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『懐風藻』の真の年次


 『懐風藻』についてはそこに書かれた「高市皇子」死去後の「日嗣ぎの審議」の内容から、その時代はもっと繰り上がる可能性があることを指摘しました。そのことを別の観点から述べてみます。

 『懐風藻』に書かれた漢詩については一般的に中国「南北朝」時代の「古典的」な部分の影響を強く受けているとされます。(「中国六朝時代の古詩の模倣が多く、いかにも黎明期の漢詩」という傾向が見て取れるとされます。)典型的なものが冒頭の「大友皇子」の作品であり、これは通常の漢詩と違い「仄韻」つまり「仄音」で「韻」を踏んでいます。

「五言侍宴一絶/皇明光日月/帝徳載天地/三才竝泰昌/萬國表臣義」

 通常漢詩文は「平音」で「押韻」するものであり、「仄韻」は「破格」とされます。さらに各種の評でも「漢代」の「古詩」の影響が指摘されています。
 また「大津皇子」の漢詩(以下のもの)においても同様の趣旨の評がされています。

「言春苑言宴 一首/開衿臨靈沼/游目歩金苑/澄清苔水深/?曖霞峯遠/驚波共絃響/哢鳥與風聞/羣公倒載歸/彭澤宴誰論」

 さらに「葛野王」の漢詩文においても同様に古詩を模倣したという言い方がされています。またこれらの詩文に共通なことは押韻が「呉音」によって行われていることです。
 「大津皇子」の作品では「苑、遠、聞、論」であり、「智蔵」の「秋日言志」詩では「情・聾・驚」と「芳」、さらに「葛野王」の「春日翫鷺梅」詩では「馨・情」と「陽・腸」です。これらはその詩体と共に音韻体系においても「唐」の影響ではなくその前代の「隋」あるいはそれ以前の中国の影響を受けていることを如実に示すものであり、この漢詩が「天智」以降の時期である「六七〇年代以降」に造られたとすると大きく齟齬するものと思われます。なぜならその時点までに「遣唐使」は何次にもわたって送られており、「唐」の文化つまり「漢音」や「唐詩」のルールなどを学ばなかったとするとかなり不審なことであると思われるからです。
 
 また「大津皇子」の辞世といわれる詩においては良く似た詩が「南朝」「陳」の最後の皇帝「陳後主」の「臨行詩」(長安に連行される際に詠ったとされる)にあり(ただしこれは別人の偽託によると思われるものの)、これが元々「隋朝」から「唐朝」にかけて仕えた「裴矩(裴世矩)」(五四六~六二七)が記した『開業平陳記』にあったものが伝来したと見られることがあり、それをもたらしたのが「智蔵」であるという考察があります。(※1)
(以下「大津皇子」と「陳後主」の詩)

「大津皇子」
「金烏臨西舎/鼓馨催短命/泉路無賓主/此夕誰家向。」(『懐風藻』より)

「陳後主」
「鼓馨推(推)命役(短?)/日光向西斜/黄泉無客主/今夜向誰家。」(釈智光撰『浮名玄論略述』より)

 ここでも「大津皇子」の詩は押韻が「呉音」で行われているようであり(「名」、「向」)これもまた「異例」のものです。(しかもこれもまた「仄韻」です)それに対し「陳後主」の方は「斜」と「家」であり、これは「漢音」(しかも「平音」)で「押韻」されています。(この点からも北朝系の誰かの偽託とされるわけです)
 またこの二つの詩の類似はどちらかが他方へ影響したものと見られるわけですが、年次からいうと「陳後主」から「大津皇子」へとなります。実際にそれがその通りであるらしいことは「押韻」からも言えますが、さらに「智蔵」に関する『懐風藻』の記事からも推察されます。それによると「智蔵」は「呉越の間」に留学していたとされ、そのことから「南朝」の皇帝である「陳後主」に関するエピソードについて特に収集可能であった環境があることなどから、彼がもたらしたと見ることができるとされます。

