下の「文武四年」記事には『続紀』で初めて「評」が現れています。
「(文武四年)(七〇〇年)六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸」
「(大宝二年)(七〇二年)八月丙申朔。薩摩多■。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉。…。」
「同年」九月乙丑朔…戊寅。…。討薩摩隼人軍士。授勲各有差。」
確かに「評制」が「郡制」に移行するのは「七〇一年」以降と理解されていますから、この「七〇〇年」という年次に「評」による職掌を名乗る人物がいても不思議ではないように思えます。
またこの記事については「没落」した「九州王権」の残党と「近畿王権」との軋轢というようなとらえ方がされることもあります。「評制」が「九州王朝」が施行したものだからという考え方ですが、しかし、この記事の中ではその「隠したい」はずの「評」がそのまま書かれており、また「前王権」の「制度」を名乗ったものをそのまま書いていることとなります。しかし、そのような事が想定できるでしょうか。
当然「近畿王権」としては「前王権」の制度や官職はこれを認めなかったと考えるべきではないかと考えられ、それを示すように『書紀』では「評」は全て「郡」に変えられているわけですが、それは「隠蔽」が目的であったと考えられるのに対して、ここではそれが「露出」しています。これは「矛盾」であるわけですが、それを整合的に理解しようとした場合、この「反乱記事」は本来「九州倭国王権」の元での反乱ではなかったのかという疑いにつながります。なぜなら「評」は「九州倭国王朝」が施行したものだからです。
そもそも『斉明紀』に見られるように「隼人」と「蝦夷」に対する「軍事的圧力」というものがすでに行われていたものであり、『文武紀』の記事がそれに関係していると見ることもできると思われます。特に以下の記事が重要です。
「斉明天皇元年(六五五年)是歳条」「高麗百濟新羅並遣使進調。百濟大使西部達率余宜受 副使東部恩率調信仁 凡一百餘人。蝦夷隼人率衆内屬 詣闕朝獻。」
ここでは「内属」という用語が使用されていますが、この語はそれまで「倭国」の版図には入っていなかった領域が「倭国」に組み込まれたことを示すものです。それは当然「降伏」という儀式を伴うものでしょう。「率衆」という表現は、「隼人」(及び蝦夷)の「族長」などリーダーがこの中に存在していたことを窺わせるものですがこの「隼人」についてはその後の『書紀』の記載から「大隅・阿多」の両隼人であると思わせようとしていると見られます。しかし、この「隼人」は実は「薩摩隼人」ではなかったかと見られます。彼等は上に見るような闘争を経た後、「捕虜」として「倭国王」に引見させられたものではないでしょうか。
この「内属」という用語は『後漢書』などに典拠があり、そこでは「内属」した地域には即座に「郡制」が施行されています。
「永平十二年(紀元後五十九年)春正月,益州徼外夷哀牢王相率内屬,於是置永昌郡…」「後漢書本紀 顯宗孝明帝 劉莊 紀第二 永平十二年」
このような前例から考えて、この投降した「隼人」の居住する地域に対しても即座に「行政制度」(この場合「評制」)が施行されたという可能性があるでしょう。
しかし「隼人」と「評」が連結している記事はこの『文武紀』の記事しかなく、それは「評制」が「薩摩」に対してかなり早い段階で施行された事を示していると思われます。
また、以下の『持統紀』の記事では「筑紫大宰」が「隼人」とその「貢献品」を転送しています。
「持統三年(六八九年)春正月甲寅朔。…
壬戌。…筑紫大宰粟田眞人朝臣等獻隼人一百七十四人。并布五十常。牛皮六枚。鹿皮五十枚。」
この記事は「筑紫大宰」が「百七十四人」という「大量」の「隼人」と物品を「献上」したとしていますが、これは「一般」に理解されているように、「貢献」してきた「隼人」とその品々を「大宰府」から「朝廷」へ転送したのではなく、「捕虜」とその「戦利品」(あるいは賠償品)だったのではないかと考えられます。
またここでも「隼人」とだけ記載されており、「地域名」が書かれていません。これ以前に「天武」の葬儀には「大隅」「阿多」の両隼人しか参列しておらず、「薩摩」「肥」の存在が空白です。つまり、記事の流れから言うとここで「薩摩」「肥」に対する征討戦が行われ、獲得された捕虜がいて、それが「筑紫大宰」を通じて上送されたらしいことが推察されますが、それは『文武紀』の記事と全く整合しないものです。というよりこの記事は『斉明紀』の「内属」記事と実際には同一の記事なのではないかという可能性を感じます。そう考えれば遡上年数として「三十四年」が措定され、それは『持統紀』の前半他の記事と同様の移動年数となり整合しているように見えます。
