『文武紀』に「律令」に関する記事がいくつかあります。
「(文武)四年(七〇〇年)三月甲子条」「詔諸王臣讀習令文。又撰成律條。」
「同年六月甲午(十七日)条」「勅淨大參刑部親王。直廣壹藤原朝臣不比等。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參下毛野朝臣古麻呂。直廣肆伊岐連博得。直廣肆伊余部連馬養。勤大壹薩弘恪。勤廣參土部宿祢甥。勤大肆坂合部宿祢唐。務大壹白猪史骨。追大壹黄文連備。田邊史百枝。道君首名。狹井宿祢尺麻呂。追大壹鍜造大角。進大壹額田部連林。進大貳田邊史首名。山口伊美伎大麻呂。直廣肆調伊美伎老人等。撰定律令。賜祿各有差。」
「大寳元年(七〇一年)」
「三月甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。始依新令。…」
「二月庚戌。遣右大弁從四位下下毛野朝臣古麻呂等三人。始講新令。親王諸臣百官人等就而習之。」
「六月壬寅朔。己酉。勅。凡其庶務。一依新令。又國宰郡司。貯置大税。必須如法。如有闕怠。隨事科斷。是日。遣使七道。宣告依新令爲政。及給大租之状。并頒付新印樣。」
「八月戊申。遣明法博士於六道。除西海道。講新令。」
「大寳二年(七〇二年)」
「二月戊戌朔。始頒新律於天下。」
「乙亥。詔。令内外文武官讀習新令。」
「冬十月乙未朔…戊申。頒下律令于天下諸國。」
この記事を見ると「文武四年」という段階で既に「令」はできているように見受けられます。「律」については遅れており「撰定」を継続しているという訳です。そう考えると「令」の完成はさらにこれを遡る時期が推定される事となり、「六九七年」という「即位時点」付近まで遡上する可能性があると思われます。
ところで、これらの記事は今まで「当然」のように『大宝律令』に関するものであると思われてきましたが、そうとは即断できないと考えられます。
それに関連して『天武紀』には「律令制定」に関連する記事があります。
「(天武)十年(六八一年)二月庚子朔甲子条」「天皇。皇后共居于大極殿。以喚親王。諸王及諸臣。詔之曰。朕今更欲定律令。改法式。故倶修是事。然頓就是務。公事有闕。分人應行。…。」
「(六八二年)十一年八月壬戌朔丙寅条」「造法令殿内有大虹。」
この『天武紀』の「律令制定」へのメッセージは通常「飛鳥浄御原律令」についてのものと、これまた「即断」されており、それに続く翌年に「造法令殿」という「律令選定」の専門機関らしいものが設置されていて、ここで「撰定事業」が進行していたらしいことが窺えます。しかもここでは「大虹」がかかったと記され、それは「律令完成」を示唆するものと思われています。
このように『天武紀』に「律令選定」の記事があるわけですが、これが本当に「飛鳥浄御原律令」の撰定に関わるものだったのでしょうか。それには疑問があります。
「飛鳥浄御原律令」については、現在の段階で全くその片鱗も残っておらず、実態がつかめません。それについては、「存在しなかった」という説もあるほどです。「飛鳥浄御原律令」という用語そのものも実際には『書紀』など一連の「正史」というわれる史書類に見られないのです。
「(六九七年)元年閏十二月庚申条」「禁正月往來行拜賀之礼。如有違犯者。依淨御原朝庭制。决罸之。但聽拜祖父兄及氏上者。」
「(七〇一年)大寳元年八月癸夘条」「遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。」
上の例では「淨御原朝庭制」であるとか「淨御原朝庭」とだけ言われています。
更に「弘仁格式」にその名が見えないということも言われています。確かに「弘仁格式」の「序」を見ると「国法」の変遷を見ると「十七条憲法」に始まり、「近江令」の次に『大宝律令』「養老律令」となっています。
「弘仁格式序」
「…■乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇條、国家制法自■始焉。降至天智天皇元年、制令廿二巻。世人所謂近江朝廷之令也。爰逮文武天皇大寶元年、贈太政大臣藤原朝臣不比等奉勅撰律六巻、令十一巻。養老二年、復同臣不比等奉勅更撰律令各為十巻。今行於世律令是也。…」
これで見る限り「後年」の学者達からは全く無視されているか、存在していなかったかではないかとも思われますが、また「近江令」の巻数が『持統紀』に書かれた「令」の巻数と同じ「二十二巻」であることから、この「近江令」というものが「浄御原朝廷之制」という「令」なのではないかという疑いもあるわけです。
(以下持統紀の「令」頒布の記事)
「(持統)三年(六八九年)六月壬午朔庚戌条」「班賜諸司令一部廿二卷。」