 『旧唐書』の「裴矩伝」によれば彼は「『開業平陳記』十二巻を撰し、代に行わる」とされており(「開業」とは、「隋文帝」の年号である「開皇」と「煬帝」の年号の「大業」を合わせたもの)、この書物が一般に流布していたらしいことが推定できます。
 この『開業平陳記』については『隋書経籍志』の史部・旧事類に書名が書かれており、また『旧唐書』では「経籍志・藝文志」の「雑史類」に分類されています。「雑史」に分類されたということはその内容として「平陳時」(「陳」滅亡時)の各種雑多なエピソードが書かれていると思われますが、これを「智蔵」が「倭国」に持ち帰り、その中にあった「陳後主」の作とされる「詩」を改変して「大津皇子」のものとしてその心境を忖度したものではなかったかと推測されるわけです。

 これらのことからいえることは、この『懐風藻』に収められた詩文のうち特に初期のものはその成立時期がかなり早かったという可能性があることです。
 そもそも「智蔵」については、すでに考察したように彼が七世紀半ば以降に留学して帰国したとは考えられないことがあり、さらに彼は「呉」地方の「尼僧」に師事して勉学に励んだとされますが、「呉」つまり旧南朝地域が仏教の中心であったのはせいぜい「隋代」までであり、それ以降はやはり「唐」つまり中国北半部にその中心が移ったとされています。そのことと上に見る「詩体」や「押韻」などの実情は重なるものであり、実際には「隋末」から「初唐」にかけての時期が最も考えられるものではないでしょうか。
 それはまた『懐風藻』の中に「元日」のものとして造られた「詩」が複数有り、その解析からも言えることです。

 たとえば「藤原不比等」(史)の「元日」の詩として以下のものが書かれています。

「正朝観万国 元日臨兆民/斉政敷玄造 撫機御紫宸/年華已非故 淑気亦維新/鮮雲秀五彩 麗景耀三春/済済周行士 穆穆我朝人/感徳遊天沢 飲和惟聖塵」

 この冒頭の「正朝」という語について解釈が複数あるようであり、「元日」という意義や「天皇」が親しく皆の前にいるという意義であるなどの理解がされているようですが、ここでは字義通り「正当」な「王朝」という解釈が最もふさわしいのではないでしょうか。それは「年華已非故 淑気亦維新」とあるところからも分かります。
「年華已非故」とは改元して新しい年となったことを示すと思われますし、さらに「維新」となると単に年が改まったというだけではなく「新王朝」が始まるという意義が認められます。
 そもそも「維新」の語は『隋書俀国伝』に出てくる「倭国王」の言葉の中に「大国維新之化」というものがあり、この言葉は通常「煬帝」に向けたものと思われていますが、実際には「文帝」に向けられたものであり、彼が「受命」を受けて「隋」という新王朝を開いたということを捉えて「維新」という語が使用されていると思われますが、それと同義であると思われます。つまり「藤原不比等」の詩の中の「元日」は「新日本国王」の「即位」して以降最初の「元日」であり、その時点で「改元」され、新王朝が名実共に始まった時点のものと思われるわけです。
 
 またこの「不比等」の「詩」の中に使用されている「万国」という表記はそのまま『孝徳紀』の「万国」に通じるものです。

「八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修『萬國』。…」(東国国司詔より)

 この「詔」は「東国国司」に出していることでも分かるように、それまで版図には入っていなかった「東国」を領域としたことを示す語でもあります。その意味では「蝦夷」の領域に勢力を伸ばした時期が最もふさわしいといえるでしょう。そう考えると、実体としてはもっと遡上する時期を想定するべきでしょう。
 既に述べたように「蝦夷」が初めて「倭国」の使者に同行して「唐」に赴いたのは「太宗」の時ではなかったかと考えられ、「朔旦冬至」を祝うために訪れた「六四〇年」が最も蓋然性が高いものと推量します。
 また「周行士」については客人として多くの人がいるという意味と捉えることができると思われます。これは新たに倭国の版図に入った「東国」の人々を指すものではないでしょうか。(同様の意見は既にあります。(※2))
 またこれは当然「我朝人」と対比的に使用されていると思われ、「我朝」というのが「本朝」につながる性質の言葉であり、その本拠が「筑紫」にあったというのは「大伴部博麻」に対する詔からも推察できます。
 結局「正朝」とあり「万国」とあるのは一種の「宣言」であり、この時点で「新王朝」が作られたことを示すものと思われるわけです。「隨天神之所奉寄」という表現も自ら「天降った存在」と規定したところからのものではなかったでしょうか。
 
