ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『続日本紀』に見える記事移動にについて:

「大野城」などの修造記事


 『続日本紀』には「大野城」「基肄城」「鞠智城」について「繕治」したという記事があります。

「文武二年(六九八年)五月庚申朔甲申条」「令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。」

 この「繕治記事」は「一見」してそれほど不自然ではありませんが、「大野城」から出土した「木材」の「年輪年代測定結果」から(X線CTによる測定)「六四八年伐採」という可能性が指摘されています。
 それ以前に行なわれた「年輪年代測定」では最外輪の年代は判明したものの、「伐採年代」までは判りませんでした。しかし、「X線CT」を使用することにより、明確に「伐採年代」が判定されることとなったものです。
 この事を踏まえると、この記事はこれら「三城」の当初の「設置」(創建)記事である可能性があることとなります。そのことは「鞠智城」についての「設置記事」がないことにもつながるものでもあります。
 「鞠智城」は『書紀』などに「設置記事」が無く、「設置年月等」が不明とされていますが、実はここにそれが述べられているという可能性もあり得ます。ただしその「修造」という文言を重視するとした場合、さらに遡上した時期の創建を推定する方が正しいのかもしれません。
 国府などの遺跡の調査などからその建て替え間隔は約五十年であることが明らかとなっており、これは「律令」(というより「格式」)によりそれについて決まっていたと云う可能性があり、これに従い「大野城」等の山城についてもその「修造」が約五十年目であったとすると、その創建は六世紀の末のこととなります。
 この時期に創建されたとするとその目的はやはり「隋」という強力な海外勢力に対する防衛であり、「宣諭事件」及び「琉球侵攻」によって「隋」の意思と能力を見せつけられることとなったため、「倭国王権」はその主たる支配地域を「東国」へと移動したものと思われ、「難波副都」への遷都がこの時点で行われたことを意味するとも考えられます。

 「鞠智城」については、考古学的調査からその「築城」が「斉明朝」まで遡るという指摘があり、実際に「七世紀半ば」を推定するようなものも出土していることから、「大野城」の「城門」の柱の年輪年代とさほど変わらないと考える事もできると思われます。(ただし、「菊池市教育委員会」の「公的見解」は『書紀』の記述に「引きずられ」、「七世紀後半」としていますが、このような結論はその方法論からして非合理的と言えます)
 そうであれば、この『続日本紀』のこの「修造」記事について「年次移動」という「潤色」「改定」が施されていると考えることには合理性があることとなります。
 またこのことから「移動年次」の「差」として約「五十年」ほどの年数が措定されることとなりますが、「山城」造営のために部材を用意するのに数年を要したと考えれば、「婦女子」の髪型に関する解析から得られた「五十七年」という移動年数も考慮に入れるべきであると思われます。

 そもそもこの「年代」が測定された「部材」は「城門」の部材であり、城そのものではありません。記事にある「繕治」記事が実は「創建」記事であると読み込んだ場合でも「城門」の竣工がそれと同時なのかどうかは明確ではありません。
 ただし、この時の「築城」は「軍事的」必要性から建設されることとなったわけですから、「伐採」後速やかに部材として使用されたという可能性は確かに高いものと推定されます。(本来数年は「寝かせる」べきですが、建設の事情から考えてそれほど時間的余裕があるはずがなく、可及的速やかに築城されるべきであったと推定されますしかし、城門が先行したという可能性や城門が逆に遅れたという可能性などいくつか不確定要因が考えられ、創建年代としては明確とはいえないわけですが、いずれにしろこの記事からは「五十年前後」の移動が疑われるということがいえるでしょう。
 

(この項の作成日 2012/08/03、最終更新 2015/04/15)