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「国司」と「国宰」について


 既に述べたように「六世紀末」に「六十六国分国」事業が行なわれたと見られ、その際に「我姫」を「八国」に分けたように、「令制国」(律令制下の「国」)と同等の領域がこの時区画されたものと思われますが、それと共に、その領域の統治に関してかなり強い権能を有した人材が配置されたと考えられ、それが「国宰」と称された職掌であったと理解できます。
 この「国宰」は『書紀』には全く見られず、全て「国司」で統一されているようですが、『風土記』の記載などから「七世紀」を通じて「国宰」が「諸国」の管理・統治を行なっていたことが窺えます。

『常陸国風土記』久慈郡
「自此艮二十里 助川駅家 昔号遇鹿 古老曰 倭武天皇 至於此時 皇后参遇 因名矣 至国宰久米大夫之時 為河取鮭 改名助川 俗語謂鮭祖為須介」

『播磨国風土記』讃容郡船引山の段
「近江天皇之世、道守臣為此国之宰、造官船於此山、令引下故曰船引。」

『同風土記』飾磨郡 少川里高瀬村豊国村英馬野射目前檀坂御立丘伊刀島 土中々本名私里 右 号私里者 〓志貴〓島宮御宇天皇世 私部弓束等祖 田又利君鼻留 請此処而居之 故号私里 以後 庚寅年 上野大夫 為宰之時 改為小川里 一云 小川 自大野流来此処 故曰小川」

『同風土記』
「大家里旧名大宮里 土中上 品太天皇 巡行之時 営宮此村 故曰大宮 後 至田中大夫為宰之時 改大宅里」

 これらによれば「国宰」あるいは「宰」が「七世紀代」には存在していたことは明らかであると思われます。

 また同じ『播磨風土記』中には「大夫」と称する人物について「国司」と書かれた部分もあり、「国宰」と「国司」が同義であることが推測されます。

『同風土記』
「貽和里船丘北辺 有馬墓池 昔 大長谷天皇御世 尾治連等上祖長日子 有善婢与馬 並合之意 於是 長日子 将死之時 謂其子曰 吾死以後 皆葬準吾 即 為之作墓 第一為長日子墓 第二為婢墓 第三為馬墓 併有三 後 至生石大夫為国司有之時 築墓辺池 故因名為馬墓池」

 「藤原宮」の「南面西門・内濠・外濠跡」から出土した「木簡」にも 『・封○印・「粟道宰熊鳥」□ 』と書かれたものが確認されています。この木簡については年次などは不明ですが、「藤原宮」跡から出ていることから、「七世紀代」であることはほぼ明確と思われます。

 また「四国」の「観音寺遺跡」からは「国守」と書かれた木簡で出土しましたが、そこには「大夫」とあり、これは『風土記』で「国宰」や「総領」が「大夫」と称されていることとつながる表記であると思われます。

「年四月廿一升又日一升又日一升又日一升又日?板野国守大夫分米三升小子分用米〈〉此月」(観音寺遺跡)

 また、「石神遺跡」からは「評」と書かれた木簡に同様に「大夫」と書かれたものがあり、この当時「大夫」が「官人」に普遍的に使用される呼称であることが推察されますが、それは「古制」であったものと思われ、伝統的な使用法ではなかったかと推察されます。

「評 大夫等前謹啓」(石神遺跡)

  また『続日本紀』に「国宰」が出てくるのは二箇所あり、内一箇所は「文武」の「即位」の「詔」です。

「文武元年(六九七年)八月甲子朔庚辰条」「…是以百官人等四方食國乎治奉止任賜幣留『國々宰』等尓至麻弖尓。天皇朝庭敷賜行賜幣留國法乎過犯事無久。明支淨支直支誠之心以而御稱稱而緩怠事無久。務結而仕奉止詔大命乎諸聞食止詔。…」

 さらに「大宝元年」(七〇一年)六月己酉(八日)の「詔」では「庶務」について述べていますが、その中にも「国宰」が出てきます。

「大寳元年(七〇一年)六月壬寅朔己酉条」「勅。凡其庶務。一依新令。又『國宰』郡司。貯置大税。必須如法。如有闕怠。隨事科斷。是日。遣使七道。宣告依新令爲政。及給大租之状。并頒付新印樣。」

 さらに『古事記』には「顕宗記」に「オケ」「ヲケ」兄弟が発見される過程を書いた記事の中に「針間国之宰」(山部連小楯)という人物が出てきますが、同様の内容の記事が書かれた『書紀』ではその「山部連小楯」は「播磨国司」とされています。
 もちろん「顕宗天皇」の時代(五世紀の終わりとされる)に本当に「国宰」がいたのかどうかは別として、『古事記』の表記とは異なる表記を『書紀』が行なっているのは確かであり、これは「書き換え」を行なっていると考えられるでしょう。つまり「七世紀」全体を通じて「国宰」が存在していたこと、それを『書紀』が「国司」として書き換えているらしいことが判明するわけです。このような史料状況が「評」と「郡」という関係に酷似しているのは言うまでもないことでしょう。つまり「評」と同様その存在を「隠蔽」しようという意志が感じられるのです。

 これらについて「婦女子の髪型」同様「五十七年」の遡上年数を措定すると、各々「六四〇年」と「六四四年」のことであったこととなります。この年次は「庚寅年」として「六三〇年」を想定すると『播磨風土記』の「上野大夫」記事と整合すると思えます。それはその記事中に「里名」変更記事があり、それが「私部」による命名を否定するものであるからです。これは「改新の詔」関連の「詔」の中に「部曲之民」返上があることと関係していると思われます。

「即宣改新之詔曰 其一曰。罷昔在天皇等所立子代之民處々屯倉及別臣連。伴造國造村首所有部曲之民處處田庄。…」

 つまりこの「私部里」の人々は「部曲」であったのではないかと考えられ、それを「解放」したということではなかったかと考えられるものです。

 ところでこの「国宰」は『書紀』には全く出てこないものの、上に見るように『続日本紀』には現れます。それは「評」についてと同様であり、『書紀』では双方とも隠されているのに対して『続日本紀』では双方とも隠されていないということの意味はどこにあるのでしょうか。

 既に見たように『書紀』『続日本紀』とも「編纂」にあたった人物(達)は、「潤色」「改定」はかなり大胆に行っていますが、ただし「捏造」するようなことはしていないようです。あくまでも単に記事を「移動」することで目的を達成しているように見えます。つまり彼等は「自分達」の「王権」の大義名分を確保しようとした場合、それに不都合な記事があった場合「移動」するのです。
 そのような「移動」を考えると、『続日本紀』に書かれてあることは元々『書紀』の中にあった記事という可能性があり、そう考えれば『書紀』からは消えたものの、『続日本紀』にそのままの形で移動させられているという可能性が考えられます。
 つまりそれらの「評」記事及び「国宰」記事は、そのまま「七世紀半ば」の「真」の記事であると言う可能性を考える必要があるということです。そのように「捏造」や「抹消」を行っていないのは彼等としての「最低限」の「過去」の記録とその時代の王権への「敬意」の表現であったかも知れません。


(この項の作成日 2013/06/30、最終更新 2013/12/02)