この「内属」した「隼人」が「大隅」・「阿多」ではないことは明らかであり、「薩摩」・「肥」の「隼人」であるのは確実と思われます。なぜなら「大隅」・「阿多」は早い段階で倭国の版図に組み込まれたようであり、『書紀』には友好的な雰囲気が描かれているからです。
@「隼人多來貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷。大隅隼人勝之。
「同年同月丙辰条」「多禰人。掖玖人。阿麻彌人。賜祿各有差。」)「天武十一年(六八二年)秋七月壬辰朔甲午条」
A「大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。秦連。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸。」)「天武十四年(六八五年)六月乙亥朔甲午条」
B「僧尼亦發哀。是日。直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事。次直廣肆穗積朝臣虫麻呂誄諸國司事。次大隅。阿多隼人及倭。河内馬飼部造各誄之。」「朱鳥元年(六八六年)九月戊戌朔丙寅条」
C「皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉。於是隼人大隈阿多魁帥。各領己衆互進誄焉。」「持統元年(六八七年)五月甲子朔乙酉条」
D「賞賜隼人大隅。阿多魁帥等三百卅七人。各各有差。」「同年秋七月癸亥朔辛未条」
E「饗隼人大隅。」「持統九年(六九五年)五月丁未朔己未条」
「觀隼人相撲於西槻下。」「同年同月丁卯条」
これらの記事内容から見ても、この「大隅」「阿多」の両隼人グループは早期から友好的であることが理解できます。つまり、「薩摩」(及び「肥」)とは異なり「大隅」「阿多」は「早期」に「倭国王権」に対して「帰順」したものと考えられます。
特に「大隅隼人」の「族長」は「直」や「忌寸」というように「姓」を下賜されるなど「倭国王権」に深く組み込まれていたことがわかります。(これは当然「薩摩隼人」などに対する一種の「分断策」ともいえるでしょう。)
ところで『続日本紀』には「大隅国」の設置記事があります。
「割丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國。割備前國英多。勝田。苫田。久米。大庭。眞嶋六郡。始置美作國。割日向國肝坏。贈於。大隅。姶良四郡。始置大隅國。」「(和銅)六年(七一三年)夏四月乙未条」
ここでは「八世紀」に入ってから(ようやく)「大隅国」ができたように書かれている訳ですが、上に見た「大隅隼人」に対する対応からは、「大隅国」というものの成立が実はもっと早かったとしても別に不思議ではないこととなります。
これに関連して「正木氏」は『続日本紀』中に「大隅国」を設置するために必要な「論奏」記事が見あたらないことを受けて「抹殺」されたとされ、「九州王朝」の終焉と関連して語られました。
確かに『養老令』(公式令)によれば「国」を新たに設置する場合など重要な事案については「大臣」以下の論議を経て奏上されなければならないとされており、「大隅国」に関してはそれに関する記事が欠けているのは事実です。しかし、それは同時に「設置」されたという「美作」「丹後」にも共通するものであり「大隅」だけのことではありません。これらの国々についても「論奏」は行われていないのです。
これについては私見によれば「大隅国」の成立というものの持つ意味あるいは事情というものも、「美作」「丹後」などと同様であったと思われ、もっぱら「実生活」上の利便性の点からのものであったと考えられます。それは「出羽国」の場合とは決定的に状況が異なるものと考えられるものです。
「出羽国」の場合、「蝦夷」などの対外勢力に対する拠点作りをするという趣旨の「論奏」により建てられたことが明記されており、あくまでも「軍事的」事情によると考えられ、全くその経緯が異なると思われます。
(以下「出羽国」設置の論奏)
「太政官議奏曰。建國辟疆。武功所貴。設官撫民。文教所崇。其北道蝦狄。遠憑阻險。實縱狂心。屡驚邊境。自官軍雷撃。凶賊霧消。狄部晏然。皇民無擾。誠望便乗時機。遂置一國。式樹司宰。永鎭百姓。奏可之。於是始置出羽國。」「(和銅)五年(七一二年)九月己丑条」
更にこの「出羽国設置」記事をよく見ると、全く新規に「国」を造るというわけであるのに対して、「大隅」(及び共に造られた「丹後」と「美作」)については「分国」であるとされます。「丹後」の場合は「丹波国」から「五郡」を分割したものであり、「美作」の場合は「備前国」から「六郡」を割いたものです。これらと同様「大隅国」の場合も「日向国」から「四郡」を分割して出来たものであって、その点でも「出羽国」とは全く状況が異なっています。
