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「造船記事」と「惣領記事」


 『文武紀』に「周防国」で「船舶」を建造するという記事があります。

「(文武)四年(七〇〇年)冬十月庚午条」「遣使于周防國造舶。」

 この記事について、これがどのような船舶の建造なのかが全く書かれていません。遣唐使船なのか軍艦なのかその目的などが書かれていませんが「舶」というのは「外洋船」を指す場合がほとんどですから、かなり大型の船である可能性が高いと思料されます。この時代であればそれは「遣唐使船」であるという可能性が高くなりますが、「慶雲元年」に派遣された「遣唐使船」については以下のように記事があります。

 「丙申。授船号佐伯從五位下。入唐執節使從三位粟田朝臣眞人之所乘者也。」

 ここでは、遣唐使船に「佐伯」という名前と「官位」が授けられていますが、そのことは「佐伯氏」により製造されたあるいは「佐伯氏」の本拠で製造されたなど「佐伯氏」との関係が考えられますが、「佐伯氏」は「軍事」部門に関係していた氏族であり、これが「軍船」であれば納得できるものです。
 この時「周防」で建造された「舶」が「外洋」航行が可能な「軍船」という性格があったとすると、そのようなものが建造されるべき必然性がこの時点では稀薄であることは間違いないと考えられます。そのような「軍事」的脅威は「六〇〇年」に「隋」の皇帝から「宣諭」されるという事件の後「琉球」が「隋」の侵攻を受けた時点以降高まったものでありまたさらにはその後「唐使」「高表仁」が「激怒」して帰国するという事件以降もまた「軍事的緊張」が高まったといえるでしょう。ほかにも当然「白村江の戦い」に至る時代には圧力は非常に強力であり、それらの時代であれば「軍船」建造の必要性は当然高かったものと考えられ、他方「白村江の戦い」以降「半島」が「新羅」に統一され「唐」が軍事力を唐国内に引き上げた後は「倭国」に対する「軍事的脅威」はほぼ消えたものと思われ、そのような時期であれば「軍船」の建造を行うべき積極的理由が見あたらないこととなります。つまり明らかに「七〇〇年」段階における「船舶建造」の必要性などよりも圧倒的に「七世紀代」半ば以前段階の方が「切迫性」が高かったと考えられるわけです。そしてそれと関連していると見られるのが『天武紀』の以下の記事です。

「(天武)十四年(六八五年)十一月癸卯朔甲辰条」「儲用鐵一萬斤送於周芳惣令所。是日。筑紫大宰請儲用物。■一百疋。絲一百斤。布三百端。庸布四百常。鐵一萬斤。箭竹二千連送下於筑紫。」

 ここでは「周防惣令(惣領)」に対して「鐵一萬斤」が送られています。(筑紫にも同様に送られています)これらの記事は「三十五年遡上」の対象記事と考えられ、実際には「六五〇年」のことであったと推定されますが、ここで送られた「鐵」と上の「文武四年」の「船舶建造」記事が関係していると考える事ができるのではないでしょうか。

 この当時の船の構造については、その詳細は不明ではあるものの後代の資料から考えると「角材」を「鉄片」でつなぎ合わせる構造であったのではないかと考えられ、大量の「鉄」が必要であったものと思われます。
 ちなみに、この「鐵一萬斤」という量は、「一斤」を六六〇グラム程度と考えると総量六六〇〇キログラムほどとなりますから、これは約一メートル角に匹敵する鉄の塊の重量と想定できます。これを「厚み一ミリ程度」に圧延すると仮定した場合、一〇〇〇平方メートルほどの広さになり、非常に多量の鉄片が製造できることとなります。(あまり厚いと加工がしにくくなるでしょう)これほどの量の「鉄」は、やはりかなりの大きさの物体に対して使用するものと考えられ、船舶製造というのはその意味でも蓋然性の高い想定と思われます。

 この『文武紀』の記事においては、「船舶」の建造をすると言う事になっているわけですが、それには「材料」が必要であり、「木材」と「鉄材」の双方をまず集めなければなりません。そして、それを加工した後「船」として組み上げるという工程になるわけであり、この場合それらの工程の「起点」となるものは「作るように」という指示が上から出される必要があります。『文武紀』の記事はよく見ると「船舶」を作ったのではなく、作るようにという指示が使者により届けられたというように読み取れるものであり、ここで「建設開始」に「GO」がかかったと見られることとなります。そう考えると『天武紀』の「周芳惣令」に「鐵」を送ったというのは、それ以降のこととなるわけであり、五十年程度の遡上を想定する必要があるでしょう。それに関連しているのが「惣領記事」です。

 ここに出てくる「惣領」については以下のように『文武紀』に各地への任命記事があります。

「文武四年(七〇〇年)冬十月己未条」「以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。」 

また、以下の記事中にも「竺志総領」が登場します。

「文武四年(七〇〇年)六月庚辰条」「薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅『竺志惣領』。准犯决罸。」

