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「お水取り」と「長屋王」


 東大寺で「春の風物詩」として行われている「お水取り」という行事があります。これは、本来は「修二会」という名称であり、東大寺の他にも、「奈良」の他の寺院でも行われているものですが、(たとえば「薬師寺」、「法隆寺」、「長谷寺」など)、全ての「修二会」は「悔過(けか)」という「懺悔」を行うものなのです。
 これらの寺院が「何故」、「何」について「懺悔」を行うのかはやや不明でした。しかし水野氏の研究により、これらの寺院で行われる「修二会」とは「長屋王」に対する「懺悔」である、と言う事が明らかになったのです。(※)まさに「炯眼」と言うべきであり、その「着眼」に敬意を表するものです。

 東大寺の「修二会」の場合、一連の儀式の中に「お水取り」という「水を汲む」動作が入る部分があります。
 「二月堂」の階段下には「閼伽井屋」(あかいや)という「井戸」があり、その井戸から「香水」を汲む訳ですが、その「閼伽井屋」は「堂」のようになっており、そこには「二月十二日うしの時」と書かれた額が掲げられているのです。(「閼伽井屋」は「お水取り」の時の「当役」の者以外は誰も入ることが出来ず、確認できませんが、「絵巻」では「額」が掲げられているようです)

 この「修二会」は多くの見所があり、現在でも地元の方々以外にも多くの観光客が訪れるものとなっています。その中には「巨大」な「松明」を振りかざしながら歩いたり、また、「走りながらの行」など奇妙な儀式が多いものですが、「修二会」ではなく「俗名」として「お水取り」の方がはるかに有名なわけですから、この部分がこの「修二会」のメインイベントと考えられます。
 この「二月十二日うし(丑)の時」と言う日付が意味するものは、この「修二会」のという行事の中で「メイン」となる「儀式」の本来の執り行われる日時が「旧暦」の「二月十二日うし(丑)の時」ということになると思われます。
 この「お水取り」は「東大寺」大仏の「開眼法要」が行われた「七五一年」から「一二〇〇年」以上絶えることなく続けられてきたものであり、非常に重要な意味を持っていると考えられますが、その「七五一年時点」で「この日付」と関連すべき「懺悔」しなければならないイベントがあったものでしょうか。

 「長屋王」が「左道」により「聖武天皇」の「皇太子」を呪い殺したというかどで逮捕され、自害させられたのが「七二九年二月十二日」であり、その前日の「十一日巳の時(午前十時頃)」から「長屋王邸」で「舎人親王」達により尋問が続けられ、日付を越えた十二日になって「自害」させられたものと思われ、「うしの時」(つまり午前一時頃)という時間帯とも整合すると考えられます。
(以下「長屋王」自害に至る流れ)

「天平元年(七二九年)二月辛未条」「左京人從七位下漆部造君足。无位中臣宮處連東人等告密。稱左大臣正二位長屋王私學左道。欲傾國家。其夜。遣使固守三關。因遣式部卿從三位藤原朝臣宇合。衛門佐從五位下佐味朝臣虫麻呂。左衛士佐外從五位下津嶋朝臣家道。右衛士佐外從五位下紀朝臣佐比物等。將六衛兵。圍長屋王宅。」

「同月壬申条」「以大宰大貳正四位上多治比眞人縣守。左大辨正四位上石川朝臣石足。彈正尹從四位下大伴宿祢道足。權爲參議。巳時。遣一品舍人親王。新田部親王。大納言從二位多治比眞人池守。中納言正三位藤原朝臣武智麻呂。右中弁正五位下小野朝臣牛養。少納言外從五位下巨勢朝臣宿奈麻呂等。就長屋王宅窮問其罪。」

