ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『続日本紀』に見える記事移動にについて:

「跪伏之礼」について


 既に見たように男女の「服装」や「髪型」などについての規制の流れの記事の解析から、『文武紀』の記事(以下のもの)は「五十七年遡上」して「六四八年」のものであったこととみられることとなっています。

「令天下婦女。自非神部齋宮宮人及老嫗。皆髻髪。語在前紀。至是重制也。」「(慶雲)二年(七〇五年)十二月乙丑条」

 この記事は『天武紀』の記事(以下のもの)と同一の年次に出されたものと考えられる事となったわけです。

「(天武)十一年(六八二年)夏四月癸亥朔乙酉条」「詔曰。自今以後。男女悉結髮。十二月卅日以前結訖之。唯結髮之日。亦待勅旨。」

 しかも両記事とも本来の年次から移動させられていたことがこれに重なっていると思われ、「慶雲年間」の記事については「五十七年」、『天武紀』については「三十四年」の遡上を考慮すべき事となりました。(ただしこれは「暦」に整合をとるための措置であったと思われ、他の記事全てに適用できる性質のものではないと思われます。実際には『文武紀』付近では基本として「六十年」の遡上をまず検討すべきものと思われます。

 このうち「慶雲年間」の記事と同様のものと考えられるのが「跪伏之令」に関する記事です。
 「慶雲元年」には「跪伏之礼」を「始めて停める」とされる記事があります。この記事とそれに先立つ『書紀』の「朝廷」における「礼制」に関する記述は「矛盾」に満ちています。

「始停百官跪伏之礼。」(慶雲元年(七〇四年)春正月丁亥朔辛亥条)

 ここでは「跪伏之礼」が「始めて停められた」ように書かれていますが、『天武紀』には、「孝徳朝」に「立礼」になったと受け取れる記事が書かれています。

「勅。自今以後跪禮。匍匐禮並止之。更用難波朝廷之立禮。」(天武十一年(六八二年)九月辛卯朔壬辰条)

 この記事からは「難波朝廷」の時に既に「立礼」になったとされているわけであり、それを「復活させる」という趣旨と理解されますが、またそのことはそれ以前に「立礼」から旧(つまり跪禮と匍匐禮)に復していたことを示していると思われるものでもあります。しかし、そのいきさつは『書紀』等に全く書かれておらず不明です。どこかの段階で「詔」などが出され元に戻されたと考えるべきですが、そのようなものは何も書かれていません。それを示す兆候が何もない中では、明らかにこれと「矛盾」する記事であると思われます。

 そもそも「朝廷」における「禮」としては『推古紀』(以下)で「跪伏禮」様のものが定められたとされています。

「改朝禮。因以詔之曰。凡出入宮門。以兩手押地。兩脚跪之。越梱則立行。」(推古十二年(六〇四年)秋九月条)

 この「跪伏禮」と思われるものは古代から倭国にあったものとも思われますが、それが「礼制」として正式に採用されたと見られるのがこの時代であり、それは「跪伏禮」「跪拝禮」あるいは「匍匐礼」というものが中国でも「最高権力者」に対する「礼」であったものであり、この時点で確実に「絶対的権力者」がこの「倭国」に存在していたこと(発生したこと)を示すものです。これがその後「難波朝廷」時点で「立禮」に変更したとされているわけです。それを証するように「前期難波宮」には「玉石」で舗装された場所が皆無です。これは「匍匐」などを行うのに必要な「地面装飾」であったと思われるものであり、「前期難波宮」ではそのような装飾を行う必要がなかったことを推定させるものです。これは「立禮」との関連が考えられるでしょう。そして、それがその後(いつかは不明)また「跪伏之礼」が復活していたという訳であり、それを「天武」の時代になって、再度「立礼」を採用すると言うこととなったというわけです。しかもそれが更にどこかの時点でまたもや「跪伏禮」に戻され、「文武朝」まで続き、そこでまたまた「立禮」となったと言う事になります。

