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「多治比三宅麻呂」の誣告事件


 『続日本紀』の「養老六年」(七二二年)の記事に「多治比真人三宅麻呂」の「誣告」事件が書かれています。この記事の意味は何だったのでしょうか。

 ここで「誣告」をしたとされる「多治比真人三宅麻呂」は「大宝三年」(七〇三年)に「藤原房前」等とともに「各諸国」(諸道)に対して派遣された「巡察使」様の使者派遣のために人選された中に入っており、「東山道」の「各国司・郡司」などの「治績」の記録と判定を任されるという栄誉ある仕事に就いています。
 彼はその後も官位の加増を受け、「慶雲四年」(七〇七年)「元明天皇」即位の際の「御装司」にも選ばれており、またその後も「催鋳銭司」という当時発見された「和銅」との関連で発行されることとなった貨幣の鋳造の管理者というかなり栄誉ある地位に就いています。
 その後も順調に昇進を続け「正四位上」という中級官人としてかなり高い地位にあったものですが、「元明天皇」死去の直後、突然「事件」が起きます。

『続日本紀』巻九養老六年(七二二)正月壬戌二十
「壬戌。正四位上多治比眞人三宅麻呂。坐誣告謀反。正五位上穗積朝臣老指斥乘輿。並處斬刑。而依皇太子奏。降死一等。配流三宅麻呂於伊豆嶋。老於佐渡嶋。」

 ここでは、「穂積朝臣老」の「指斥乘輿」つまり、「天皇」を「非難・誹謗」するという、重大事案と並べて「多治比眞人三宅麻呂」の「坐誣告謀反」という事件が書かれています。
 「誣告」とは「他人」を罪に陥れるために「虚偽」の告発をすることであり、ここでは「謀反」と書かれていますから、「天皇」個人を傷つける意図を誰かが持っていて、それを実行しようとしている、ということを告発したように受け取れます。(「謀反」と「謀叛」は「令」では明確に区別されています)
 しかし、その対象者が誰であったのかがここでは触れられていないため、その「告発」がすぐに「誣告」つまり「虚偽」と判明したのか、そうではなく、その告発により誰かが「罪」を受けたのかは不明です。
 「謀反」は「死罪」(斬刑)と決められていましたから、この告発が「虚偽」であると判明しなかったならば、当の誣告された本人は「死刑」になった可能性もあります。
 「穂積朝臣老」の「指斥乘輿」事件の方は間違いなく「謀反」と判断されたでしょうから、同様に「死刑」は免れません。
 問題はこの二つの事件が「関連」があるのかどうか、ということです。

 これに関しては、どちらも同じ日付の事件として書かれているように思え、また「彼ら二人」は上に見るように「諸国」への「巡察使」派遣の際にも「共に」派遣されているなど、似たような経歴を歩んでいます。これらのことは彼らの行動は「共同」して行われたものではないか、という推察ができそうです。(逆に反目の果てのこと、という可能性もありますが)

 「三宅麻呂」の「告発」が「穂積朝臣老」の「指斥乘輿」事件を指すのだとするなら、これは「誣告」でも何でもないわけであり、正当な告発と言えるでしょう。しかし「三宅麻呂」は「罪」を受けているわけですから、彼の告発は「穂積朝臣老」に向けられたものではなく、逆に彼の行動を支援するような性質のものであったと考えなければならず、「別人」を告発したのだとしか考えられません。
 想像をたくましくするなら、「穂積朝臣老」の行動は「直訴」のようなものではなかったでしょうか。「天皇」の近くにいる「ある人物」について、「諫言」する、と云うより「非難」が主のものだったのでしょうか。これに激怒した即位したばかりの「元正天皇」か、または当時「右大臣」であった「長屋王」により「死罪」とされたものと考えられます。
 また、「多治比眞人三宅麻呂」はそれを擁護するために「ある人物」が「天皇」を傷つける意図を持っている、と告発したのでしょう。彼もまた同様に「元正天皇」または「長屋王」により「死罪」とされたものですが、そこで「皇太子」(後の聖武天皇)の取りなしにより、彼らは罪一等を減じ「流罪」となったものです。
 「穂積朝臣老」は「七四〇年」「長屋王」が排除されて「十一年」経ってから「京」に戻る事を許され、その後「聖武天皇」の遷都の際には「留守官」として「恭仁宮」に残っているなど、一度「流罪」になった人間には希な扱いをされており、これは元々当時皇太子であった「聖武天皇」が取りなした、と言う事も含め彼に対する「信任」が厚かったものと思われます。
 
 『続日本紀』巻十五天平十六年(七四四)二月丙申二
丙申。中納言從三位巨勢朝臣奈弖麻呂持留守官所給鈴印詣難波宮。以知太政官事從二位鈴鹿王。木工頭從五位下小田王。兵部卿從四位上大伴宿祢牛養。大藏卿從四位下大原眞人櫻井。大輔正五位上穗積朝臣老五人爲恭仁宮留守。治部大輔正五位下紀朝臣清人。左京亮外從五位下巨勢朝臣嶋村二人爲平城宮留守。