 これらの記事についてはやや意味不明なところがあります。それはこれが書かれた「七〇〇年」という段階では、これらの地域にそのような人材と組織を設置する(しなければならない)必要性に欠けるのではないかと考えられるからです。
 ここに書かれた「惣領」とは『常陸国風土記』や「伊予惣領」という「田中法麻呂」記事にもあるように「複数」の「令制国」を統括するような強い「権能」を持った「職掌」であり、「倭国中央」の意思を代行する立場の人間であったと考えられますが、『大宝令』施行の「前夜」とでも云うべきこの時期に「地方」にこのような強い権力を持った人材を複数配置するということは、当時強力に進めようとしていた「中央集権化」というものとかなり逆行する動きであり、このタイミングでは「そぐわない」と云えるのではないでしょうか。
 しかし、これが「難波朝」時代であるとすると、「副都難波」から見て「西側」にそのような組織と人材を置くのは、政治的と云うより軍事的意味合いからも必要であったといえると思われます。

 本来「総領」(惣領あるいは惣令とも)は「利歌彌多仏利」以降「辺地」の要所に設置された半ば軍事的組織(役職)と考えられますが、「難波朝」以降「官道」の整備が進捗するのに従い、「副都」難波の「前面」を防衛するために「山陽道」と「南海道」を主に設置され、「評督」の「上部組織」として機能していたのではないかと考えられます。つまり、この時点の「総領」は「軍事」的ウェイトが高いものであり、それを示すものが「周芳惣令」の例であると思われます。
 「周芳惣令」の例は上でも見たように「三十五年遡上」の対象と考えられ、実際には「六四八年」の事であったと思われ、ここでは大量の「鐵」の支給を受けています。これが上で推察したような「船舶」に関するものであると考えるとまさにそれは軍事目的であり、そのことは「周芳惣令」の存在意義がそのような性格であることを強く示唆するものです。
 また、『持統紀』に「伊予惣領」も出てきますが、これも同様に「三十五年遡上」の対象と考えられ、これは「六五四年」の事実と推定されます。

「六八九年」三年秋八月辛巳朔辛丑条」「詔伊豫總領田中朝臣法麿等曰。讃吉國御城郡所獲白燕。宜放養焉。」

 ここでは「讃吉國」(「讃岐」)から「報告」された「瑞祥」に対して、「伊予総領」にその後の「ケア」を指示しています(放し飼いにするようにという「勅」)。この事は「伊予総領」の「管轄範囲」とでもいうべき領域が「伊予」だけではなく「讃岐」など他の「南海道」の「複数」の令制国を含む徴証と言えます。
 また、上の「竺志惣領」記事についても同様に「難波朝」期で矛盾はなく、これは「評督」の上部組織(役職)であり、「筑紫」に軍事の組織(軍制)の頂点に位置する存在として設置されたと考えられる「都督」の直属部下ではないかと思料されます。
 
 また、この記事中には「常陸」だけが「惣領」ではなく「守」になっていますが、それは「我姫」には既に「惣領」が配置されているためであると考えられます。
 『常陸国風土記』には「惣領」として「高向臣」「中臣幡織田連」の二人の存在が書かれており、他の地域に先行して人員が配置されていたと見られます。このことと上に見た「文武四年」記事で「常陸」だけが「惣領」ではないことは関連していると考えられるものです。

 また、「吉備惣領」であったとされる「石川王」は『書紀』では「六七九年」に「吉備太宰」として死去しています。

「天武八年(六七九年)三月辛巳朔己丑条」「吉備大宰石川王病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」

 この記事について彼の父である「難波王」の実年代が「六世紀末」に想定できることから、その息子である「石川王」が「六七九年」まで存命していたとは(しかも官職にあったまま)とうてい考えられないこととなりますから、ここに出てくる「天武八年」というのが通常考えられる「六七九年」ではないことはほぼ自明と考えられます。そうであれば、復元可能な実年代としては「七世紀」の前半から半ば程度までが活躍期間ではないかと考えられ、「三十五年遡上」して「六四四年」のことという解釈が最も妥当であると思われます。そして、その時点で「吉備」には「大宰」がいたこととなります。
 この「石川王」は「総領」であったという記事(風土記)と「太宰」であったという記事とがあるわけですが、死去した時点では「太宰」であったというわけですから、明らかに「制度」の前後関係としては「総領」から「太宰」へと変更になったことが窺えます。
 またここでは「惣領」と「大宰」とが等しい職位として位置づけられていると思われます。それは「筑紫」について「惣領」と「大貳(大弐)」が任命されている事からも窺えると思われます。
 この「大貳(大弐)」という職位は「太宰」についてのものと同様であり、「惣領」が「太宰」と同義で使用されているらしいことが推測できます。
 そうすると「大宰」であった「石川王」の「後任」として「直廣參上毛野朝臣小足」が「惣領」として選ばれたこととは考えられないこととならざるを得ません。その場合「石川王」の死去した年次よりこの「吉備惣領任命記事」は遡上することとなります。つまり「七〇〇年」の「惣領任命」記事は「五十五年」以上遡上すると考えざるを得ないこととなります。さらにそれ以前に「石川王」が「総領」であった時代があるわけですから、これをも遡上する年次が想定すべきこととなり、やはり「干支一巡」程度の遡上年数を想定する必要があると思われます。(五十七年か)
 そうであれば「六四〇年」付近に「総領任命記事」がおかれるべきこととなって、それはすでに見た「日本国」への禅譲が行われたと見られる年次に相当することとなって、その意味では整合しているといえるでしょう。


(この項の作成日 2012/08/03、最終更新 2015/08/25)