「同月癸酉条」「令王自盡。其室二品吉備内親王。男從四位下膳夫王。无位桑田王。葛木王。鉤取王等。同亦自經。乃悉捉家内人等。禁着於左右衛士兵衛等府。」

 多分、自害の前に「最後の水」を飲んだものでしょう。あるいは「死後」水で清めるという儀式が古来からあったとされますから、それに従ったものかもしれません。これを「長屋王」の庭の「井戸」から汲んだのだと考えられ、それを再現した儀式になっているのではないでしょうか。それが「遠敷明神」と関係づけられているのは「贄」として多くの「海産物」などを「長屋王邸」にもたらしたのが「遠敷郡」であったことと関係があるものと推察されます。
 この「井戸」に関する伝承では「天平勝宝四年」(七五二年)に僧「実忠」が「修二会」を修した際に全国の神々を招いたとき、「若狭」の「遠敷明神」が漁に夢中になって遅刻し、そのお詫びに若狭の聖水を二月堂の観音に捧げることを約束し、「明神」が二羽の「鵜」を遣わし「二月堂」下の岩から鵜が飛び出し そこから、香水が湧き出したと伝わっています。
 つまり、この「お水取り」という行事は、後代に付加されたものではなく、当初から「修二会」に付随した行事であったこととなるわけです。このことは「お水取り」と「修二会」という行事全体が不可分のものであることを示しています。

 また、この「お水取り」に参加する「練行者」の人数は「呪師」を含めて「六人」と決められていますが、「長屋王の変」の際に「尋問」のために「長屋王邸」に入った人間の数も、『続日本紀』に拠れば「中納言藤原武智麻呂」、「舎人親王」、「新田部親王」、「大納言多治比真人池守」、「右中弁小野牛養」、「少納言巨瀬宿奈麻呂」の計六人とされていて、共通しています。

 「二月堂」の「本尊」は「十一面観音菩薩」であり、「大観音」と「小観音」と二つあって、いずれも「絶対の秘仏」とされているようです。そして、「修二会」の期間の前半七日間の本尊は「大観音」であり、後半七日間の本尊が「小観音」とされているようですが、推測すると「大観音」が「長屋王」であり、「小観音」は夫人である「吉備内親王」を表すものなのではないでしょうか。
 「十一面観音菩薩」が「長屋王」の「象徴」とされている、と言う事はそれがそもそも「長屋王」の信仰するところであったものであり、この「十一面観音」は「宇佐神宮」の「巫僧」であった「法蓮」の信仰するところの「密教仏」であったものです。
 そして、この「変」は実は「誣告」であった(つまり「冤罪」であった)ことが後に明らかになっており、このことで「聖武天皇」は「ノイローゼ」状態になったと考えられています。(彼を死に追い込んだ「藤原不比等の子供」も全員病死しており、そのこともまた、「聖武天皇」には「祟り」と映ったようです)
 「長屋王」の「夫人」の「吉備内親王」も、「吉備精霊」という「祟り神」として畏れられるようになります。
 そして、「聖武天皇」は「東大寺」を建立し「大仏」を造るわけですが、「開眼法要」以降「お水取り」が始まる、と言う事の中に、「大仏建立」も実は「祟り」に対する「畏れ」、「長屋王」と「吉備内親王」に対する「贖罪」という意味があったのではないかと考えられることとなります。
 
 それにしても少なからず「奇妙」ではないでしょうか。確かに「聖武天皇」の気持ちの中に「祟り」に対する恐れや懺悔の気持ちがあったとしても、「一二六〇年間」絶え間なく行われてきたと言うことや、奈良の他の寺院でも同様に行われてきた、と言うのは「ただごと」ではないと感じられます。
 いかに「冤罪」であったとしても、いかに「左大臣」という「人臣」を極めた地位にあった人物であったとしても、そのための「法要」とも言える「修二会」が「一二六〇年間」継続して、その間例え何があっても(戦争中でさえも)続いていたと言うことに中に何か別の意味を感じるものです。