 さらに同じく『懐風藻』中に「春日応詔」と銘打たれた詩群がありますが、そこでは「重光」という語が使用されています。これは「日」「月」が重なって光る意義であり、「天皇」と「上皇」など至上の人物が二人いるときに使用される用語です。
 これは通常『続日本紀』とも照合して、「文武」と「太上皇」である「持統」の二人と理解されています。(※2)
 しかし、これら「春日応詔」と題された詩群に共通しているのは「琴」が奏されたらしいことであり、そこで演奏されていたのは「流水」という「古典」の「琴歌」であったようにみられます。

「春日侍宴  主税頭從五位下黄文連備
玉殿風光暮 金塀春色深 雕雲遏歌響 『流水散鳴琴』/燭花粉壁外 星燦翠烟心 欣逢則聖日 束帯仰韶音」

 これは当然「七弦琴」による演奏であるはずですが、しかし『続日本紀』に記された「大寶二年」の詩宴では「西閣」で「饗宴」が行われたようにみられ、さらにそこでは「五常・太平楽」が演奏されたと書かれており、これは『懐風藻』とは食い違っています。

「(七〇二年)二年春正月己巳朔。…癸未。宴群臣於西閣。奏五帝太平樂。極歡而罷。賜物有差。」

 通常これらの「楽」では「琴」つまり「七弦琴」は使用されません。このことは『続日本紀』の記事がそのまま『懐風藻』の内容と整合するとは言えないこととなります。そしてそれは「大神朝臣高市麻呂」の詩で裏付けられます。

 彼は「持統」が「農事」の時期に「行幸」しようとしたとき「脱冠」して阻止しようとしたため、その後官を辞し蟄居していたらしいことが窺われていますが、この詩では「不期逐恩詔」とあり、これを捉えて「脱冠」して諫言した後不遇の時代を送っていた彼が「長門の守」に再度任官された後の事とする理解があるようですが(※2)、それでは「不期」とは言えないでしょう。この表現はまだ「任官」を許されていない状態で国家的に慶賀すべきことがあったためにいわば「恩赦」が行われたことを示唆するものであり、それによって復権した時点の詩であるとみるべきでしょう。すでに復権して任官されている状態なら特に「不期」という表現を使う必要がないと思われるからです。
 更にこの「高市麻呂」の詩では「従駕」と表現され、「行幸」が行われたことを示唆します。それは「春日応詔」詩群の全てで「池」「松」「山」「小川」など「園池」の存在が推定出来る情景が描かれていることからも明らかです。これらが「宮殿」の内部に設けられたものではないことは明らかであり、宮殿とは別の場所にそのような(多分半分は人工的な)「園池」が存在していたらしいことが窺えます。

「五言。春日。応詔。一首。紀朝臣麻呂。
恵気四望浮。重光一園春。/式宴依仁智。優遊催詩人。/崑山珠玉盛。瑤水花藻陳。/階梅闘素蝶。塘柳掃芳塵。/天徳十堯舜。皇恩霑万民」

「五言。春日。応詔。二首。(大宰大弐従四位上巨勢朝臣多益須)。二首
姑射遁太賓。([山]+[空])巌索神仙。/豈若聴覧隙。仁智寓山川。/神衿弄春色。清蹕歴林泉。/登望繍翼径。降臨錦鱗淵。/糸竹時盤桓。文酒乍留連。/薫風入琴台。?日照歌筵。/岫室開明鏡。松殿浮翠烟。/幸陪瀛洲趣。誰論上林篇。」