確かにここでも「令」とあってそれは「近江令」と同じと思われますが、もし「飛鳥浄御原(律)令」が存在していなかったとすると、『天武紀』の記事は「潤色」と言うことになります。
そもそもこの『天武紀』の記事自体が「正木氏」の言う「三十四年遡上」の対象である可能性が強いと考えられ、そう考えると上に見た『文武紀』の『大宝律令』と思しき記事はこの『天武紀』の「律令制定」記事と関係していると考えると「合理的」なのではないでしょうか。
つまり「律令」は「七世紀半ば」という段階で一旦完成していたと言うこととなりますが、それは「律令」の元に構築された官職や省名が「呉音」で発音されていることからも言えることであると思われます。
「呉音」は後に述べるように「唐」からは目の敵にされていました。もし「八世紀以降」に「唐」との関係ができた以降に完成したものなら、必ず「省名」などは「漢音」で発音されることとなったと思われます。しかも「七世紀末」以降「王権」内部には「唐人」(「続守言」と「薩弘格」)がいたものであり、彼等は「音博士」として「発音指導」などの職掌に当たっていたはずです。彼等が存在していたのなら、なお「発音」は「漢音」でなければならないはずです。
『書紀』が「漢音」で書かれているのは周知のことですが、それに重要な役割をしたのが彼等唐人であると推察されています。(「森博達氏」の研究)彼等の「漢音」に対する知識と経験が『書紀』に反映されているのなら、同様に「律令」とそれによって成立した「制度」や「省名」などに反映していないのは「矛盾」と言えるでしょう。
このことは「律令」とそれに基づく「組織」や「制度」が、彼等唐人が関与する以前に既に成立していたということを示唆するものです。
既に述べたように彼等唐人は「高表仁」に随行した「判官」ではなかったかと考えられます。彼らはその職掌として「唐」の「法律」(律令)に基づいて「大使」などの言動が「唐」の利益に合致しているか判断する役目であったわけであり、当然のように「唐」の「律令」に精通していました。
その彼らが「律令」の撰定に関与していたとすると、「律令」の中身として参考にされたのは「貞観律令」か(六三七年施行)あるいはそれ以前の「武徳律令」(六二四年施行)のいずれかであったと思われることとなります。
これについては、現存している『大宝令』に関する「古記」などの記載から、その中身として一般には「唐」の『永徽律令』などの影響が考えられていますが、『「釈奠」と「飛鳥浄御原律令」』で考察したように、実際には「貞観律令」が重要な意味を持っていたものであり、さらにそれは「武徳律令」をベースにしたことが知られ、またその「武徳律令」は「隋」の「開皇律令」を下敷きにしていたことが明らかとなっています。
「続守言」達の来倭が「六四一年」のことであったとすると彼らが熟知していた律令とは「貞観律令」のことであったこととなるでしょう。彼らはその「律令」に関する知識を「倭国」においても生かし、律令の撰定を行ったものと推察され、それは「釈奠」についての考察と重なるものと言えるのではないでしょうか。
つまり『大宝律令』の成立は「貞観律令」成立後であるとともに、「高表仁」の来倭の直後の時代である「六四〇年代後半付近」が最も蓋然性が高いものと推量され、時間帯としては限定されることとなるでしょう。
ところで「本朝書籍目録」を見ると、そこには「飛鳥浄御原律令」が存在していません。その代わり「近江令」があったかのように書かれています。
(本朝書籍目録)
「…律養老二年十卷(贈太政大臣不比等奉勅作今世行是)、律附釈十巻、同集解三十巻(直本撰)、律疏三十巻、律大寶元年六卷(不比等集諸伝士撰謂之古律)、令養老二年十卷(不比等今世行是或右大臣夏野公撰)、令釈七巻、令義解十巻(右大臣夏野奉進)、令天智天皇元年二十巻(二十二)(仰近江國令是也)、令大寶元年十一卷(不比等集諸伝士撰謂之古令)、令集解三十巻(直本撰)、…」
しかし、この「目録」の「原典」と思われる「本朝法家書籍目録」では「養老律令」についてはその個々の「巻」についても詳細な説明があるのに対して、「近江令」と『大宝律令』の記載ではそれが欠けています。この事は「近江令」と同様『大宝律令』さえもその時点で既に存在していなかったと言うことが窺われるものですが、『大宝律令』に関して言うと、「律令」そのものは「当初」は存在していたとは考えられるものの、その「律令名」に「大宝」が付されていたのかと言う事は疑わしいといえるでしょう。つまり上の流れに沿って考えると、実際に存在していたのは「浄御原律令」であり『大宝律令』ではなかったという可能性があると思われるのです。
(この項の作成日 2012/08/03、最終更新 2015/08/15)