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『懐風藻』の「日嗣」の審議


 「淡海三船」の著と言われる『懐風藻』の「葛野王」の伝記の欄に、「高市皇子」の死去後、後継者(日嗣)についての審議があったとされる記事があります。そこには以下のように書かれています。

「高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて日嗣を立てん事を謀る」

 古代では「日嗣(ひつぎ)」は「皇位」と同じ意味です。「日嗣皇子(御子)」とはまったく事なるものであり、「日嗣ぎ」は皇位そのものです。そして、この記事が「草壁皇子」の死去に伴うものならまだしも、「高市皇子」の死去後に「日嗣」についての「審議」があった、ということ自体が「不審」な事と思われます。それは「高市皇子」が「皇太子」でも「天皇」でもなかったとされているからです。そのような人物が(たとえ太政大臣であったとしても)死去したとしても、それを理由として「日嗣」について審議する必要があるとは思えません。このことは「高市皇子」自身が「日嗣」の座にあったこと(「天皇」であったこと)を示唆するものと思われます。

 また、文中に「皇太后」とありますが、これは通常の理解では「持統女帝」とされていますが、この「皇太后」という表現から考えて、その時点の「天皇」は「皇太后」と称される人物でないことは自明であり、この「皇太后」が「持統」を指す、とすると「持統」はこの時点での「天皇」ではない、という論理進行となります。
 「皇太后」とは『続日本紀』のその他の記事においても前天皇が死去し「新天皇が即位した時点」における前皇后への尊称とされますから、この「皇太后」呼称は、「持統」以外の人物が「皇位」にあったということを想定せざるをえないこととなり、そのことと「高市皇子」の死去によって「日嗣ぎ」の審議を行うこととなった、という事を重ねて考えると、「高市皇子」が「皇位」にあったという先の推定は更に補強されると思われます。
 
 この時「葛野王」(「大友皇子」の長子)は「直系」相続を主張したとされています。この主張は通常「持統」、「草壁」、「文武」という「直系」が正統であると言う発言と解されていますが(※)、文中にはそのようなことは(全く)書かれていません。それは「恣意的」な理解であり、『書紀』からの後付けの論理です。
 このとき誰を「日嗣ぎ」にするかこの審議により決まったものと思われますが、その人物の名前は書かれていません。これは「意図的」なものと考えられ、「あえて」曖昧にしているとしか考えられません。『懐風藻』の作者(淡海三船と推測されています)にとって、このことを正確に書くわけにはいかない事情があったものと思われます。
 そもそも、「草壁」は『書紀』によっても「皇太子」のまま死去したこととなっており、即位していないわけですから、『書紀』に即して考えても皇位継承に関する原則には該当するはずがないのです。
 本来「直系」云々は「即位」の際の継承順についての話であり、「即位」していなければこの原則から外れることとなるのは当然です。(「即位」していない人物からは「皇位継承」ができるはずもないのです)

 これが「高市皇子」死去後の審議であることから考えてこの文章を「素直に」理解すると、「葛野王」の意見というものは、「亡くなった」「高市皇子」の「兄弟」ではなく、彼の「子供」(嫡子)へ「日嗣」が継承されるべきである、という主張とみるべきでしょう。
 そして、この主張に異を唱えようとした「弓削皇子」を叱責して黙らせた、と言うように書かれていますが、「弓削皇子」にしてみれば、「兄弟」である「高市皇子」からの「皇位継承」を狙っていたのかもしれませんが、その道が断たれてしまうこととなりますから、重大問題であり、異議を唱えようとしたものでしょう。(「兄弟相承」という伝統ある形に戻そうというもくろみであったかも知れません)
 この「葛野王」の意見は多分に「隋・唐」という「中国王朝」における「王朝」継承において「直系相続」であるのが基本となっていることを念頭に置いたものと理解できるでしょう。
 そもそも、ここで「皇太后」が「王公卿士」に対して「誰」を「日嗣」とすべきか「意見」を聞く機会を持ったと言うことは「高市皇子」の子供が「未成年」であること、それに対し「高市皇子」の兄弟に「成年男子」がいたことがあったと思われます。それはここで「意見」を述べようとしていた「弓削皇子」などの存在として描写されています。そのような状況であったからこそ、彼ら「高市皇子」の兄弟の誰かに「日嗣」を委ねるべきか、それとも別の方法を採るべきか、それを「皇太后」が決しかねた結果、審議が行なわれることとなったものと考えられます。

