ホーム:五世紀の真実:「九州年号」の成立とその時期:九州年号の実使用例:

「白鳳」と「朱雀」


 「九州年号」群の中に「白鳳」、「朱雀」という年号があります。この二つの年号に関しては、『続日本紀』の中の「聖武天皇」の詔(七二四)の中に出てくることで有名です。

『続日本紀』「神亀元年(七二四)十月丁亥朔条」「治部省奏言。勘検京及諸國僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相當。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公驗。不知處分。伏聽天裁。詔報日。白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。尋問難明。亦所司記注。多有粗略。一定見名。仍給公驗。」

 ここでは「治部省」から奏上された「僧の身分確保の件で処置を請う」というものに対して聖武天皇は「詔」を出していますが、そこで「白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。」という言い方をしています。
 ここで問題になっているのは「出家」して「僧」になっている人たちに関してであり、この時点で「僧」の本人判別を行っているものです。彼等の申し立てに対して調査すると「出家」した理由が本当かどうか不明であったり、「鋼帳」に該当する人物はいるが、「官籍」つまり「王権」の側で持っている「リスト」にはいないという場合、あるいは「顔かたち」や「ホクロ」など本人を識別するものが記録されたものと変わってしまっている(つまり年月が経って顔形が変わったということか)というような事情があって、「公験」つまり「僧」としての活動を認める証明書を発行するべきかどうか判断できないというわけです。
 これによれば本人達の出家した理由などに関する部分の中に、「白鳳以来」とか「朱雀以前」という言い方が使用されていたものと見られるわけですが(この事は「書類」として「公験」らしきものが提出されたらしいことが示唆されます)、この「白鳳」や「朱雀」が「年代」や「年次」を表すものとして使用されているのは明らかであり、それは過去においていわゆる「年次」を記録するのに「白鳳」や「朱雀」がその基準として使用されていた実態があったことを如実に示すものです。
 僧の「公験」というのは公式文書であり、そのような中に「白鳳」「朱雀」が使用されていたと言う事になるわけですが、そういわれても「聖武」の朝廷の官僚達は「判定できない」というわけです。それはなぜかということが大きな問題であるわけですが、それは「聖武」の王朝つまり天皇家では改元したとか公布したとかの記録が一切なかったものであり、そのような年次を示すものは彼等にとって無効であったこととなります。しかし実際に使用されていなかったものを天皇が「詔」の中で「言及」するはずがないのは明白ですし、「聖武」の「詔」のニュアンスも「白鳳」「朱雀」という年号の存在を頭から否定しているものではないことに注目すべきでしょう。あくまでも、そのような年号があったのは承知しているが、その年号とリンクした記録がないと言っていると理解できます。

 そして、「聖武」はこの時代のことは「玄遠」つまり、「暗くて遠い」ということであり、良くわからないぐらい昔である、ということを言っているのです。
しかし、この「詔」を出したとされる「神亀元年」(七二四年)から見ると、「白鳳」(六六一から)「朱雀」(六八四年から)という年代はたかだか「六十−四十年」程度の過去のことです。そのことは、現実にまだ生存している「僧」達の口から(あるいは「文書」として)「白鳳、朱雀」という年号が彼等の時代として語られていると見られることでもわかります。彼等が若い頃出家した頃には「白鳳」「朱雀」という年号が施行されていた時代であったということですから、それほど大昔のことではないこととなります。(彼等自身は七十代程度かと思われます)
 「聖武」の祖父である「草壁皇子」の「生年」が「六六二年」とされますから、まさに「白鳳」の始めに当たります。自分の祖父である「草壁皇子」の時代のことがよくわからないとすれば、朝廷にあってははなはだ不都合なことであろうと推察され、(実際「不都合」が起きているわけですが)そのようなことがなぜ起きたのか、不思議な感じがします。

 この「僧尼」に対する「公験」という問題はその二年前の「養老四年」に同じく治部省から「奏上」がされていることと関連があるとされます。

「(養老)四年(七二〇年)春正月甲寅朔。…丁巳。始授僧尼公驗。」

「(養老)四年(七二〇年)…八月辛巳朔…癸未。詔。治部省奏。授公驗僧尼多有濫吹。唯成學業者一十五人。宜授公驗。自餘停之。…」

 ここでは「公験」を「始めて」授けたとされ、さらにそれら「僧尼」の中に「濫吹」、つまり学業ができてもいないのにそのような「ふり」を装っているものが多いとされ、「公験」に値するかを精査しているようです。さらにその作業の中でこの年(養老四年)正月に「聖武」の「王権」が「始めて」公験を授けるずっと以前から、すでに「公験」を授けられている者達が多数おり(僧尼は確かにそれ以前から多数いるわけです)、彼等がそもそもいつの時点で「公験」を受けていたのかが不明であったものと考えられるわけであり、「始めて」の意味がここでは不明となっているわけです。

