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「東国国司」への詔について


 『書紀』の『孝徳紀』には「東国国司」に対する「詔」が複数回確認できます。

「(六四五年)大化元年八月丙申朔庚子条」「拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。與百姓倶。又國司等在國不得判罪。不得取他貨賂令致民於貧苦。上京之時。不得多從百姓於己。唯得使從國造。郡領。但以公事往來之時。得騎部内之馬。得騎部内之飯。介以上奉法。必須衰賞。違法當降爵位。判官以下。取他貨賂。二倍徴之。遂以輕重科罪。其長官從者九人。次官從者七人。主典從者五人。若違限外將者。主與所從之人。並當科罪。若有求名之人。…」

「(六四六年)大化二年三月癸亥朔甲子条」「詔東國々司等曰。集侍羣卿大夫。及臣連。國造。伴造。并諸百姓等。咸可聽之。夫君於天地之間。而宰萬民者。不可獨制。要須臣翼。由是代々之我皇祖等。卿祖考倶治。朕復思欲蒙神護力共卿等治。故前以良家大夫使治東方八道。既而國司之任。六人奉法。二人違令。毀譽各聞。朕便美厥奉法。疾斯違令。凡將治者。若君如臣。先當正己而後正他。如不自正。何能正人。是以不自正者。不擇君臣。乃可受殃。豈不愼矣。汝率而正。孰敢不正。今隨前勅而處斷之。」

「同月辛巳条」「詔東國朝集使等曰。集侍群卿大夫。及國造。伴造。并諸百姓等。咸可聽之。以去年八月朕親誨曰。莫因官勢取公私物。可喫部内之食。可騎部内之馬。若違所誨。次官以上降其爵位。主典以下。决其笞杖。入己物者。倍而徴之。詔既若斯。…」

 これらの「詔」では「法」や「令」に叶うよう行動することが求められ、「公私」の区別を付けるように厳しく指示しています。
 これらに酷似しているのが「文武」の即位の詔です。

「(六九七年)元年八月甲子朔。受禪即位。
庚辰。詔曰。現御神止大八嶋國所知天皇大命良麻止詔大命乎。集侍皇子等王等百官人等。天下公民諸聞食止詔。高天原尓事始而遠天皇祖御世御世中今至麻弖尓。天皇御子之阿礼坐牟弥繼繼尓大八嶋國將知次止。天都神乃御子隨母天坐神之依之奉之隨。聞看來此天津日嗣高御座之業止。現御神止大八嶋國所知倭根子天皇命授賜比負賜布貴支高支廣支厚支大命乎受賜利恐坐弖。此乃食國天下乎調賜比平賜比。天下乃公民乎惠賜比撫賜牟止奈母隨神所思行佐久止詔天皇大命乎諸聞食止詔。是以百官人等四方食國乎治奉止任賜幣留國々宰等尓至麻弖尓。天皇朝庭敷賜行賜幣留國法乎過犯事無久。明支淨支直支誠之心以而御稱稱而緩怠事無久。務結而仕奉止詔大命乎諸聞食止詔。故乎如此之状乎聞食悟而款將仕奉人者其仕奉礼良牟状隨。品品讃賜上賜治將賜物曾止詔天皇大命乎諸聞食止詔。仍免今年田租雜徭并庸之半。又始自今年三箇年。不收大税之利。高年老人加恤焉。又親王已下百下百官人等賜物有差。令諸國毎年放生。」

 ここでは「…是以百官人等四方食國乎治奉止任賜幣留國々宰等尓至麻弖尓。天皇朝庭敷賜行賜幣留國法乎過犯事無久。明支淨支直支誠之心以而御稱稱而緩怠事無久。務結而仕奉止詔大命乎諸聞食止詔。…」という表現で判るように「國法」への遵守というものを強く求めています。
 この二つは実は同じ事を意味するものであり、「国家所有公民」(東国国司詔)、「天下公民」(文武即位詔)というように「公民」という概念も共通しています。この「公」という概念が「十七条憲法」に際だって特徴的であることが知られており、それ以降「中央集権化」が強く進行したことが窺われる訳であり、そう考えると『文武紀』において「公民」や「國法」という概念がいまさらのように麗々しく持ち出されるのもまた不思議でしょう。
 これらは本来「七世紀半ば」のものであり、その時点において「先代」「先々代」の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の威信を借りたものであり、「即位」に当たって、「憲法十七条」という「不改常典」を守ることを誓うとともに、「彼等」が作り行なった「統治機構」の存続と強化を宣言したものと考えるのが正しいと思われます。
 
 これに関しては既に「正木氏」により「同様の」議論が行なわれていますが(※)、それは当方とは全く逆の考え方となっています。つまり、彼によれば「真の年次」は「八世紀」であり、『孝徳紀』はそれを過去側に移動されて記録されたものとしている訳ですが、当方は「真の年次」が「七世紀半ば」であり、『文武紀』の記事は「未来側」に移動されて記録されたものと理解している訳です。このいずれが正しいかは「七世紀初め」の「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の改革を如何に正確に捉えるかという点に関わっており、この時点における「王権」の性格と内容はそのまま次代の「七世紀半ば」の「倭国王」に継受されたものと見ると、「文武」の詔はまさにそれに合致するものと言えるのではないでしょうか。
 既に考察したように『文武紀』については「五十七年」の移動が推定されており、この「文武受禅」記事は「六四〇年」のこととなるものと思われ、本来の日本国創建時点の記事であると考えられることとなるでしょう。


(※)2010年9月に行なわれた「古田史学の会・関西例会」によります。そこでは「正木裕氏」によって、以下のことが発表されています。
 (1)『書紀』大化元年(六四五)八月の「東国国司招集の詔」の発せられた実年は、九州年号大化元年(六九五)であり、近畿天皇家が、九州王朝により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、律令施行に向け新職務を課す主旨。
 (2)大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。
 (3) 賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。


(この項の作成日 2012/08/09、最終更新 2013/08/09)