(以下は「古賀氏」の研究(※)に準拠します)
法隆寺には「善光寺如来の御書箱」というものがある(ようです)。というのも将来にわたって永久に封印するという法隆寺側の方針により、開帳されることはない、ということになっているので詳細は不明なのです。しかし、明治時代に政府の調査により中が開けられ、その時の写しが東京国立博物館にあるとされます。これは「善光寺如来」と「聖徳太子」の往復書簡と言われているものです。当然「善光寺」の側にも同様の伝承があり、天明五年(一七八五)に成立した『善光寺縁起集註』に「聖徳太子からの手紙」というものが記されていました。
その内容は以下の通りです。
御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
斑鳩厩戸勝鬘 上
この中の日付に使われている「命長」は九州年号中に存在するものです。しかし、九州年号の「命長七年」は「六四六年」にあたるとされ、干支は「丙午」です。この手紙では「丙子」とは書かれており、異なっているわけです。また、「命長年号」の存在期間は「聖徳太子」の生没年の(五七四〜六二一)とも全く整合していません。
つまり「命長」を「聖徳太子」の時代のものとするには「干支」を書き換えなければ無理と考えたものではないかと思われます。これを「丙子」とした場合「六一六年」のこととなりますから、「聖徳太子」四十歳ぐらいとなって、このような手紙を出すのに矛盾がないと考えられたものと推察されますから、この手紙の年次(干支)については後年の手が入っているのは確実と思われます。
ただし、元々「命長七年」に「斑鳩厩戸勝鬘」から手紙が来た、という「伝承」があったものと思われ、(でなければ「命長七年」という年次が書かれる理由がありません)この人物を後年の立場あるいは「イデオロギー」により、「聖徳太子」に「あつらえる」作業が行われたのではないかと考えられます。
では「本来」のこの手紙の差出人はどこの誰なのでしょう。それは「御使」と記された「黒木臣」という人物がその鍵を握っているようです。
「黒木」という姓は調べてみると九州に非常に多い姓であり、というより、九州以外には「全く」存在していないといえるぐらい他の地域には少ない姓なのです。現在でも宮崎県の姓別ランキングでは第一位となっています。また、福岡県には福岡郡黒木村という地名が存在ていますが、地名として存在しているという重要性から考えて、ここが「黒木」という氏族の本貫であった可能性が強く、黒木臣の出身地もここではなかったかと考えられるでしょう。(現在もこの地は「黒木の大藤」などで有名)
「御使」として遣わされた人物が「筑紫」ないし「日向」の人物であるとすると、彼を派遣した人物が「奈良」にいたと考えるのはかなり無理があると考えられます。「黒木臣」同様「筑紫」に所在していたと考えるのはそれほど困難な仮定ではないと考えられます。
「善光寺」と「善光寺如来」はその信仰の根本経典として『請観音経』が挙げられていますが、これが「天然痘」との関係で熱烈に信仰されていたと見られるのは前述しました。当然その「信仰」の最盛期は「天然痘」の流行時期に重なるはずであり、その意味では七世紀前半という時期は実際とは異なると考えられます。(それをうかがう徴証が見られない)
つまりこの願文の出された時期として可能性があるのは六十年遡上した「五八六年」付近であると言う事も考えられるでしょう。この時点は(『古事記』によれば)その二年前の「甲辰年」(五八四年)に「日子人太子」(押坂彦人大兄皇子)が亡くなったとされ、これは「天然痘」によるものという可能性があり、その「弟王」である「難波王」もまた同様に「天然痘」に苦しんでいたと言うこともあり得ます。
「命長」という年号も桓武天皇の「延暦」と同様、天皇の寿命の延長を願ったものであり、体調悪化など「難波王」本人においても、自分自身の先行きに不安を抱えている状況が前提としてあると思われます。
(※)古賀達也『「日出ずる処の天子」の時代 試論・九州王朝史の復原』(『新・古代学』古田武彦とともに 第五集 二〇〇一年 新泉社)など
(この項の作成日 2011/06/06、最終更新 2017/02/26)