 それに対し『続日本紀』の記事では「西閣」とされこの時の宮殿がいずこか明確ではありませんが、いずれにしろ宮殿の内部であることが強く推察でき、「高市麻呂」などの詩の背景として考えられる「園池」とは違う場所であることが考えられ、その意味でも別の時期、場所の「詩群」であることが推察されるものです。(上の詩でも「梅」が詠われていますが、当時「梅」がまだ「王権」に直結する場所にしか植えられていなかったと思われ、その意味でも「筑紫」界隈にその「園池」の場所が求められるべきでしょう。)

 これらのことから「春日応詔」の詩群がその全体として「六四二年付近」というよりそれ以前の時期であることを示します。それは「元日」詩群では「重光」つまり「天子」が二人いると思われる表現が使用されていないことでも推測できます。つまり「春日応詔」詩群と「元日」詩群は別の時期のものであり、「春日応詔」詩群がやや先行しているらしいことが理解できるでしょう。

 『懐風藻』の序文を見ると最終は「淡海先帝」という人物で終わっており、これについては「天智」であるとされています。それ以降の天皇については何も記載されていません。そしてその後に漢詩群が置かれていますが、それは「大友皇子」から始まっており、これら「詩群」はその配列からも「天智」の代に読まれたことが考えられます。その「大友皇子」の詩(冒頭の詩)も「藤原不比等」の詩と同内容と言え、読まれたタイミングも同じ「元日」であったという可能性が強く、またそこに「智蔵」の漢詩が収められていることを考えるとこの「元日」の詩宴が行われた年次は「智蔵」の帰国以降の至近の時期である「初唐」の時代が最も推定され得るものであり、それらを考え合わせると「六四一年」の元日が最も考えられるのではないでしょうか。(このことは「藤原不比等」という存在が「父」とされる「藤原鎌足」と重なる人物であることが推定されることとなり、「鎌足」という存在は「架空」であったとみられることとなります。)

 ところで「漢詩」はもっぱら男性によって詠われたと思われますが漢詩を作ることが慣習として普及した後も、女性は「歌(和歌)」によって情景や感興を詠うのが常であったと思われます。たとえば『万葉集』をみると「春秋優劣歌」というものがあり(巻一の十六番歌)、「詔」により「額田王」が「歌(和歌)」を奉っていますが、その「詔」をみると本来答えとしての「頌」は「漢詩」であったらしいことが窺えます。

01/0016 近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇謚曰天智天皇] / 天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌
冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者
(冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山吾は)

 ここでは「競憐 春山萬花之艶 秋山千葉之彩」というよう「詔」の中で「駢儷体」が使われており、これは「漢詩」によって答えよと言う意向がそこにあったことが窺えるものです。それに対し「額田王」は「歌(和歌)」でもって「判じた」というわけであり、当時女性にとって漢詩が必須の教養であったというわけではないことが窺えます。
 逆に言うと上の「春日応詔」時点でも女性陣は「和歌」でもって応えたであろう事が推察されるものですが、『万葉集』をみてもそれに該当する歌は残念ながら見えません。また「春秋優劣歌」段階での各官人達が作ったはずの「漢詩群」は『懐風藻』には載っておらず、またそれ以降の史料のどこにもみることができません。以上からは『懐風藻』も『万葉集』も非常に「断片的史料」であるということであり、この時代の「詩歌」の様相はかなり未知数の部分があるといえそうです。
 さらにこの『懐風藻』では「天智」以降については「文武」の作品だけが載せられており、その間の「天武」「持統」「斉明」とそれ以前の「舒明」の詩(漢詩)が載せられていません。「持統」「斉明」(皇極)は「女帝」でしたから「漢詩」は作らなかったともいえるわけですが、「天武」不在の理由が不明といえるでしょう。これについては明確とはなっておらず、『懐風藻』の本質論としてまだ確立していない点です。


(※1)金文京「大津皇子「臨終一絶」と陳後主「臨行詩」」(『東方学報』京都第七三册二〇〇一年)
(※2)山野清二郎「大宝二年春の詩宴」(『鎌倉女子大学紀要』二〇一〇年三月)


(この項の作成日 2015/02/27、最終更新 2017/01/23)