ともいえるものです。これは『推古紀』の方が「国交開始時点」であり「隋制」を良く承知していなかったとした場合、人数などがその基準と異なっていたとしても不思議ではないこととなるでしょう。(日数がかかっていることも初めてのことで準備に時間が余計にかかったと見れば不思議はありません)
また官制と服装の制度に関する事としては『隋書』の「開皇二十年記事」において「故時衣橫幅、結束相連而無縫。頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。至隋、其王始制冠、以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。」という記事が重要です。ここでは「故時」つまり古くは衣服は縫わないで「結んで」つなげただけであったとされており(つまり「針」と「糸」がなかったことを示すもの)、さらに「冠」も以前はなく、ただ「髪」を左右に垂らしていた(「みずら」を指すか)だけであったとされています。そして、それが「至隋」、つまり「隋」に至って「冠」をかぶることが制度として決められたというわけです。
ここに書かれた「至隋」の意味がやや不明確ではあるものの、これは「隋」と交渉が始まって以降「伝搬」あるいは「導入」したものと理解でき、「冠」をかぶるということ、それが階級によって差を設けたことが制度として決められたのが「隋」の建国の年である「五八一年」以降の「開皇年間」のことと想定され、「九州年号」の「端正元年」が「五八九年」であるところから、この改元が「阿毎多利思北孤」の即位によるものと推察され、この時点付近で「冠」についての制度が施行されたものと推定されます。
ところでこの『隋書』に書かれた「内官」の制度と、「冠」をかぶることを制度として定めたと言う事は一見同じことを指しているようですが、その『隋書』の中の現れ方は全く別(の文脈)であり、実はこの二つは全く別のことではないかと思われます。これは「大越氏」の議論(※)に既に触れられていますが、少なくとも『隋書』の中では「隋に至って」から「内官」の制度が始められたというようなことは書かれていないのです。
ここには「内官」として「十二等」があるとするわけですが、この「内官」という表現からも「王権内部」(というより「京域」ともいうべき「倭国中央」)における人事階級制について書かれていると思われるわけですが、この時点付近で初めて「京師」が制定されたと考えられることから、それまでは「畿内」「畿外」の別なく一律の「制度」として「階級制」が(以前から)あったと見るべきでしょう。なぜならそれ以前に「倭国」という政府組織そのものは(それほど中央集権的ではなかったにせよ)あったと見られるわけですから、そこに属する者達の「差別化」は指揮命令系統の構築という意味でも絶対に必要だったはずだからです。つまり、「京師」以外の地域、別の言い方でいうと「畿外諸国」においては、それ以前の「階級制」をそのまま継続する事となったものと思われ、「諸国」の王など倭国とつながる権力者達は「倭国王」支配下の「官人」として階級が定められていたものと思われます。
「内官」という階級的制度は『隋書』の夷蛮伝を渉猟しても当時東夷では「倭国」だけにあったものであり、たとえば『百済伝』を見ると単に「『官有』(十六品)」とされています。その意味では「倭国」の統治体制と統治範囲が「都城」付近に留まらず、かなり地方まで広がっていたことが窺われ、その意味で本格的なものであったことが示唆されます。
ところで、この「内官十二等」は一見して「儒教」の「五常」と深い関係があると見られますが、その「儒教」が倭国に伝わったのは『書紀』によれば「応神天皇」の頃とされており、そこでは「論語」と「千字文」が伝来したとされています。しかし「千字文」は「南朝」の「梁」の時代の編纂とされますから、「応神」の時代という記述は疑わしいこととなります。
これについては『梁書』によればいきさつとして以下の通り書かれています。
「高祖革命,興嗣奏休平賦,其文甚美,高祖嘉之。拜安成王國侍郎,直華林省。其年,河南獻?馬,詔興嗣與待詔到沆、張率為賦,高祖以興嗣為工。擢員外散騎侍郎,進直文德、壽光省。是時,高祖以三橋舊宅為光宅寺,敕興嗣與陸?各製寺碑,及成?奏,高祖用興嗣所製者。自是銅表銘、柵塘碣、北伐檄、次韻王羲之書千字,並使興嗣為文,?奏,高祖輒稱善,加賜金帛。」(梁書/列傳 凡五十卷/卷四十九 列傳第四十三/文學上/周興嗣)
この記事からは「千字文」の成立は「梁」が「斉(南斉)」から禅譲された「五〇二年」のことであったらしいことが読み取れます。つまり「千字文」は「六世紀初頭」の成立であり、「四世的」に伝わるはずがないこととなります。これは「応神天皇」の頃という時代のくくり方をしている『書紀』の記載に問題があると思われ、実際には「千字文」の成立後「六世紀の初め」には伝来していたと見るべきでしょう。
これについては同じ『書紀』に継体天皇の時代のころ(五一三年)、百済より 五経博士が来倭したという記録があり、これであればこの時点で「千字文」が伝えられると共に「論語」なども「五経」と共に伝来したとしてそれほど不審ではなさそうに見えます。
「(継体)七年夏六月。百濟遣姐彌文貴將軍。洲利即爾將軍。副穗積臣押山。百濟本記云。委意斯移麻岐彌。貢五經博士段楊爾。…」
しかし、すでに見たように『継体紀』が本来の年次から「六十年」下った位置に置かれているとすると、「千字文」を除き「五経」に関しては「五世紀」半ばには伝来したとみることもできます。(その意味ではこの「継体紀」記事に「千字文」に関することが書かれていないことが注目されます。)そうであれば「内官十二等」についても同様に「五世紀半ば」付近に上限を考えるべきであり、この年次にかなり近い時代の創設ではないかと考えるべきでしょう。つまり「倭の五王」のうち「済」の時代付近で整えられた「等級制」ではなかったかと考えられることとなります。(当然「千字文」は「五経」とは別個に伝来したものであり、それは「六世紀初め」以降のことと考えられます。)
この「六世紀末」の「倭国王」は中央集権的な「統一王権」を造ろうとしていたものと推定され、(それは「隋」の「訓令」に触発されたものと思われますが)「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察されます。そのため「隋」から各種の制度、文物を導入しようとしていたと思われますが、それが「冠」をかぶるという制度の導入と関係していると思われます。
「開皇二十年」に派遣されたという「遣隋使」が述べた「冠」をかぶる制度の紹介では「至隋其王始制冠」とされており、文脈上「其王」とは「阿毎多利思北孤」を指すものと考えられますから、彼により「隋」が成立して以降の「六世紀末」に「官位」に応じた「冠」が制度として決めたものとみられるわけです。
(※)大越邦生「多元的「冠位十二階」考」(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集一九九九年新泉社)
(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2018/07/16)