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民部省と大蔵省の地位の差


 『書紀』の「朱鳥元年」に「天武」の葬儀の記事がありますが、そこで各官庁を代表して「誄」が奏せられているのを見るとそこに「序列」のようなものがあるのに気がつきます。
(以下関係記事)

「平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。
乙丑。諸僧尼亦哭於殯庭。是日。直大參布勢朝臣御主人誄太政官事。次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事。次直大肆大三輪朝臣高市麻呂誄理官事。次直廣參大伴宿禰安麻呂誄大藏事。次直大肆■原朝臣大嶋誄兵政官事。
丙寅。僧尼亦發哀。是日。直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事。次直廣肆穗積朝臣虫麻呂誄諸國司事。次大隅。阿多隼人及倭。河内馬飼部造各誄之。
丁卯。僧尼發哀之。是日百濟王良虞代百濟王善光而誄之。次國々造等随參赴各誄之。仍奏種々歌舞。」「(六八六年)朱鳥元年九月戊戌朔甲子条」

 これで見ると二日目以降各官庁の責任者が「誄」を行っているわけですが、それを見ると「太政官」に始まり「法官」「理官」「大蔵」「兵政官」と続いて二日目が終ります。さらにその翌日は「刑官」から「民官」「諸国司」「地方の夷蛮地域の代表者」と「馬飼部」という下級官というように「誄」が次々と進められていっています。これらの順序がある原則に基づいているのは確実です。
 例えば、初日は明らかに「宮中」あるいは「倭国王」の側近関係の「誄」が行われ、二日目以降各官庁の代表者が誄を行なう訳ですが、「直大参」「直広参」「直大肆」「直広参」「直大肆」と続き、その翌日になると「直広肆」から始まり、「直広肆」「直広肆」と続いてそれ以上の冠位を持つものが現れません。この「冠位」から考えても、また誄の順序から考えても「官庁間」の中では「刑官」「民官」が低く扱われているということが窺えます。
 しかし、『養老令』を見てみると、民部省とその所管の官庁の職掌としては以下に見るようにかなり広範な機能が割り当てられているのが判ります。

「職員令 民部省条(途中省略)「掌。諸国戸口名籍。賦役。孝義。優復。b免。家人。奴婢。橋道。津済。渠池。山川。藪沢。諸国田事。」
「職員令 主計寮条(途中省略)「掌。計納調及雑物支度国用勘勾用度事。」
「職員令 主税寮条(途中省略)「掌。倉廩出納。諸国田租。舂米。碾磑事。」

そのうち「庸」についていえば一部である「布・綿」は後に「大蔵省」で保管されるようになります。
(以下関係記事)

「…又收貯民部諸國庸中輕物■絲綿等類。自今以後。收於大藏。而支度年料。分充民部也。」「(七〇六年)三年春正月丙子朔戊午条」

 これ以降「庸中輕物」については「大蔵」へ収めることとなった訳ですが、それ以前は全て「民部」へ収めていた訳です。「民部」に広範な機能があったこと、このようにその機能の一部が後年「大蔵」へ移管されることなどを考えると、「朱鳥」時点で「大蔵」の方が重要視されていたというのは疑問とするべきでしょう。
 本来「庸」「調」などの徴集の基礎は「戸籍」であり、「人民を如何に把握するか」が焦点であったはずです。その意味からいうと「民部」が先に活躍し「人民」に関するデータベース作りを行なう必要があった訳であり、その後そのデータベースを元にした各国各人からの「税」の徴集が開始されるようになるわけですから、「民部」の重要度は当初の方が高いのは当然であると思われます。その後「税」としての徴収物が増大するとその管理をめぐって官庁間で「綱引き」があったという可能性もあり、「大蔵」が力を付けていったのもそのような流れの中かも知れません。しかし、そう考えると、「朱鳥段階」つまり『大宝令』にかなり先行する時期において「大蔵」がそれほど力を付けていたとは考えにくいこととなります。

 また『大宝令』段階で「戸籍・計帳」に関する人員が配置されているように見えることは、「七世紀代」で既に大量の「庸」等の「税」としての物品が送られてきていたと考えられることが、「藤原京」や「石神遺跡」などから出土している「木簡」の解析などから判明していることと矛盾します。つまりそれらは「戸籍・計帳」が十分に整備されていることが必須の条件だからです。これらのことは『書紀』と『続日本紀』の「税」に関する記事の時系列が本当に正しいのか疑わしいと言わざるを得ないものです。
 これらについても他の記事同様『続日本紀』記事と『書紀』記事とはその年次配列が逆転しているのではないかという疑いが生じるものです。
 この「七〇六年」の「庸」の一部が「大蔵」へ納められることとなったという記事が「婦女子の髪型」に関する記事と同様「五十七年遡上」すると仮定した場合、「六五一年」のこととなりますが、さらに本来は「六十年遡上」ではなかったかと考えると、「六四八年」の出来事となり、「誄」が奏された「朱鳥元年記事」自体は「三十四年(あるいは「三十五年」か)遡上」の対象と考えられますから「六五二年(ないしは「六五一年」)」のこととなって、時系列としては確かに整合することとなります。(正木氏のいう「朱鳥」と「白雉」の入れ替わりか)
 つまり「大蔵」が力を付けてきたことを背景として葬儀の際の「誄」を述べる順に反映したと言えるのではないでしょうか。


(この項の作成日 2012/08/09、最終更新 2015/08/25)