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「明要」年号と明要寺


 「九州年号」群の中に「明要」という年号があります。「古田史学の会」のホームページから閲覧できる「九州年号」に関わる資料には、は現神戸市内に所在する丹生山明要寺の勧進文書(創立の経緯を記したもの)があり、それによるとその創建は「明要元年」であり、その改元にちなんで創建されたあるいは創建の際に命名されたということが考えられます。(干支も「辛酉」であり、一致しています)

「丹生山明要寺文書」
「欽明天皇御宇百済国在云童男行者得邇尊者(中略)明要元年辛酉三月三日始開山岳造仏閣」

 明要寺は「百済」から来た人によって開かれたと言う伝説があり、当初「百済の年号」と思われていましたが、「百済」の年号は「未確認」であり、該当するものが見いだせませんでした。 
 『二中歴』によれば「明要」年間の主要な出来事は「文書」が始めてできたことであり「結縄刻木」を止めたこと、と書かれています。

「明要十一元辛酉 文書始出来結縄刻木止了」

 これらは「明要」という年号への改元の理由そのものと考えられ、「明要」という語の持つ意義と、「文書」ができ「結縄刻木」が止められることの間には深い関係があることが示唆されます。つまりこの「明要」は「辞書」の類を意味するものであり、その完成を記念した改元と推察されるものです。それまでは「結縄刻木」が行われていたというわけですが、それが止められるためには一般の人々が自由に漢字を使用して「日本語」を表記できるようになった、あるいは書かれたものを理解することができるようになるということが必要であり、この時点でそれが可能となったことを示すものと思われ、その裏には「辞書」の存在があったものと推定できないでしょうか。そのようなものがなければ「万葉仮名」が各自で共通にものとなるはずもないと思われ、その完成と頒布が行われたことが「明要」という語義として「年号」に表わされたものと推定できるわけです。(詳細は後述)

 ちなみに「丹生」信仰は「丹」(水銀)への信仰であり、その昔不老長寿の妙薬として珍重されて以来信仰の対象となったものですが、佐賀県の山中に水銀鉱床があり、この付近には早くから「丹生」信仰が始まり、これが全国へと発達したものと考えられています。つまり信仰圏と九州年号の政治領域とが重なることとなるわけです。(『魏志倭人伝』にも倭人の「丹」への依存の様子が書かれており、「まるで中国人が白粉を塗るように」体に塗る、という風に書かれていますが「丹生」信仰とのつながりが注目されます。)
 後に文武天皇の時代になって、各国から「顔料」を献上させた記事がありますが、「豊後」からは「真珠」つまり「丹」が献上されています。「真珠」は全国でもここからだけでした。

 また、「関東」の地である「埼玉県」からも「明要」年号が確認されています。(同じく「古田史学の会」のホームページから閲覧)

埼玉県秩父市「秩父神社」社伝
「欽明天皇御宇明要六年丙寅奉祝以而来(後略)」(一五九二年に再建された時の棟札表示)

 このように広範な地域での使用が確認されています。


(この項の作成日 2010/12/24、最終更新 2015/06/06)