分割される前の「備前」「丹波」は無論「倭国」にとって旧来からの「安定地域」であり、国境紛争などの問題がありませんでした。それは分割される前の「日向国」についても同様ではなかったかと考えられ、「大隅地域」に紛争があると言うような事情は窺えないものです。
そもそも、「公式令」に規定されているにも関わらず、このような「論奏」が行われて成立したと『続日本紀』に書かれているのは管見する限り「出羽国」だけであり、この例がかなり特殊な事情によるものであったことが推測されます。
そこには「蝦夷」と境を接するような東北の「紛争地域」という特殊事情があったものと見なければならず、そのような条件がない限り、基本的には「国」の設置は即座に「分国」となるわけであり、それが特に軍事的に重要であるとか、地域紛争を招くような事情がなく、反対意見等がない限り、議論にもならなかったと考えられ、そのため「論奏記事」そのものが『続日本紀』中に見られないということとなったのではないかと考えられます。
この「大隅国」(となる地域)が「安定地域」であったという結論は、『書紀』の「大隅」「阿多」の隼人記事を見ても首肯できるものであり、その「帰順」が早期に行われたとすると「戦い」は必要ではないこととなり、そのため「論奏記事」がないということとなったと考えられるのではないでしょうか。
また、「大隅国」に当たる地域が「安定地域」であり「紛争」がなかったと考えられることは即座に、その「大隅国」の成立そのものがもっと早期のことであったのではないかという先の推測が的を得ている可能性も考えられます。
それを窺わせるのが上の「和銅六年記事」に相当する『日本帝皇年代記』の記事です。『続日本紀』では「丹波」と「丹後国」「美作国」と並んで「大隅国」が作られたと書かれていますが、『日本帝皇年代記』の「癸丑(和銅)六」年記事では(以下に見るように)「丹後国」と「美作国」の成立についてしか書かれていません。(但し「丹後国」のために割譲された郡の数が異なりますが)
「癸丑六割備前六郡始為美作国、割丹波六郡為丹後也、唐玄宗開元元年 稲荷大明神始顕現」
つまり「大隅国」成立については触れられていないのです。このことは『続日本紀』の「大隅国」成立記事が真実か疑わしいこととならざるを得ないものです。
そもそも「大隅直」というような人物の存在は「大隅」という地域の代表者とも言うべき存在が「倭国王権」の一端に存在している事を示しますから、この段階で「大隅国」があったとしても不思議ではないこととなります。それを示すのが「七〇〇年」に起きた「薩摩」「肥」の反乱記事であり、そこには「評」という制度が顔を出しています。「薩摩」は「大隅」よりはかなり「倭国王権」に対して反抗的であったわけであり、そのような場所にも「評制」が施行されていたとすると、「大隅」に「評制」が施行されていないというのははなはだ考えにくいこととなります。
「評制」が施行されているとすると、(「国制」が「評制」に遅れるのは確かではあるものの)その「評」は「国」の下部組織となったわけですから、「大隅国」というものの存在が強く示唆されることとなるでしょう。
ところで、この『文武紀』の「薩摩・肥後」反乱記事について「七世紀半ば」に遡上させて考えるべきとした場合、その年数を考慮すると、鍵になるのは(五)段階でしょう。ここでは「倭国王」の「葬儀」に「薩摩隼人」が参加していないことがわかります。つまり、この段階ではまだ「全面降伏」していないと考えられ、それは「三十四年」程度の遡上を考慮すると「六五二年」付近で「未服」であったことを意味します。
それに対して、「持統三年」(六八九年)という段階では上に見るように「大量」の人員と「貢納物」を「太宰府」が転送しており、これは「六五五年」の「内属記事」につながると見られますから、「征討軍」が送られたという「七〇二年記事」は少なくとも「四十七年」以上の遡上が推定されるものです。
このことを踏まえた上で考察すると、「大隅直」に対して「忌寸」姓を授与したのもこの「薩摩」「肥」の征伐との関連が考えられ、それと時期が前後している可能性が高いと思料されます。
「倭国王権」はこのように「硬軟」織り交ぜて「隼人」(同時に「北方の蝦夷」にも)との「交渉」と言うより、彼らに対する「圧力」を高めていったことが理解されるわけです。
また、これと同時期に「鞠智城」が整備されたと考えられる事を考慮に入れると、これに代表される「南九州(薩摩・肥後)」勢力に対する「倭国王権」の姿勢はかなり「強硬」であったと思われますが、それは「半島情勢」との関連の中で考察すべきものと思われます。
つまり、「隼人」と彼らの居住地域を早期に「倭国」領域に「編入」し、「安定支配地域」とすることが急がれていた背景が存在するものと考えられ、この記事はそのような情勢を反映したものと考えることもできると思われます。
(この項の作成日 2012/08/03、最終更新 2015/08/14)