ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『続日本紀』に見える記事移動にについて:

「田中法麻呂」の「喪使」として「新羅」派遣について


 「田中朝臣法麻呂」という人物が『書紀』と『続日本紀』に登場します。彼は「倭国王」の「死去」という事態において、「新羅」へ「喪」を知らせる「喪使」として派遣されたものであり、その派遣は「六八七年」のこととされています。

「(持統)元年(六八七年)春正月丙寅朔条」「皇太子率公卿百寮人等適殯宮。而慟哭焉。納言布勢朝臣御主人誄之。禮也。誄畢。衆庶發哀。次梵衆發哀。於是奉膳紀朝臣眞人等奉奠。々畢膳部。釆女等發哀。樂官奏樂。
「同月庚午条」「皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉。梵衆隨而發哀。」
「同月甲申条」「使直廣肆田中朝臣法麻呂。與追大貳守君苅田等。使於新羅赴天皇喪。」

 また、その帰国は二年後のことであったとされています。

「(持統)三年(六八九年)春正月甲寅朔辛酉条」「遣新羅使人田中朝臣法麻呂等還自新羅。」

 この時「田中朝臣法麻呂」より「喪」を告げられた「新羅」は「倭国王」の死を弔うために「弔使」を派遣します。

「(同年)夏四月癸未朔壬寅条」「新羅遣級■金道那等奉弔瀛眞人天皇喪。并上送學問僧明聡。觀智等。別獻金銅阿彌陀像。金銅觀世音菩薩像。大勢至菩薩像。各一躯。綵帛錦綾。」

 そして、その「弔使」に対して「倭国王」が「抗議」の「詔」を出す場面が出てきます。

「(持統)三年(六八九年)五月癸丑朔甲戌条」「命土師宿禰根麻呂。詔新羅弔使級■金道那等曰。太正官卿等奉勅奉宣。二年遣田中朝臣法麿等。相告大行天皇喪。時新羅言。新羅奉勅人者元來用蘇判位。今將復爾。由是法麻呂等不得奉宣赴告之詔。若言前事者。在昔難波宮治天下天皇崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。■金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。又於近江宮治天下天皇崩時。遣一吉■金薩儒等奉弔。而今以級■奉弔。亦遣前事。又新羅元來奏云。我國自日本遠皇祖代並舳不干楫奉仕之國。而今一艘亦乖故典也。又奏云。自日本遠皇祖代。以清白心仕奉。而不惟竭忠宣揚本職。而傷清白詐求幸媚。是故調賦與別獻並封以還之。然自我國家遠皇祖代。廣慈汝等之徳不可絶之。故彌勤彌謹。戰々兢々。修其職任。奉遵法度者。天朝復益廣慈耳。汝道那等奉斯所勅。奉宣汝王。」

 この「金道那等」に対する抗議の「詔」において、「在昔難波宮治天下天皇」の「崩御」に際して「巨勢稲持」が「喪之日」を知らせる為に「新羅」に行った際、「金春秋」が「奉勅」したと書かれており、その「肩書き」が「翳餐」とあります。これは「新羅」の官位にあるものであり、十七階中第二位のものです。しかし、この「在昔難波宮治天下天皇」が「孝徳天皇」を示すとすれば、彼は「六五四年十月」に亡くなったわけであり、その「喪」を告げる使者はその後派遣されていることとなりますが、それに対して「金春秋」は、それ以前の「六五四年三月」には既に先代の「真徳女王」が死去した後、「新羅国王」の地位を継承しています。(『三国史記』による)つまり「喪使」が「新羅」に来た段階ではすでに「金春秋」は「国王」になっているわけであり、その時点で「翳餐」という「第二位」の官位を持っている「官人」であったとするこの『書紀』の記事とは大きく食い違うこととなります。
 このことは、この時「巨勢稲持」が死去を伝えたのは「孝徳天皇」ではない、ということを示すと考えられます。そうであれば、「巨勢稲持」は誰の喪使として新羅に向かったのかと言うこととなりますが、「孝徳」の在位時代を遡上するのは間違いなく、該当する人物は『隋書俀国伝』に「倭国王」の太子とされた「利歌彌多仏利」である可能性が高いものと思われます。
 そう考えると「根麻呂」の「詔」自体が既に指摘したような約「五十年」程度の遡上を考慮するべきこととなりますから、この詔の本来の年次は「六三九年」付近の出来事となり、「田中法麻呂」が「喪使」として新羅に向かったのがその二年前と考えられるわけですから、「六三七年」の「正月」のことと推察されますが、更にそのことから、「倭国王」の死去はその前年の「六三六年」のことではなかったかと考えられることとなります。
 このような推測があながち荒唐無稽とはいえないと思われるのは、『新唐書日本伝』に「孝徳」に関する事として「白雉改元」即位とあり、その後「未幾孝徳死」という文章があることです。

