『書紀』の記述の年次については疑いがあることとなったわけですが、それを別として『書紀』の記述に従ったとしても、「草壁」亡き後「最年長者」は「高市皇子」であり、また「太子」時代の子供ですから本来は「嫡子」と称すべき人物であるのは間違いなく、「正統」な皇位継承権を有していたのは「高市皇子」以外には存在していなかったと思われます。まして、「壬申の乱」の活躍が本当に「高市皇子」であるならば「比類」のないものであり、彼以外に「皇位」を継承可能な人物がいたとは思えません。その意味では「持統女帝」が「称制」したとか、その後正式に「即位」したということは「あり得ない」と言っても良い事態なのです。
『懐風藻』では、「高市皇子」が亡くなった後「日嗣ぎ」を誰にすべきか議論となったとされており、この「審議」の結論として「高市皇子」(高市天皇)の子供が「皇位」につくべく「太子」と認められ、これ以降手続きが進んだことを示していると思われることとなりました。それには先ず「皇太后」(前皇后)が「王后天皇(太后天皇)」として「称制」を行なう事が必要であったものであり、「太子」の成人を待って「禅譲」という手はずとなったと考えられます。
また、これらの考えを補強するのが、「高市皇子」の母が「胸形君徳善」の娘である「尼子郎女」であることです。つまり『書紀』の『天武紀』の年次が相当遡上することを考えると、この「高市天皇」というのが実は「難波王」に相当すると考えられる訳であり、この時点の「皇太后」つまり「前皇后」というのは「市杵島姫」に相当する人物と考えられ、彼女は「娑竭羅龍王」の娘とされていますから、「宗像君徳善」の娘である「尼子郎女」とよく重なると言えるものです。
(「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」が「阿毎」つまり「尼」を姓としているのも母方の関係と考えると首肯できるものです。)」
また、この審議を見る限り「高市皇子」が「クーデター」などの「政変」で亡くなったかどうかははっきりしませんが、「急死」だった事は間違いないと考えられ、その時点では「太子」を決めていなかったことが推定され、「後継者」を至急決める必要が出てきたという事であったものと思われます。
そして「審議」の結論としては上記推論として「長屋王」が「皇位継承権」を得る事となったと考えられるわけです。
ところで従来「長屋王」については「年齢」に関して複数の説がありました。それは『懐風藻』の示す「五十四歳説」とそれ以外の全ての資料が示す「四十六歳説」です。
『書紀』に従えば「高市皇子」の死去した年次は「六九六年」とされ、そこから考えると、「長屋王」は「二十一歳」になり立派な成人となります。しかしこれであれば、「皇位」につくことには何の問題もないでしょう。「日嗣の審議」自体の意味が無くなってしまいます。
『懐風藻』以外の全ての記録の「四十六歳説」を採ると(同様に「六九六年」の段階とみると)「十三歳」となり、この段階での「即位」は困難と考えられるため、すぐに即位できなかったと考えた方が上記事実と整合するようです。
つまり、前記「審議」により「皇位継承権」の確認を行った後、「初叙」の年齢である「二十一歳」ないしは「二十歳」を待つこととなり、その間は「皇太后」が再度「天皇位」に復位していたと推察されるものです。
『持統紀』の「六九七年」の条には「立太子」と関連すると考えられる「東宮」と「春宮」の長官と次官の選定の記事があります。従来この「立太子」は「文武」に関するものとされていますが、『書紀』の記述上は「持統」は「誰に」禅譲したのかはっきりしません。
『書紀』は「普通」に考える限り、「文武」の前代まで書かれているわけであり、それを「文武」が引き継いだところで終わりとなっているわけですが、それにも関わらず「文武」の存在が限りなく「希薄」です。
『続日本紀』や『書紀』の記述によると「藤原宮」は「持統」と「元明」の宮殿であったように書かれています。しかし、どこを探しても「文武」のキであったとは書かれていません。と言うより「文武」がどこで「統治」していたのかの記録が全く見あたらないのです。
