『続日本紀』には「貨幣」鋳造に関する「官司」の設置について以下のように複数の記事があります。
@「(持統)八年「六九四年」三月甲申朔乙酉(二日)条」「以直廣肆大宅朝臣麻呂。勤大貳臺忌寸八嶋。黄書連本實等拜鑄錢司。」
A「(文武)三年(六九九年)十二月庚子(十六日)条」「始置鑄錢司。以直大肆中臣朝臣意美麻呂爲長官。」
B「和銅元年(七〇八年)二月甲戌条」「始置催鑄錢司。以從五位上多治比眞人三宅麻呂任之。…」
このうちAの「文武三年記事」には「始置」という言葉が使用されています。この「始」という言葉は、一般に「物事の開始」を指すと思われ、それは『続日本紀』に頻出する「始」の他の用法を見ても同様です。
全ての例を挙げることはできませんが、それらを見ると明らかに「何か」の始まりを示す用法しか確認できず、それ以前には「なかった」という意味としか受け取れません。しかし、@に拠ればそれ以前に「拜鑄錢司」として「鑄錢司」を担当する官人が任命されており、このことは上に見る「鑄錢司」記事とは明らかに「矛盾」するものであると考えられます。
この「始めて」については「多元史観論者」の多くが「近畿王権」ないしは「新日本国王権」としては「始めて」、というように理解していますが、そう考えるだけが「唯一」の答えではないと思われます。
これがもし「近畿王権」ないしは「新日本国王権」にとってではなく「倭国」として「始めて」であるとすると、『続日本紀』と『書紀』には「大幅な」年次移動が行われたこととなりますが、それが「妄想」でないのは『日本紀』の存在からも裏書きできます。
既に見たように『書紀』に先立って『日本紀』が存在していたと考えられ、それが「現行」の『日本書紀』とは異なる内容であったことが推定される訳ですが、その『日本紀』がまだ存在していた時点で『続日本紀』が編纂されていると見られる訳です。このことは「現行」の『続日本紀』と「初期」『続日本紀』の内容が異なることを推定させるものです。なぜなら『書紀』と『続日本紀』は「連続」しているからです。その「連続」する「相手(書紀)」が異なるのであれば、『続日本紀』の方も「現行」とは異なるものが当初存在していたこととならざるを得ません。そう考えれば『書紀』も『続日本紀』も「現行」とは異なるバージョンがあった事となりますが、それは必ず「現行バージョン」の中にその影を落としているはずであると思われ、それが『続日本紀』中の「始めて」という表現として残留しているのではないかと考えられるものです。
つまり『続日本紀』に「始めて」記事が出てくるのはそれが当初『日本紀』の中にあった記事であるためであり、『続日本紀』として「再編纂」された段階でそれが記事中に「遺存」したと見られることとなります。
それを踏まえると、上に見た「鋳銭司」記事は「本来」『初期日本紀』の中に現れるものであり、「倭国」としての「始めて」という記事であったという可能性が考えられるでしょう。それを示すように『続日本紀』中には実に多量の「始めて」記事があります。まるでその前代に始められたことは何一つないのではないかと思えるほどです。
しかし、個々の例を解析してみると、そこに書かれた時代(年次)をはるかに遡る時期にそれが始められて全く不合理でもなく不自然でもない例が多数に上ることが判ります。この「鋳銭司」記事も同様であると思われます。なぜかと言えば「富本銭」が「七世紀代」に「倭国王権」により鋳造され、流通していたことは確実と考えられるからであり、そうであれば「鋳銭司」が「七世紀代」に設置されて全く不審はないはずのものだからです。
確かに『書紀』『続日本紀』を通じて「富本銭」(及びその前の「無文銀銭」も)は現れません。それは明らかに隠蔽されていることを示します。そうであれば「富本銭」の鋳造を行っていた「官司」も同様に隠蔽ないしは「偽装」されていると考えるべきでしょう。そして『続日本紀』に「始めて」という形で「鋳銭司」が現れるとするならば、それは「隠蔽」ないしは「偽装」された「富本銭」に関わるものという理解も可能なのではないでしょうか。
この点を踏まえて記事を眺めてみると、上に見た記事の時系列の不審は「隠蔽」工作の一端が露出していると考えられるものです。
ところでBの例では「鋳銭司」に「催」という字が前置されていますが、「続紀」の以下の例によっても、ここでは「鋳銭司」の「長官」的意味があるようです。
「天平二年(七三〇年)九月壬子朔戊寅条」「正四位下葛城王。從四位下小野朝臣牛養。任催造司監。本官如故。」
「天平四年(七三二年)二月甲戌朔乙未条」「中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍朝臣廣庭薨。右大臣從二位御主人之子也。」