 『新唐書日本伝』には「歴代」の「天皇名」が列挙されており、それを見ると「皇極」と「孝徳」の間に唐側が保有していたと思われる資料により対照された記事を「注」として書き込んでいるように見えます。その後「未幾孝徳死」という言葉につながります。しかも「孝徳」は「永徽初」(六五〇年から二-三年の範囲と思われます)に「白雉改元」と「即位」が同時であるように書かれ、その直後にその「未幾~」記事が置かれていますから、この時の「孝徳」は「六五二年」付近で死去したことを推定させます。
 この「未幾」(幾ばくもなく)という言葉は、その『新唐書』内の多数の使用例からの帰結として、「一年以内数ヶ月」の時間的範囲を示すものであることからも「改元」直後に死去したことが窺えるものです。
 つまり、「六五三年」には「新倭国王」(『親唐書日本伝』によれば「天豊財」とされています)が即位していたこととなりますが、そのことと関連しているのが、『書紀』では同じ年(「白雉四年」、ただしこれは九州年号白雉とは二年ズレがある)に遣唐使が送られていることです。
 それ以前の「遣唐使」派遣は「二十年以上」も前の話であり、「高表仁」とのトラブル以来途絶えていましたが、「前々倭国王」の死去の際に「前倭国王」が「金春秋」に仲介を要請し、「唐」に「表」を提出していました。そして、今度はその「前倭国王」が(幾ばくもなく)死去してしまい、それを継承した「新倭国王」により本格的な「唐」との正式国交を目指すこととなったものと推量します。
 
 この時「新羅」から「喪使」(真徳女王の死を伝えるもの)が「来倭」することとなるわけですが、これは実は「田中法麻呂」の帰国に同行したのではないかと思われ、共に「六五五年正月」に倭国の地に到着したと考えられます。そして「田中法麻呂」は「朝廷」に帰国報告を行い、「喪使」達は「新羅国王」の「死去」を伝える「表」を奉ったということと推量します。
 この「新羅」からの「真徳女王」の死去とそれに伴う「喪使」についてはその時点では『書紀』に何も書かれておらず、これは不審であるわけですが、『続日本紀』の「大宝三年」に「新羅」から「喪使」が来倭した記事が存在しており、この記事については以下の不審があると思われます。

「新羅國遣薩■金福護。級■金孝元等。來赴國王喪也。…」「大寳三年(七〇三年)春正月癸亥朔辛未条」

「大赦天下。饗新羅客于難波舘。詔曰。新羅國使薩■金福護表云。寡君不幸。自去秋疾。以今春薨。永辞聖朝。朕思。其蕃君雖居異域。至於覆育。允同愛子。雖壽命有終。人倫大期。而自聞此言。哀感已甚。可差使發遣弔賻。其福護等遥渉蒼波。能遂使旨。朕矜其辛勤。宜賜以布帛。」「同年閏四月辛酉朔条」

 この二つの記事は「新羅王」の死去を知らせるために来着した「使者」についてのものですが、ここで「新羅使」が持参した「表」の中で「新羅王」について『去年』の秋から具合が悪かったが、『今年』の春になって死去した」という意味の事が記されていたとされます。これについて「大系」の「注」では『この表は、正月に来着した使者が持参したものであるから、「去秋」は七〇一年、「今春」は七〇二年をいうが、七〇二年七月に没したとする三国史記新羅本紀の記述と異なる』とされ、疑義を呈しています。つまりこの時の死去した「新羅王」は「孝昭王」であると理解されるわけですが、彼の死去した年次及び季節として以下のように『三国史記』に書かれたものと、「新羅使」が持参した「表」に書かれた内容が異なっているというわけです。

「(孝昭王)十一年 秋七月 王薨 諡曰孝昭 葬于望德寺東 舊唐書云 長安二年理洪卒 諸古記云 壬寅七月二十七日卒 而通鑑云 大足三年卒 則通鑑誤」

 これは一種「謎」のわけですが、これについても「七世紀半ば」の記事がここに移動されて書かれていると考えた場合、整合的に理解できると思われます。

 『三国史記』によると「春」に死去した「新羅王」は以下の三名しかおりません。

「(真平王)五十四年(六三二年)春正月 王薨 諡曰眞平 葬于漢只 唐太宗詔贈左光祿大夫賻物段二百 古記云 貞觀六年壬辰正月卒 而新唐書 資理通鑑皆云 貞觀五年辛卯 羅王眞平卒 豈其誤耶」

「(善徳女王)十六年(六四七年)春正月 曇・廉宗等謂 女主不能善理因謀叛擧兵不克 八日 王薨 諡曰善德 葬于狼山 唐書云 貞觀二十一年卒 通鑑云 二十二年卒 以本史考之 通鑑誤也」

