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「金光」年号と『請観音経』


 九州年号の中の「金光」年号は『平家物語』に出てきます。

「善光寺炎上の段」
「其比善光寺炎上の由其聞あり。彼如來と申は昔天竺舎衞國に、五種の惡病起て、人多く滅しに月蓋長者が致請に依て、龍宮城より閻浮檀金を得て、釋尊、目連、長者心を一にして、鑄現し給へる一 ちやく手半の彌陀の三尊、閻浮提第一の靈像なり。佛滅度の後、天竺に留らせ給ふ事、五百餘歳、佛法東漸の理にて、百濟國に移らせ給ひて、一千歳の後、百濟の帝齊明王、我朝の帝欽明天皇の御宇に及で、彼國より此國へ移らせ給ひて、攝津國難波の浦にして、星霜を送らせ給ひけり。常は金色の光を放たせましましければ、是に依て年號を、金光と號す。 同三年三月上旬に信濃國の住人、麻績の本太善光と云者都へ上りたりけるに、彼如來に逢奉りたりけるに、軈ていざなひ參せて、晝は善光、如來を負奉り、夜は善光、如來に負はれ奉て、信濃國へ下り、水内郡に安置し奉しよりこのかた、星霜既に五百八十餘歳、炎上の例は是始とぞ承る。「王法盡んとては、佛法先亡ず。」といへり。さればにや、さしも止事なかりつる靈山の多く滅失ぬるは、王法の末に成ぬる先表やらんとぞ申ける。」(岩波新古典文学大系本より)

 この「善光寺」炎上事件は『平家物語』の「巻二」に書かれており、この「巻二」は全て「治承元年」(安元三年、一一七七年)のできごとと考えられています。つまり、「善光寺」炎上というものも「一一七七年」の事かと考えられますが、そこから「五百八十餘歳」を逆算すると「五八八年」から「五九六年」のどこかで「長野」に「善光寺」が創建された(或いは「善光寺」の本尊として迎えられた)こととなります。
 ちなみに、この年次の範囲の中には「厳島神社」、「四天王寺」、「法興寺」などの創建年次も含まれています。
 たとえば「厳島神社」はその社伝で、創建について推古天皇の時(端正五年、五九二)に「宗像三女神」を祭ったと書かれています。また『平家物語』の別の部分では「厳島神社」の祭神である「市杵島姫」は「神功皇后」の妹であり「娑竭羅龍王」の第三の姫宮であるとされています。
 また「四天王寺」は創建当時は「天王寺」であったと思われますが、その創建は「五九三年」という伝承や「五八八年」という伝承が確認されています。
 「法興寺」(飛鳥寺)についてもその材を採るため「山に入った」とされるのが『書紀』によれば「五九二年」とされているなど、この時点でほぼ同時に各地で仏教に関する動きがあり、そのなかで「善光寺」などが創建されたと考えられるわけで、創建に関わる共通な要因が考えられるものです。

 『平家物語』の成立は十三世紀初期から中頃とされています。この中では「金光」が「善光寺如来」の来歴にかかわって紹介されていますが、その原点となったと考えられる「善光寺縁起」は十四世紀中頃(一三六八年頃)の成立とされており、時系列に矛盾があると考えられます。あきらかに『平家物語』の原資料には「善光寺縁起」(その原型となったもの)が使用されていると考えられ、少なくとも平安時代の終末期には「善光寺縁起」の原型とも言えるものがすでに存在していたと考えるべきであって、その中には「九州年号」が使用されていたものと推察されます。
 この『平家物語』の中でも「金光」年号の由来として「金色の光が放たれる」という意味のことが書かれていますが、この「金色の光」という現象に深く関係しているのが『請観音経』という経典です。
 この『請観音経』は『善光寺縁起』と関連があると考えられており、その中に「金光」という年号に関連していると思われることが書かれています。

「時世尊告長者言。去此不遠正12主西方。有佛世尊名無量壽。彼有菩薩名觀世音及大勢至。恒以大悲憐愍一切救濟苦厄。汝今應當五體投地向彼作禮。燒香散華繋念數息。令心不散經十念頃。爲衆生故當請彼佛及二菩薩。説是語時於佛光中。得見西方無量壽佛并二菩薩。如來神力佛及菩薩倶到此國。往毘舍離住城門?。佛二菩薩與諸大衆放大光明。照毘舍離皆作金色。」『請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經』(No.1043 難提譯)in Vol. 20

 この『請観音経』という経文には「ヴァイシャーリー治病説話」があります。「ヴァイシャーリー治病説話」とは「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」を襲った「悪病」に罹った「月蓋長者」の「娘」の病気が「阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩」に対する信仰で治癒するという「回復譚」ですが、そこでは「世尊」(釈迦)が「長者」に説いている間に仏光中に無量寿仏及び観音と勢至の二菩薩が西方に見え、「如来」の「神力」により「毘舍離国」に至って「城門」まで来ると、「諸大衆」に「光明」を放ち、その光により「毘舍離国」は全て「金色」に染まったとされています。
 また『善光寺縁起』の中にもほぼ同内容の文章があります。

「…、于時西方極楽世界阿弥陀如来知食月蓋之所念、応十念声、促六十万億那由他恒河沙由旬相好、示一尺五寸聖容、左御手結刀釼印、右御手作施無畏印、須臾之間現月蓋長者西楼門、『放十二大光照毘舎離城、皆変金色界道』、山河石壁更無所障碍、彼弥陀光明余仏光明所不能及、何況於天魔鬼神。故諸行疫神当此光明如毒箭入カ胸、身心熱悩而方々逃去。…」『善光寺縁起』

 ここでも「阿弥陀如来」は「一尺五寸」の「聖容」となり、「強い光」を放ち「毘舎離城」は全て「金色」となったとされています。
 これらは『請観音経』の伝来と「金光」という年号の間に深い関係があることを示すものですが、この『請観音経』という経典に表わされた『悪病』の治癒というものが、「疫病」特に「天然痘」についてのものであり、「百済」から「天然痘」に対する救済の一環として『請観音経』という経典が伝来したことを示すと思われ、それにちなんで「改元」されたと考えることができるのではないでしょうか。
 
 昨年(二〇一四年)筑紫の元岡古墳から出土した「銘入り鉄剣」には「寅」の年月日に作ったとされる意味の語句が書かれていて、これは通常「四寅剣」と呼ばれるものであったことが推定されており、これは「庚寅年」に作られた剣であることとなりますが、その日付からこの「庚寅年」とは「元嘉暦」に基づくものであること、それが「五七〇年」であることが確実視されています。この「年次」が『二中歴』の「金光元年」に一致すると思われているわけであり、そのことから「金光元年」は「五七〇年」であり、またこの「剣」が作られた目的は「天下熱病」(天然痘)に対する「破邪」というものであったと見られることとなります。


(この項の作成日 2010/12/24、最終更新 2015/02/10)