つまり「鋳銭司」をここで始めて定めたのではなくその長官としての「催鋳銭司」というものをここではじめて定めたというのでしょう。つまり「役職」であり、「官司」そのものではないこととなります。言い換えれば「鋳銭司」はすでに存在していたものであり、その「専門役職」として「催鋳銭司」という官職を新たに設置した、というものと推測されます。つまりこれが@とAの後に来ているのは矛盾がないこととなります。
以上から考えると、Bは別として少なくとも@とAは時系列的に矛盾していることになると考えられます。
また、@記事で「鋳銭司」の官人として任命されている中には「責任者」と思しき人物が書かれていません。三人の名前が書かれていますが、特に誰かが「長官」というわけではなさそうです。これに対しA記事では「長官」だけが書かれています。
「鋳銭司」等の官司を設置する場合は、まずその「長官」たる人物を任命し、その後彼の「手足」として働く者達をそこに配置するという手順が一般的のようです。この「鋳銭司」においても「長官」が先に決められたものであり、その後部下となるべき三人が拝命したと言うことと推察されます。
以上のことから『持統紀』後半記事と『文武紀』記事については矛盾があり、年次の移動があることと、その年数が各々で異なることが推定される事となります。
ところで『天武紀』にある「銅銭」記事(以下のもの)についても「年次移動」の対象ではないかと考えられます。
「(天武)十二年(六八三年)夏四月戊午朔壬申(十五日)条」「詔曰自今以後必用銅錢莫用銀錢」
これらの記事は一般には『天武紀』のものと信じて疑われていませんが、「年次移動」の対象である可能性は極めて高いものと思料します。その場合、本来の年次としては(三十五年移動が適用されるならば)「六四八年」というものが想定され、これは「難波」遷都というイベントで消費した「銀銭」の枯渇を想定した「詔」であると考えられ、「無文銀銭」に代わって「富本銭」を使用するようにという記事であると考えられます。(「難波宮」至近から「富本銭」が出土する意味もそこにあると考えられ、この場所に「鋳銭司」が存在していたことを推定させます)
この段階で既に「富本銭」は「無文銀銭」の下位貨幣としての機能を持っていたと考えられ、共に並行して使用されていたと考えられますが、この時点でそれを止め「銅銭」だけを使用するようにという政策に転換したものと考えられます。
本来、「鋳銭司」が設置されるためにはその「原材料」が確保され、さらにそれを使用して「貨幣」を鋳造するための「技術」と「貨幣」についての種々の検討とそれに基づく「戦略」が整っていなければなりません。『天武紀』の「詔」にあるように、今後は「銅銭」を使用するように、という内容からは、これらのことが既に解決し、銅銭が鋳造され、ある程度出回っているという現実が存在していることを想定する必要があります。
この「鋳銭司」が「富本銭」に関わるものであると考えると、この「銀銭使用停止記事」は「三十四年遡上」を考慮すると実際には「六四九年」の「四月」記事であったと思われるわけですから、『文武紀』の「鋳銭司」が設置され「長官」が任命されたという記事は「それ以前」の時期を想定する必要が出てくるでしょう。
つまり時系列としては「鋳銭司」の「長官」記事があり、その後「官人」が配置され、さらにその後「銀銭使用停止」があったと考えるべきこととなるわけですが、このうち「銀銭使用停止」が「六四九年」であるとすると、当然「長官」の任命と「官人」の配置はそれを遡上することとなります。
既に見た「婦女子」の髪型の変更記事に準じて、この移動年数を「五十七年」と仮定すると、「六四二年」には既に「鋳銭司」が「設置」「任命」されていたと考えられることとなります。それは「銀銭使用禁止の詔」の「七年」ほど前になり、「銅銭」の流通がある程度めどがつく期間としては想定されうるものであり、時期として整合していると言えそうです。
また、『持統紀』にある「拝鋳銭司」記事(「六九四年」)は、この「始置鑄錢司」と同じ年数だけ遡上しないと思われます。そうでなければ「始」という文字の持つ「矛盾」が解消されないからです。この記事の本来の年次は「六四二年以降」であると思われ、「遡上年数」としては少なくとも「五十二年」以上ではないこととなるでしょう。つまり「始置鑄錢司」記事の後に「拝鑄錢司」記事がくるべきですから、その場合想定可能なものは「五十年」付近の数字が考えられます。(四十七年か)それは後で見る「田中朝臣法麻呂」の官位の変遷から見ても妥当といえます。
このように想定した場合「始」という意味が明確になると共に@記事で担当の官人が任命されているにも関わらずその「長」たる人間について言及がないという不審も解消します。
(この項の作成日 2012/08/03、最終更新 2014/06/06)