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「朱鳥改元」年次について


 すでに考察したことからみて「朱鳥改元」は、もしそれが『書紀』に書かれた「持統」の治世期間中と理解すると、「六九七年八月一日」がもっとも想定しやすい年次です。この年次であれば「立太子」した「文武」への禅譲が行われた時点であり、その時点まで「持統」が「称制」していたとすると、非常に整合性が高いと思われます。この考えは『書紀』の「朱鳥」改元年次が「持統」の称制期間とかぶっている不審をクリアします。

 ところで、関東(現在の群馬県から埼玉県付近)には「羊太夫」伝説が各所にあり、それらの説によれば「羊」年の「羊」の日の「羊」の刻生まれであるため「羊太夫」と呼ばれた人物がいた、とされますが、重要な情報としてその生年として「朱鳥九年」とする史料があることです。

「朱鳥九年未月未刻に生まれ羊太夫と名付…」『上州の史話と伝説二』

 この史料のように「未年」という情報が欠落している伝承もあるようですが、「生まれ年」を「名前」とする例は多く確認されているものの、「年」の干支は「未」ではないのにそれを名前にせず「月」や「時」が「未」であるからといってそれを名前とすることがあったとは考えにくいものです。やはり「年」「月」「日」「刻」という四拍子が揃ったことで「羊」と称されるようになったと考える方が実際的と思われます。
 生まれ年が「未年」であると言う事及び「朱鳥」年間であるとする上のような資料から考えると、通常の見方であれば「未年」は「六九五年」という年次が該当する可能性を検討するのが一般的であるわけですが、『風土記』などで「庚寅年」にかなりの変革があったことが推定されており、それが「新倭国王」の即位以降行われたであろう新政策の下のものと考えるのは自然ですから、その記事の解析からその「庚寅年」は「七世紀前半」である「六三〇年」が推定され、「新倭国王」の即位を示すと思われる「朱鳥元年」も「七世紀」後半ではないという可能性が考えられるわけであり、「六二六年」がその本来の年次として推定されるともいえます。一般に「六八六年」とされているのは「干支一巡」移動されたものではないでしょうか。(その場合「鬼室集斯」の墓碑は後年の建造であり、彼の死去した年次は「朱鳥」年間ではないこととなり、「朱鳥」年号について潤色が施された後のものという可能性が考えられるところです。)

 そもそも「皇孫」が天下りして統治を開始するというやや前時代的な思考法が七世紀も後半の倭国に行われたということそのものがかなり信頼性に欠けるものであり、このようなことは「唐」との関係が本格的になり、唐からの諸々の文化制度を導入する以前の出来事と考えるべきでしょう。
 『旧唐書』などに「六四八年」という年次で「唐」と「倭国」の間に国交が回復した意味の事が書かれてあるところから見て、「七世紀中程」付近が実際の年代としてもっとも措定できるものです。

 これについては、「朱鳥年号」が「十五年」まで継続し「十六年」に「大宝」に改元されたという記事があり、注意されます。

(再掲)「文武天皇同十五庚子同十六年辛丑改元有大宝云…」「一六八八〜 本朝之大組之雑記」

 ところで「朱鳥」年号史料には「朱鳥年号」と「持統称制期間」を示すものと二種類確認できます。しかし、明らかに「称制期間」が先行し、その後「朱鳥」改元となったと思われますから、『書紀』に見える「朱鳥」の現れ方とそれに影響を受けたと思われる史料とはこの際重視すべきではないこととなるでしょう。
 たとえば上に見るような「朱鳥九年」に「未年」であるというような史料はこれが「称制」期間を示すものとすでに混同されていると考えられますから、これを安易に「持統称制」期間を示すとして「朱鳥」ならば「十年」というような解釈はできないこととなります。
 「朱鳥」という年号が「禅譲」による「王権」の移動を祝しての改元であるとすると、それ以前に「皇太后」による「称制」期間を示す期間が存在しているはずであり、それが「朱鳥」と「持統称制」の混乱に現れていると思われます。
 実際には「持統称制」の期間が先行し、数年後「朱鳥」改元という流れとなるはずですが、『書紀』では「朱鳥改元」の翌年に「持統称制」が開始されています。これは明らかに記事に混乱があると思われ、この付近の記事には潤色があることを如実に示すものです。
 その意味で「六九一年」に「即位」記事があることに注目すべきです。この「即位」記事は実祭には「皇孫」についてのものであり、この時点で「朱鳥」に改元されたとすると、「称制期間」が数年継続した後「禅譲」が行われたこととなり、自然です。『歴代建元考』によればその後「大和」に改元されたとしますが、これは「改元」の大義名分として「王権」の移動だけではなく、「宮殿」の移動などがより重要であることがすでに正木裕氏などにより明らかにされており、(朝廷の名前は宮殿の所在からとるため)、この場合も同様である可能性が高く、「皇孫」の統治場所として新宮(大極殿)が(多分「木造」により)仮使用が開始された時点を示している可能性が高いと思われます。(この「改元」が「大和」ではなく「大化」であるという可能性もあるでしょう)

 またすでに言及したように「大寶改元」は「六四一年」となるわけですが、「大長元年」が「壬辰」つまり「六四四年」とされているところから「大寶」は「六四一年」から「六四四年」まで継続したこととなりますが、『続日本紀』によれば「大寶」は「七〇一年」から「七〇四年」の間継続したこととなっており、その継続年数も合致することとなります。


(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2017/01/02)