 ところで既に述べましたが、この『懐風藻』ではその序文と「智蔵法師」についての略歴を書いた部分の解析から「淡海帝」というものが「阿毎多利思北孤」を指すのではないかと推定されることとなりました。つまり「七世紀半ば」という時代から実際には約「干支一巡」遡上するという可能性が考えられる事となった訳です。
 このことはこの「淡海先帝」や「大后天皇」だけのことではないと思われます。つまり可能性としては『懐風藻』全体に言えることなのではないかと思われ、そうであれば、この「高市皇子」死去に伴う「日嗣の審議」という記事自体も「干支一巡」程度遡上するという可能性を考えてみる必要があると思われます。
 つまり「高市皇子」は「七世紀前半」の人物であり、当時「倭国王」であったと推定されることとなったわけですが、その名を「天皇名」として持っていたという可能性が(当然)あり、「高市天皇」という呼称が当時されていたという可能性が考えられますが、それは『書紀』に「或本伝」として「舒明天皇」の別名が「高市天皇」であることが「ひっそりと」書かれていることにつながっています。

「皇極二年(六四三年)九月丁丑朔壬午条」「葬息長足日廣額天皇于押坂陵。『或本云。呼廣額天皇爲高市天皇也。』」

 この「舒明天皇」は『書紀』によれば「六四一年」の末に死去したとされ、これは「九州年号」では「命長二年」のこととなります。

「舒明十三年(六四一年)冬十月己丑朔丁酉条」「天皇崩干百濟宮。」

 この「舒明」死去後「皇后」とされる「皇極」が即位しています。この時「二人」には「中大兄」という子供がいましたが弱冠であり、そのため「皇極」が即位した(称制か)ものです。このようにその状況が良く似ており、実際の年次として不自然ではないと思われます。『懐風藻』の審議がいつ行われたものか年次としては不明なわけですが、この「葛野王」の詩の後に並べられた多くの漢詩(「応詔」とされる詩群)が「大宝元年」に行われた「宮中」の祝宴の際に歌われたものと推定されており(※)、この「審議」もその直前のことではなかったかと考えられることとなるでしょう。つまり「皇太子」が正式に決定され、その間「皇太后」が「称制」することとなったことで「王権」の方向性が決まり、それを祝して「宴」が挙行されたものと推定されることとなります。
 しかしこの「大宝元年」という年次そのものが後述するように「年次移動」が想定されており、干支一巡の遡上が推定されていますから、「六四一年」のこととなって『書紀』の「舒明」の死去年次に重なります。そして彼には当時当時十六歳になる「中大兄」がいたとされますが、いわゆる「幼少」であり、そのため皇位継承に支障が出たものと考えられます。そのため「審議」が行われたと考えると『懐風藻』記事と重なるといえるのではないでしょうか。
 その後「王后天皇」として「皇太后」が称制していたものであり、「六四七年」の常色改元が「禅譲」の年でなかったかと考えられるものです。


(※)『資治通鑑』によれば「唐」の太宗の時代(貞観年間)「諸王」(太子の兄弟)に対する「礼」が行き過ぎであるという「礼部尚書」の指摘に「太宗」が怒り詰問するシーンがあり、そこで「太宗」が「太子」に何かあれば「諸王」が太子になる可能性があるというと、「礼部尚書」が次のように反論します。「…自周以來,皆子孫相繼,不立兄弟,所以絶庶?之窺?,塞禍亂之源本,此爲國者所深戒也。…」(『資治通鑑』貞観十二年(戊戌、六三八年)条)
 つまり「周以来、子孫が相継いでいたものであり、兄弟が立つことはなかった」というわけです。具体的には「嫡子」つまり「皇后」の子だけに相続の権利があるものであり、「庶子」つまり「第二夫人以下」の子にはそのような権利は元々なかったというわけです。そのような人物に対する「礼」としては行き過ぎであるというわけです。
 これは「葛野王」が主張しているものと同じ意味、内容と思われますが、『書紀』をみるとそれ以前に「兄弟」(同母兄弟)以外でも相続している例があり、「葛野王」の発言は実態とは合っていないと思われるわけですが、これが「太上皇」に対してそのまま受け入れられてしまっています。


(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2017/01/30)