「(真徳女王)八年(六五四年)春三月 王薨 諡曰眞德 葬沙梁部 唐高宗聞之爲擧哀於永光門 使太常丞張文收持節吊祭之 贈開府儀同三司賜綵段三百 國人謂始祖赫居世至眞德二十八王 謂之聖骨 自武烈至末王 謂之眞骨 唐令狐澄新羅記曰 其國王族 謂之第一骨 餘貴族第二骨」

 つまり、このうちの誰かの記録を「意図的に」『文武紀』に移動して書いてあると考えられるわけですが、「真徳王」の場合は「四十八年移動」となり、「善徳王」であった場合は「五十五年移動」となります。(「眞平王」は「七十年」)

 ところで、上に見たように『文武紀』の記事の一部については「五十七年」ないし「五十五年」の年次差で「移動」されていると考えたわけですが、これらの「新羅王」の死去した年次はそれに該当するものがありません。上の「田中臣」派遣の年次から考えて該当するのは「真徳女王」であると思われますが、その場合「彼女」は「六五四年春」に死去したわけですから、「遡上年数」として「四十八年」となります。
 この「食い違い」は、「八世紀」のこの付近の年次で「死去」した「新羅王」が「孝昭王」だけであり(前後の「新羅王」の死去した年次は何十年も離れています)、その年次に「合わす」必要があった事から発生していると思われます。
 「年次移動」は「対外史料」との食い違いは避けなければならず(他の記事と違って移動という「操作」が明らかになってしまいやすい)、そのため一律的な年次移動が叶わない場合があったものでしょう。

 また、この時の「倭国王」は「新羅」の使者に対してかなり友好的な取り扱いをしている様に思えます。そこでは、心のこもった「詔」を出すと共に彼らを慰労し、「弔使」を派遣することを決め、また彼らに「褒美」の品を与えています。(ただし「弔使」としてだれが派遣されたのかが記録にありません)
 これ以前(「六五一年」)には「新羅」からの使者を「唐服着用」という理由で追い返す事件が起きており、ある意味「強硬的」方針で「新羅」と対していたはずと思われていますが、この「倭国王」の対応はかなりソフトです。その理由としては「新倭国王」となったための外交方針の変更という部分が大きかったものと思われ、「新倭国王」としてはここで「新羅」と軋轢を作りたくなかったという事情があったものと思われます。

 このように友好的雰囲気のうちに「新羅喪使」は帰国します。

「大寳三年(七〇三年)」五月壬辰(二日)。金福護等還蕃。…
癸巳(三日)。流來新羅人付福護等還本郷。」

 彼らが倭国を離れるのに前後して、「新羅」からは今度は「倭国王」に対する「弔使」が訪問したものです。

「(持統)三年(六八九年)夏四月癸未朔壬寅(二十日)条」「新羅遣級■金道那等奉弔瀛眞人天皇喪。并上送學問僧明聡。觀智等。別獻金銅阿彌陀像。金銅觀世音菩薩像。大勢至菩薩像。各一躯。綵帛錦綾。」
「同年五月癸丑朔甲戌(二十二日)条」「命土師宿禰根麻呂。詔新羅弔使級■金道那等曰。太正官卿等奉勅奉宣。二年遣田中朝臣法麿等。相告大行天皇喪。時新羅言。新羅奉勅人者元來用蘇判位。今將復爾。由是法麻呂等不得奉宣赴告之詔。若言前事者。在昔難波宮治天下天皇崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。■金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。又於近江宮治天下天皇崩時。遣一吉■金薩儒等奉弔。而今以級■奉弔。亦遣前事。又新羅元來奏云。我國自日本遠皇祖代並舳不干楫奉仕之國。而今一艘亦乖故典也。又奏云。自日本遠皇祖代。以清白心仕奉。而不惟竭忠宣揚本職。而傷清白詐求幸媚。是故調賦與別獻並封以還之。然自我國家遠皇祖代。廣慈汝等之徳不可絶之。故彌勤彌謹。戰々兢々。修其職任。奉遵法度者。天朝復益廣慈耳。汝道那等奉斯所勅。奉宣汝王。」

 「四月」に「新羅」からの「喪使」に対して「ねぎらいの詔」が出され、彼等はその月に帰国しています。そして、「弔使」である「金道那」達への「抗議」の詔は「五月」に出されたものであり、微妙に時期を変えて出されたものです。これは「田中法麻呂」から「新羅」の対応を詳しく聞いた結果、「喪使」と「弔使」への対応を変えたものではないでしょうか。(但し、この抗議にしても最後には「天朝復益廣慈耳」とされ、「敵対」を強調したものとはなっていません。)


(この項の作成日 2013/01/17、最終更新 2015/08/14)