 そして、これら「多治比真人三宅麻呂」等の事件は後の「七二九年」の「長屋王」事件につながっているのではないか、という想像をさせるものです。
 つまり、この時彼らが告発したあるいはしようとしたのは「長屋王」だったのではないでしょうか。
 この時点は「元明天皇」が亡くなり、その前には「藤原不比等」も亡くなっており、「長屋王」の天下と云ってもいい状態となっていました。
 考えられるストーリーとしては、彼らは「長屋王」が「自分が天皇になろうとしている」と考え、それを「元正天皇」に伝えようとしたのでしょう。しかし、「長屋王」の反撃に遭い、危うく「死罪」となるところだったものを「皇太子である聖武天皇」に救われたとみられるのです。

 「長屋王」は彼の父である「高市皇子」まで「倭国九州王朝(旧日本国)」に直接つながる系譜の持ち主であり、そのような人物が「政権トップ」にいるようになったことについての「危惧」があったものと思われ、「倭国王朝」の復活につながるという様に考えたのではないでしょうか。
 この彼らの危惧と懸念は、その後も根強く続いたと考えられ、「七二九年」になって、「長屋王の変」という事態になって現実のものとなったのです。
 この時の「長屋王」に対する「嫌疑」というのは「左道」によって「聖武天皇」の「皇太子」を「厭魅」したというもので、当時「聖武天皇」の「皇太子」は生まれてすぐに亡くなりますが、その直前に「延命」の祈祷をするため、という名目で「図書寮」から大量の「祈祷」用の物品が「長屋王」により無断で借り出されています。これらの物品はそのまま逆に「呪い殺す」のにも使用できるものであり、偏見を以って臨めば、疑うのに充分であったかもしれません。
 「穂積朝臣老」や「多治比真人三宅麻呂」の事件はこの時とよく似ていたとも思われます。つまり、「元明天皇」(譲位したため「太上皇」と呼ばれていたが)の死去に関連して同様の疑いが持たれたのかもしれません。しかし、「三宅麻呂」の時には「長屋王」に対抗できる人間が誰もおらず、彼らの主張は通らなかったものでしょう。

 『続日本紀』の記事では「左道」という表現が使用されていますが、この「左道」に関しては、同じ「左道」として忌み嫌われていたものに「呪術」があります。「奈良」・「天平」時代には再三の「呪術」禁止令が出されており、中国南朝「陳」の律にも、このような呪術は「道教」の僧(「道士」)によって行われる、とあってこれが「左道」と呼ばれていたのです。
 「長屋王」が本当に「左道」により「厭魅」していたかは疑わしいと思われ、これについては冤罪であり、「追い落とし」の一環であったと考えられます 
 
 「唐」から「鑑真」が来日するに至った動機の中に「長屋王」についての「逸話」があったとされています。
 それによれば「長屋王」は「袈裟」を「千枚」作り、「唐」の高僧に寄進した、というのですが、その袈裟には「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」という「文字」(願文)を縁に刺繍してあったのです。それを聞いた「鑑真」は日本という国に強く興味を持ったことが幾多の困難を経ても日本に渡る、という情熱を失わなかった一因であると思われるのです。
 また、「長屋王」は「大般若経」の「書写」も行っています。「大般若経」は「文字数六万」という大部であり、個人で行う事自体が「希有」な事なのです。
 「長屋王」の夫人は「文武」の妹の「吉備内親王」であり、「文武」追悼という彼女の意向を汲んで「長屋王」が「書写」させたものと考えられています。
 「長屋王木簡」には「経師」「書法模人」「書法作人」「書写人」などの記載があるのが確認されており、この「大般若経」の「書写」に携わった人々を指すものと考えられます。 
 このように仏教に深く帰依していたと考えられる彼ですから、「道教」に興味があったとは思われず、「厭魅」の件は「冤罪」であったものと考えられ、それは「倭国王権」につながる人物である「長屋王」を亡き者にすることで「旧政権」(倭国王朝)の抹消を図った「陰謀」であったものではなかったでしょうか。

 また、この「長屋王事件」の際には、彼の罪状を審議するため「長屋王邸」に「中納言藤原武智麻呂」、「舎人親王」、「新田部親王」、「大納言多治比真人池守」、「右中弁小野牛養」、「少納言巨瀬宿奈麻呂」など政権中枢の人物達が入っています。「律令」の元では「罪人」の取り調べは「役所内」で行われるものと考えられ、在宅の取り調べと云うこと自体が「規定外」の話なのです。
 なお密告者は「塗部君足、漆部駒長」などとされており、彼らは「長屋王邸」で飼われていた人物ではないかと考えられます。
 長屋王邸には「絵師」もいれば「塗師」もいたようですから、彼らは「邸内」に入る機会も多く、中で仕事をしているうちに何かの情報を入手したものかもしれません。

 
(この項の作成日 2011/08/22、最終更新 2014/12/19)