『旧唐書』では「日本国」からの遣唐使の記事として以下のことが書かれています。
「其大臣朝臣眞人來貢方物。朝臣眞人者、猶中國戸部尚書、冠進徳冠、其頂爲花、分而四敵、身服紫袍、以帛爲腰帯。」
ここでは「粟田真人」とおぼしき人物は「進徳冠」をかぶっています。
『続日本紀』によれば、「大宝元年」(七〇一年)の記事として「始停賜冠。易以位記。」というものがあり、これは「冠位」としての名称には「冠」は残るものの「実際」には「冠」はかぶらず、その代わりに「位記」(官位等を書いた紙)を「賜う」こととしたというものです。
しかし、翌「七〇二年」に発遣された「遣唐使」である「粟田真人」は「進徳冠」をかぶっていたとされているわけです。
ここに書かれた「進徳冠」は、「易経」に「子曰、君子進コ脩業。忠信所以進コ也」(易経乾下文言伝九三)とあるように「君子」が「徳を進める」ための「修業」の過程を表わす「冠」であり、「唐」では、「天子」に至る途中の「太子」の冠であったものです。
この「冠」を「日本国」の使者がかぶってきたわけであり、当時の「日本国」の「冠」が「唐」の「礼」によっていたことを示しているものです。
ところで、上に述べたように『続日本紀』では「大宝」と「建元」と共に「始停賜冠。易以位記」とあり、この時始めて「冠」を与えるのをやめ、「文書」にしたとあります。
『続日本紀』
「(文武)五年(七〇一年)三月甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。始依新令。改制官名位号。親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。勳位始正冠正三位。終追冠從八位下階。合十二等。『始停賜冠。易以位記。語在年代暦。』」
しかし、『書紀』を見ると「六八九年」という年次に筑紫に対して「給送位記」されており、その後「六九一年」には宮廷の人たちに「位記」を授けています。
「(持統)三年」(六八九年)九月庚辰朔己丑条」「遣直廣參石上朝臣麿。直廣肆石川朝臣虫名等於筑紫。給送位記。且監新城。」
「(持統)五年(六九一年)二月壬寅朔条」「…是日。授宮人位記。」
これらの記事は『続日本紀』の記事とは明らかに齟齬するものであり、しかも、この記事以前には「位記」を授けるような「冠位」改正等の記事が見あたらないこともあり、この「位記」がどのような経緯で施行されるようになったのか不明となっています。
中国では元来「官爵」の授与は同時に授与される「印綬」によって証明していたものです。これは後に「文書」である「告身」によるようになります。その延長線上に「位記」が存在するものであり、「位記」は「隋・唐」においては日常的に使用されるようになっていたことを考えると、「大宝年間」まで「位記」が採用されていなかったという『続日本紀』の記事には疑いが発生することとなります。つまり「倭国」が「遣隋使」「遣唐使」を送って「隋・唐」の制度導入を図っていた時期になぜ「位記」が採用されていないのかが不明となるでしょう。その意味では『書紀』の記事にはリアリティがあるといえます。この時代には「位記」が「印綬」に代わって使用されていたとして不思議ではないと思われるからです。
さらに「笞刑」の制定についても同様に「始めて」記事が『続日本紀』にあるにも関わらず、『孝徳紀』に「笞杖」という刑罰の存在が記されており、矛盾しています。
(六九八年)(文武)二年…秋七月己末朔。…乙丑。以公私奴婢亡匿民間。或有容止不肯顯告於是『始制笞法』。…」
(六四六年)大化二年…三月癸亥朔甲子…辛巳。詔東國朝集使等曰。集侍群卿大夫。及國造。伴造。并諸百姓等。咸可聽之。以去年八月朕親誨曰。莫因官勢取公私物。可喫部内之食。可騎部内之馬。若違所誨。次官以上降其爵位。主典以下。『决其笞杖』。入己物者。倍而徴之。…」
この『孝徳紀』の記事はこのとき始めて「笞刑」が制定されたというものではありませんから、それ以前からあったことが推察され、そうすると干支一巡程度の遡上を想定すべき事となるでしょう。つまり、この記事も『続日本紀』の年次に強い疑問符が呈せられる事態となっているわけです。
これらのことは『続日本紀』の「位記」制定記事関連でいうと「五十七年」(「笞刑」記事についても同様か)、「持統五年記事」については「四十七年」を措定するとこの二つは共に「六四四年」記事となって同年のこととなり、きれいに整合します。また「持統三年記事」は「三十四年〜四十年」程度の遡上を措定すると「六五四年」のこととなり時系列としても他の記事との齟齬もありません。
(この項の作成日 2012/08/03、最終更新 2016/02/06)