 後に述べる「蘇我倉山田麻呂」の事件も「大臣」が「謀反」で「斬刑」に処せられる、というものであり、これも「誣告」であったという可能性がある事件であって、その意味では「長屋王」の一件と非常によく似ています。しかし、彼についての何らかの「懺悔」などが後の世まで伝えられている風情はありません。
 権力欲に取り憑かれた人物達の「陰謀」により「冤罪」が発生するなどは(そのような権力欲がむき出しになっていた)古代には珍しくなかったと思われ、大臣であった彼についても変わりはなかったものと考えられます。しかし、「長屋王」は明らかに「山田大臣」とは「違う」扱いをされているのです。
 それは「前述」したように「長屋王」が「倭国王」だった人物だからと考えれば首肯できるものであり、そのような人物に対して「謀反」を企て「反乱」を起こした結果について「懺悔」し続けなければならないこととなったのだと推察されるものです。

 これに関しては引き続き「水野氏」の研究があり、それに拠れば『太神宮神道或問』という書物など「神宮」関連史料のいくつかに上の「長屋王」自害の翌日の「二月十三日」に「天皇」が「御悩みあり」という状態となったとされています。

「…同年二月十三日天皇俄に御悩みありて、御薬きこしめすの間、卜食しめ給ふに、神祇官陰陽寮勘申しけるは、巽の方太神死穢不浄の咎によりて祟り給ふなりと申し上げければ…」(渡会芳延『太神宮神道或問』より)
 
 これは明らかに「長屋王」の死去についての「聖武」の精神的な「煩悶」を示すものであり、「長屋王」を自害に追い込むにあたって「聖武」自身はある意味「断固」としてこれを行なったものではないことが分かります。つまり「聖武」自身は「長屋王」に対する「遠慮」とある種の「敬意」を持っていたらしいことが知られ、そのことから推測すると「高市皇子」についての彼の兄弟の反感を「藤原氏」などが利用したという流れではないでしょうか。
 彼の後継を誰にするかという審議の際に「弓削皇子」が「兄弟継承」を主張しようとしたらしいことが推定され、それを封殺されたことから遺恨があったことが考えられます。
 その立役者は「舎人親王」ではなかったかと考えられ、その直後に出された「舎人親王」に対し「下座する必要がない」(敬意を払う必要がない)という「太政官」処分(以下のもの)は「聖武」の意志に沿った行動を取らなかった「舎人親王」に対する精一杯の反抗ではなかったでしょうか。

「同年夏四月癸亥条」「…太政官處分。舍人親王參入朝廳之時。諸司莫爲之下座。…」

 これについては「聖武」の精神的状況を示すと共に「伊勢神宮」そのものの「長屋王」に対する「死」を望んでいなかったこと、つまり「伊勢神宮」の意志に反して「長屋王」が死罪となったことを示すものと思われ、「伊勢神宮」の勢力も「親長屋王」的立場であったことが窺われるものであり、彼らも「旧日本国」勢力の一部をなしていたということが考えられるものです。

 「聖武天皇」は「筑紫太宰府」に対して「遠御朝庭」というように「敬意」を含んだ表現をしていることで知られており、彼は「旧日本国」つまり「九州倭国王朝」に対して一定の敬意を持っていたことが窺われるものです。「長屋王」に対しても「旧倭国王」として遇していたものであり、一定の信頼を寄せていたものと思われますが、その自分の意志を「無視」されたことが「舎人親王」への態度として表れているものと思われます。
 彼は「藤原広嗣」が反乱を起こした際には「皇后」(光明子)ともども「伊勢」へ逃げるとされましたが(結局は行かなかったものの)、この逃避の理由はこの「乱」が「筑紫」から起きたからであり、恐れていた「九州倭国王朝」勢力の反乱が起きたと見なしたという可能性も考えられるところです。それほど彼は「見えない旧日本国王権」に怯えていたものであり、それもまた「長屋王」死去に対する「悔恨」と「畏怖」が根底にあったものと推量します。


(※)水野孝夫「長屋王のタタリ」『古田古代史学会報』101号

 
(この項の作成日 2011/10/03、最終更新 2015/04/26)