「大江匡房」の談話録とされる『江談抄』の巻三に「一切経日本渡事」という項があり、以下のことが書かれています。
「日本人王三十代御門欽明天皇僧要元年乙未年自唐渡也」(『江談抄』巻三より)
ここでは「僧要」という年号が使用されていますがこれは「正史」とされる『書紀』などには見られない年号であり、いわゆる「九州年号」群の中に存在しています。
この『江談抄』とは「大江匡房」が語り、それを「藤原実兼」が筆録したとされているものです。またこの「大江匡房」は十一世紀から十二世紀にかけて活躍した人物であり、「大宰帥」「中納言」などを歴任した当時の重臣です。彼の言葉の中にそのような「正史」とされる史料には書かれていない「年号」が使用されているのです。
彼がどのような知識で書いたのか、どのような資料を参照したのかは不明ですが、ここにそのような「年号」が使用されていることは重大ですが、さらにこの記事には別の意味で不審があります。それは「人王三十代御門欽明天皇」という天皇名です。
他の史料では「僧要」は「舒明」の時代の年号であり、この「乙未」というのは「六三五年」と理解されています。しかしここでは「欽明天皇」とされています。これは同じ「明」という字句を持つ「舒明」との混乱と考えられそうですが、「人王三十代」とされてもいますから、そうは断言できません。「舒明」であれば「三十四代」のはずであり、「代数」も同時に書き間違えていることとなってしまいます。
もっとも「乙未」は「干支一巡」遡上した「五七五年」と理解することもできると思われ、そうであれば「敏達」の在位年代となります。(敏達を三十代とする数え方もあるようです。)
ただし今度は「一切経」の成立年次と齟齬するという可能性が出てきます。「一切経」は「仏教経典」の集大成であり、このようなものは何回か作られました。しかし「一切経」とは「北朝」において成立した仏典の集大成をいい、「南朝」において成立した「大蔵経」とはその素性が少なからず異なります。
ここでは「一切経」とされていますから、「北朝」で成立したものが伝来したことを示しますが、「倭国」はその国交が南朝に著しく偏っており、「北朝」との交流は「隋」成立後のことでした。そのため「隋」以前の「北周」「北斉」「東西魏」などの「正史」には「倭国」は全く登場しません。「倭国」は「隋」に至って始めて「北朝」と接したものと考えられる訳です。では「北朝」との接点はなかったのかと言うそうでもないわけです。それはこれが「百済」から伝来したという可能性が考えられるからです。
「百済」は当時「南朝」との交渉と平行して「北朝」とも通交しており、「北斉」や「北周」からは「帯方郡公百済王」という称号を授与されていました。その「百済」を通じて「一切経」が倭国内に流入したということは考えられます。それを示すのが以下の「空海」「日蓮」の記述です。
「仏法、百済国より始めて日本朝に届る。是れ梁の武帝の大宝三年、壬申に当たるなり。其の壬申より日本の第三十帝、天国排開広庭天皇の十三年壬申に至るまで、仏入滅の後、一千一百六十二歳を経て、仏法始めて日本に届る。」(空海「高野雑筆集」『弘法大師空海全集』七巻所収)
「…又、日本国には人王第三十代・欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に百済より一切経・釈迦仏の像をわたす。」(日蓮『報恩抄』・『日蓮大聖人御書全集』所収)
ここにも「日本の第三十帝、天国排開広庭天皇」「人王第三十代・欽明天皇」という表現がみられます。ただし伝来の始発が「唐」と「百済」というように食い違っていますが実祭にはすでに見たように始発も同じであったという可能性が考えられます。「空海」や「日蓮」がどのような記録を見てこれを書いたのか不明ですが「日蓮」関係資料では『書紀』のように「経論若干」ではなく「一切経」とある点などみても『書紀』ではない史料を見ているのは明らかと思われます。(仏教関係の史料と思われます)
「一切経」はその「集大成」という素性から考えても、ボリュームが非常に大きいものであり、とても「若干」とはいえないものです。
このような資料からは「僧要」年間つまり「七世紀」も半ばの時期などではなくそれに先立つ「六世紀」の「欽明朝」にも「一切経」など多数の経論が「百済」から渡っていたのではないかということが推定できると思われることとなります。そう考えると、一概に『江談抄』の記事が「舒明」の書き間違いとも断定できなくなります。
つまり、「一切経」は幾度か作られまたそれが幾度かにわたり我が国へ伝えられたものであり、上に想定する七世紀以前の他、「隋代」に作られたものが「遣隋使」などの手によりもたらされたという可能性もあります。
「一切経」として成立したもので主だったものを挙げると以下のものがあります。
@前秦・道安『綜理衆経目録』(『道安録』) 一巻、六三九部八八六七巻
A梁・僧祐『出山三蔵記集』(『僧祐録』) 一五巻、一五七二部三三六五巻
B隋・法経等『衆経目録』(『法経録』)七巻、二二五七部五三一〇巻
C隋・費長房『歴代三宝紀』(『長房録』)一五巻、一〇七六部三二九二巻
D隋・彦そう『隋衆経目録』(『彦そう録』『仁寿録』)五巻、二一〇九部五〇五九巻
これをみると「隋」以前の「北朝」において成立しているものとしては「前秦」の「道安」によるものがあるとされています。このようなものが「欽明朝期」に渡ってきていて不思議はないと思われます。(推定によれば『請観音経』もほぼ同時に渡ったものと思われます)
ところで『二中歴』の「僧要」の項には渡ってきた一切経の巻数として「三千余巻」という表記があることを考えると、これが「隋」の「費長房」の『歴代三宝紀』(『長房録』)(一〇七六部三二九二巻)を指すと考えるのが相当と思われますから、この場合は「遣隋使」との関係を考えるべきでしょう。
ここに出てきている「僧要」という年号については、「大江匡房」は原史料にあった「僧要」をそのまま書いているだけという考え方もできるでしょうが、その原表記を尊重しているという中にこの「僧要」という年号に対する「大江匡房」の態度が現れていると思われ、このような「正史」にない年号についても彼は「敬意」を持って対応していると見られます。
(この項の作成日 2014/12/07、最終更新 2017/02/19)