この当時「天皇位」にあったとされる「文武」は『書紀』では「立太子」の記録がありません。そもそも名前すら出てきません。
しかし、上の『懐風藻』記事から考えると「日嗣の皇子」(皇太子)は「長屋王(親王)」と考えられ、「藤原宮」は彼のために造られた宮殿と考えるべきこととなります。
そして「持統」から「文武」への禅譲は実際には「高市皇子」の皇太后から「長屋王」への禅譲というのが実際ではなかったかと考えられることとなるでしょう。
ところで「文武」の「諡」は「天之眞宗豊祖父天皇。」と言うものであり、「二十五歳」(ないしは「三十五歳」)という若さで「夭折」した天皇のものとしては、はなはだそぐわないものとなっています。
通常「諡」はその人を「端的」に表す用語が使用されるのが通常であり、『続日本紀』に表される「文武」に関する記事などから受ける印象の人物とこの「諡」の間にはどのような関係も見いだすことができません。これに関しては、以下のように考えられます。
上で見た流れによると「皇太后」が「称制」していたと考えられますが、その「皇太后」は「長屋王」の成人を待たずに「死去」してしまったものではないでしょうか。この段階では「長屋親王」はまだ「十九歳」と推察され、「未成年」であることは変わりありません。(これは『書紀』で「持統」の死として描写されていると思われます。)
つまり、この時点で「更に」誰かが「称制」する必要があったものと考えられます。その人物の「諡」が「天之眞宗豊祖父天皇」というものであったものと思料されますが、この「諡号」の中に「祖父」という用語があるのが「鍵」であると思われます。つまり、この人物は「誰か」から見て「祖父」に当たる人物であったものと思われ、該当するのは「前倭国王」である「高市皇子」からみた彼の「祖父」である「宗像」(胸形)の君「徳善」であったのではないでしょうか。
『続日本紀』中には「むなかた」の表記として「宗形」が使用されており、それは「(文武)二年(六九八年)二月壬辰朔己巳。詔。筑前國宗形。出雲國意宇二郡司。並聽連任三等已上親。」という記事などにも明らかですが、彼であれば「宗」という言葉が使用されている意味も首肯できるものです。「蓋然性」の高い人物はこの人物以外にはいないと考えられます。
彼は「皇太后」死去後まさにピンチヒッターとして「皇位」に一時的にいたものと考えられ、「長屋親王」が成人後「譲位」する予定であったものと考えられます。
そして、その後「長屋親王」は「藤原宮地」に(仮ではなく)正式な「大極殿」が完成して「遷居」したものですが、それが「乙巳」の年であり、この時点で「皇位継承」が行われ、「倭国王」となったものと推量されますが、その直後「倭国王」である「長屋親王」に対して「政変」があったものと思われ、その結果「禅譲」を強制され、彼は「皇位」から降り、別の人物が「皇位」につくようなこととなったものと考えられます。
このような場合「中国」の例でも「前皇帝」や「前王朝」の「皇帝」は「諸王」として封じられるなど重んじられ、その後も一定の勢力を保持するのが通常であったようです。
そして、これらのことが『書紀』に「乙巳の変」として「『蘇我』打倒のクーデター」の話に書き換えられたものであり、「乙巳」は書紀の記述通り「六四五年」であった可能性が非常に高いと推定されることとなります。
(ちなみに「長屋王」を推挙した形となった「葛野王」もほぼ同時期に死去しており、これも政変に巻き込まれた可能性が考えられるところです。)
いわゆる「乙巳の変」は「蘇我」を打倒する「中大兄」という構図ですが、実際にあったのは「長屋王」を打倒・追放する「東国の豪族」であったと考えられます。
「高市皇子」や「皇太后」が存命中には容易ではなかったことが、「長屋王」が「皇位」につくに及んで「皇位」の簒奪と言うことが可能となったものと思われ、「権威」の塊のような人物が眼前から消えたことが「クーデター」を起こす動機となったものでしょう。
(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2017/11/26)