「大化」という年号は多分知らない人がいないのではないかと思われます。それほど「学校教育」での「大化の改新」という出来事については繰り返し教えられてきているわけですが、その「大化」というのは『書紀』では「六四五年」に「改元」され、(建元ではなく)そして、「白雉」へとつながっていきます。この「大化」は実は『二中歴』ではその元年が「乙未」とされており、これは現在「六九五年」と考えるのが主流です。つまり『書紀』の「六四五年」とは「五十年」食い違っているのです。この場合であれば『書紀』の中で「大化」の後に公的に年号を継続しなかった(『書紀』などに元号を発布した記録を残せなかった)理由が判明します。というのは「大化」からほぼ直接「大宝」へつながることになるからです。
また、「大化の改新」直後に出された「詔勅」や制定された制度の文章などが『続日本紀』に書かれた「律令」の文章などに酷似している理由もよく理解できることとなります。つまりこれらのことは実際にはほぼ同時期に起きた出来事だったと思われるのです。
さらに『本朝皇統紹運録』という書物には「文武天皇」について以下のように記載されています。
「白鳳十二癸未降誕/大化三二立太子十五/同八一即位今月受禅/五年三廾為大宝元/慶雲四六十五崩卅五/葬于持統同陵安占山稜」(これは「早稲田大学所蔵本」によります)
この『本朝皇統紹運録』は「中世」に書かれた「各天皇」の即位や治績などを系譜として書いたものであり、「宮内庁」に多くの写本が所蔵されているものです。またさらにそれを写したものも数多くあり、国会図書館を初めとして複数の大学図書館などにも所蔵が確認されています。
ここに書かれた意味は「『白鳳』十二年癸未の年に誕生し、『大化』三年二月に十五歳で立太子して、同じく『大化』三年八月一日に即位したものですが、これは前天皇から受禅したものであり、さらに『大化』五年三月二十日に「大宝」と「建元」したもので、その後「慶雲」四年六月十五日に崩じ、その時の年齢は三十五歳であったもので、「持統」と同じ「安占山稜」に葬られたというものです。
(以前この文章について「即位年次」が書かれていないと言うことを述べましたが、原典の探索が不十分でした。「京都大学」や「早稲田大学」に所蔵されている資料を見てみると「即位年次」は書かれており、これを見落とした当方の錯乱でした。さらに「白鳳十二癸未」についても『白鳳』十年二月癸未の日」と理解していましたが、それは正しくないことが東京古田会の「平松健氏」の指摘(※1)により明らかとなったためここに訂正します。)
『書紀』でも『続日本紀』でも「文武」の「即位」は「六九七年」であり、「慶雲四年」(七〇七年)に死去しています。死去した年齢は『紹運録』では「三十五歳」となっていますが、『続日本紀』では「二十五歳」とされ、これを逆算すると「立太子」した年齢の「十五歳」時は「六九七年」となり、この年が「大化三年」とされているわけですから、「大化元年」は「六九五年」となり、この年次は先に述べた『二中歴』の「大化」の元年と一致します。
また「崩年」を「三十五歳」と額面通りに受け取れば、立太子した「大化三年」とは「六八七年」となりますが、この場合「大化元年」は「六八五年」となります。しかしそれは「持統」が「天武」から王権を継承した際に「朱鳥」という年号を継続したという記事(※)と食い違ってしまいます。これを信憑すると「大化」は「六八六年」以降であることとなり、『続日本紀』の「二十五歳」で死去したという方が正しいという可能性が高いと思われることとなります。
ただし『書紀』によると「東宮」「春宮」記事が「六九七年」の項にあり、この時点で誰かが立太子したことは確実とは思われるもののそれが「誰」なのかは不明確です。一般にはそれが「軽皇子」であるとするわけですが、それは『書紀』からは読み取るとことができません。
ただ、いずれにしても「大化三年」は『書紀』に言う「六四五年」を元年とするものではないことは(『紹運録』から)「明確」といえるでしょう。
また、上の『本朝皇統紹運録』には「白鳳」という年号も出てきます。この「白鳳年号」は「天智元年(称制元年)」(六六一年)を「元年」とする資料と、「天武元年」(六七二年)を「元年」とする資料と二系統確認されており、やや混乱があるようです。(※2)
この系統の相違は結局先の「文武の死去時の年齢差」につながるものであり、この十年程の差が影響していると見られます。文章中の「白鳳十二年」はその「癸未」という干支から考えて「六八三年」となりこれは「天武元年」を「白鳳元年」と考えた場合に相当します。また上の『紹運録』の「死去」年齢から考えてそれが「三十五歳」とすると「天智元年」の場合の方が近くなりますが(三十六歳となる)、『続日本紀』や他の資料等に書かれた「文武」の死去年齢として「二十五歳」とする例によれば「天武元年」を「白鳳元年」と考えると整合します。
ところで『日本帝皇年代記』によれば「文武」は「白鳳十三年」の「辛酉」の年に生まれたとされており、これは「六六一年」を示す干支ですが、これは何らかの錯誤が感じられ、これが「天智元年」とする「白鳳年号」として考え、その十三年と見ると「元年」は「癸酉」となり同じ「酉年」となりますからこちらが本来の記述と思われます。またこの「白鳳十三年」は「六七三年」を意味することとなり、「死去」の「慶雲四年」(七〇七年)は「三十五歳」となり、上の『帝皇系譜』(紹運録)に一致することとなります。(死去した年次についても『日本帝皇年代記』には「丁未慶雲四年六月十五日文武天皇崩三十五歳」という表記があり、完全に整合しています。)
しかし、『日本帝皇年代記』に拠った場合、今度は「立太子」したとされる「大化三年」という表記が「矛盾」となると思われます。「六七三年」生まれであるならば十五歳時は「六八七年」となり、これは「大化」ではなく「持統元年」になります。ただし「持統元年に立太子したという内容そのものはそれほど不審ではなく「持統」が「称制」した時点で「立太子」してその後の成長を待ったと考えれば、おかしくはありません。ただし、その場合「大化」年号の扱いが問題となるのは確かです。大化が「六八五年」であるとすると、「朱鳥」「朱雀」「白鳳」年号がその位置から移動する可能性が強くなります。
いずれにしても『日本帝皇年代記』と『本朝皇統紹運録(帝皇系譜)』はその記載内容が大筋で合致していることとなります。
このように『本朝皇胤紹運録』という史料については、その史料に複数の系統が確認でき、また書かれた年代に前後はあるものの、少なくとも勅令、つまり天皇の命により書かれたものであり、今なお相当量の写本が「宮内庁」により保有されている事実が重要でしょう。またその中に「九州年号」が書かれていると同時に、古代の天皇の即位や立太子などの重要な情報がその「九州年号」を基準として記載されていることが見逃せません。
このことはこの『允運録』が書かれた段階では「大化」などの年号が「正統なもの」として認識されていたことを証するものであり、決して「異端」な存在というわけではなかったことがうかがえます。
このように『書紀』など正史と言われるものにはない年号が重要な事案の年次を示すものとして使用されていることは甚だ重大な意味があると思われ、これを無視したり軽視したりはできないものと考えられるわけです。
(※1)平松健『皇統譜にみる九州年号の確証 「本朝皇胤紹運録」から』東京古田会NEWS158号二〇一四年九月
(※2)古田史学の会ホームページの九州年号史料による。
(この項の作成日 2006/06/11、最終更新 2015/07/26)