 『書紀』と『続日本紀』の記事を信憑すると、「孝徳朝」以降「天武朝」までに「跪伏礼」が復活していたこととなりますが、この間は「遣唐使」も送られており、「唐」に学んだ諸制度が導入されたと見られる時期ですから、そのような中で「禮制」だけがなぜか「唐制」に拠らず「旧式」に戻ったこととなり、その意味が不明であると言わざるを得ません。(白村江の戦い以降「旧に復した」とするなら、それがまた「唐制」に準拠するようになったのはどういう理由で、何時のことなのかなど不審は消えません。)

 以上のように「推古朝」以来「跪伏禮」→「立禮」(at難波朝)→「跪伏禮」(at天智朝?)→「立禮」(at天武朝)→「跪伏禮」(at持統朝?)→「立禮」(at文武朝)と変遷したこととなります。このような変転が正常なものとはとても思えませんから、そこに何らかの錯誤ないし混乱があると考えるのは当然とも言えます。
 これに関しては『持統紀』に以下の文章があります。

「詔。令公卿百寮。凡有位者。自今以後。於家内著朝服而參上未開門以前。盖昔者到宮門而着朝服乎。」「(六九〇年)四年秋七月丙子朔壬午条」

 ここでは「開門」以前に「朝服」を着るようにとされています。この記事は「立禮」が前提ではないかと考えられます。なぜなら「跪伏禮」を行うと明らかに「朝服」が「汚損」するからです。そのため「跪伏禮」を行った後に「朝服」に着替えていたと言う事が推測され、それがこの「持統」時点で「立禮」になって、「開門の時」から着替えていても問題なくなったことを示すのではないでしょうか。それは「藤原宮」からも「玉石」による舗装遺構が出ていないこととも関連しているようです。そう考えると上の「禮制」の変化とは「食い違う」事となると思われます。(逆にこの時点以降「立禮」になったという可能性さえ考えられます)
 このような著しく「ぎくしゃく」した流れは、「始めて」の用語の示す「矛盾」と背中合わせのものであり、記事配列に問題があることを感じさせます。
 この「慶雲元年記事」については「婦女子の髪型」についての記事と同様「五十七年」移動されているかあるいは「六十年」という遡上年数を措定すべきですが、その場合「六四三年〜六四七年」の出来事であったこととなります。

 また、この『天武紀』記事についてはすでに検討したように「三十四年あるいは三十五年程度」という年次差を以て移動されているという可能性が高く、実際には「六四七〜八年」の記事であったこととなると思われますが、これは『天武紀』からの遡上年次の直後付近になりますから、天皇の指示(勅)が出されて間もなく実行されているということとなりますが、それはある意味当然のことでしょう。
 つまり、上でみた「始めて」「起伏禮」を停めたという「移動」された『文武紀』の記事とは非常に関係の深い記事である可能性が高くなり、このふたつは同一の事象についてのものという可能性が高いと考えられる事となります。

 これらを念頭に入れて記事群を整理すると、まず『推古紀』に「跪伏禮」が導入され、これは「阿毎多利思北孤」の時代の以前のことではなかったかと思われますが、その後「遣隋使」派遣時点以降、「難波朝廷」においてそれが「立禮」に改定され、それがそのまま固定されたと見られることとなります。つまり、『書紀』『続日本紀』に書かれているような「ぎくしゃく」した制度変更はなかったこととなり、疑問とした点は解消することとなるわけです。
 また「飛鳥」地方の宮殿跡と思われる遺跡はほぼ全て「玉石」で舗装されており、「跪伏禮」などが「倭国王権」で採用されなくなった後も「近畿王権」など「諸王」の宮」には遺存していた事を示すものと思われ、「禮制」の発展段階として古いままであったことが推察されます。


(この項の作成日 2013/07/31、最終更新 2015/08/25)