 察するに、彼等はこの時点でようやく「僧尼」に対する国家管理を行おうとしているわけであり、それまでは「僧尼」が持っていた「公験」の有効性を認めていたと見られます。この時点以降自らの王権の元に「僧尼」に対する統治・管理に乗り出したらしく、その時点で「公験」の精査を始めたものと見られます。そのような中で「前王権」から有効性を認められていた人々から、継続して認めるよう要請があったものと見られ、それに対し「官僚」が適否の判断をできなくなり、ことは手続きの問題から「政治性」を帯びてしまったため直接天皇の裁可を仰ごうということとなったものではないでしょうか。
 「前王朝」との関係を考えると(現王権に対する反対者がまだ隠然たる勢力を持っていたものと推量され)、一概に却下することも出来なかったものであり「聖武」に下駄を預けたというわけでしょう。

 さらに興味があるのは「朱雀」以降についてはどうもデータがあるらしいということです。聖武の詔では「白鳳以來。朱雀以前。」と書かれていますが、「白鳳」の次が「朱雀」ですから「白鳳以来」というと本来その時系列は現在まで続くはずですが、それが「不明」なのですから、実際には次の「朱雀」で切れていることとなります(だから「朱雀以前」がわからないということでしょう)。このことから「聖武の王権では問題となっている「僧尼」や「入道」達の主張について「朱雀」以前のデータだけがないということを示すものと思われますから、その期間を除けば僧籍については把握していたと受け取れる表現と思われるわけです。そう考えると「聖武」の王朝は(『二中歴』によれば「朱雀」に続く年号である)「朱鳥」から始まる王朝に直接つながっていると見られることとなりますが、それは「朱鳥」が「新王朝」の始まりであるといっているのに等しいわけであり、(後でも触れますが)「朱鳥」が「訓読み」をするとされていることや「持統」が「日本国」と国号を変更した際の年号が「朱鳥」であったという資料の存在から考えても首肯できるものです。

 このようなデータベース(僧籍)については、「寺院側」では廃棄すべきものではなかったとみえ、「王権」や「体制」が変わってもそのまま継続して保有(保存)していたものと思われます。そう考えると、「朱雀」以前の「王権」と「聖武」の「王権」とではその内実が異なっていたという可能性が考えられるでしょう。そのため「朱鳥」から始まる新王朝の「官籍」とは整合しない内容となっていたということと理解できるのではないでしょうか。
 「聖武」は「粗略」なところがあった、という言い方をしていますが、実際には前王朝の官人や資料が(実質的には)継承されていなかったため、「資料」がそもそもなかったことから発生した問題であったものと思われるのです。(「始めて授ける」という表現はそのあたりを示しているようです)

 上に述べたように「聖武」につながる王権の最初は「朱鳥」という年号下の王権と思われるわけですが、そのことに関して『歴代建元考』(「清」の「鐘淵映」の撰)という書物に興味ある記述があります。その中の「外国編」の「日本」のところに以下のようにあります。

「…斉明天皇吾妻鏡作天豊財重日足姫即皇極天皇復位仍用白雉紀元在位七年改元一白鳳/天智天皇舒明太子母皇極天皇 在位十年仍用白鳳紀年/天武天皇 舒明第二子名大海人天欲禅位避吉野山 大友皇子謀簒将兵討之遂立 在位十五年仍用白鳳紀年後改元二朱雀/朱鳥/持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后 因主國事始 更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和…」

 記事の中で使用されている「仍」とは「継続して」という意味であり、「白鳳」は「斉明」の時代に改元され、「天智」「天武」と継続して使用され、その「天武」のときに「朱雀」「朱鳥」と改元されたというわけです。この情報からは「天武即位」を「元年」とする「白鳳」年号は誤謬であり、「天智元年」つまり「斉明」の「末年」を「元年」とする「白鳳」の方が正しいように受け取ることができます。しかし、そもそも他の年号であっても「即位改元」されているものがみられません。このことはこれら「天皇」の存在と「改元」とが「無関係」であることを窺わせるものであり、本来の「最高権力者」が別に存在していたことを裏付けるものです。その意味で「白鳳」が延々と(二十三年間)継続使用されているのは、「倭国」を代表する権力者つまり「倭国王」がその間継続して存在していたからであり、そのゆえに「改元」されなかったと見るべきです。それではその「倭国王」は誰かと言うことですが、「白鳳元年」が通常考えられる「六六一年」であるとすると、考えられる人物としては「筑紫君薩夜麻」が挙げられます。
 彼は「百済を救う役」に参戦し捕囚となったものであり、「天智末年」に「唐軍」と共に帰国しています。その後の動静は不明ですが、(私見では)元通り「筑紫君」として復帰したとみるのが相当であり、自らの身を売って主君である「薩夜麻」の帰国に尽力したとされる「大伴部博麻」が帰国する直前まで生存していたとみるべきでしょう。(というより存命中には帰国が許されなかったとみるべきではないでしょうか)そして、「持統」により「国号」が「日本」と変更されると共に「博麻」は帰国したものと見られますが、それはまさに「白鳳」の継続年数に整合しています。


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2017/02/10)