ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『続日本紀』に見える記事移動にについて:

「婦女子」の「髪型」についての決まりの変遷


 男女の「服装」や「髪型」などについての規制の流れを見てみると、「六八二年」に「男女共に髪を結い上げるように」という「詔」が出されています。

「(天武)十一年(六八二年)夏四月癸亥朔乙酉(二十二日)条」「詔曰。自今以後。男女悉結髮。十二月卅日以前結訖之。唯結髮之日。亦待勅旨。」

 その後今度は「女三十歳以上」については「任意」とするという「詔」が出されました。

「(天武)十三年(六八四年)閏四月壬午朔条」「…又詔曰。男女並衣服者。有襴無襴。及結紐。長紐。任意服之。其會集之日。著襴衣而著長紐。唯男子者有圭冠。冠而著括緒褌。女年卅以上。髮之結不結。及乘馬縱横。並任意也。別巫祝之類不在結髮之例。」

 さらに「六八六年」になると婦女については、以前出した髪型への規制が撤廃されたように見えます。

「朱鳥元年(六八六年)秋七月己亥朔庚子条」「勅。更男夫著脛裳。婦女垂髮于背猶如故。」

 ところが「七〇五年」になると再度「髪」を結い上げるように指示が出されています。

「(慶雲)二年(七〇五年)十二月乙丑(十九日)条」「令天下婦女。自非神部齋宮宮人及老嫗。皆髻髪。語在前紀。至是重制也。」
 
 ここでいう「髻」(もとどり)とは「髪」を頭上に束ねることをいい、それ以前に出されている「垂髮于背」という背中に垂らす髪型とは明らかに異なります。これを踏まえると、上の流れには二つの点で「疑問」が感じられることとなります。ひとつは最後の「慶雲二年」の記事であり、ここに「重制」とあり「前紀にある」とされていることです。つまり、この年次の「令」は新しく決めたことではなく、「前紀」にあることを「重ねて」決めたことであるという訳です。この「前紀にある」というのは上に見る「天武十一年」の詔を指すと見られますが、注目すべきはここで「重制」とされていることです。
 「隋」の「高祖」の功績の点でもふれたように「重興」という用語は「一度廃れたものを再度興すこと」でした。それに従えば「重制」とは一度改廃された「法」などを再度制定することと受け取ることができそうですが(「岩波」の『大系』の「補注」(※)でも同様の趣旨の説明がされています)ただし、この「重制」という用語は中国の各史書にも例が見られますが、「重ねて出す」という意と「重罰」を課する意味と二つあるようです。

「七コ舞」(白居易)(「新樂府」より)
「武コ中,天子始作《秦王破陣樂》以歌太宗之功業。貞觀初,太宗『重制』《破陣樂舞圖》,詔魏征、虞世南等為之歌詞,因名《七コ舞》。自龍朔已后,詔郊廟享宴,皆先奏之。」

 ここでは「天子」つまり「唐」の高祖(李淵)が「秦王破陣樂」つまり後の「太宗」である「李世民」を賞する楽を造ったが、当の本人の「李世民」が皇帝に即位すると「重制」し、その「楽」に「舞」を付加したという趣旨のようです。この場合は「一度廃された」というわけではありません。
 
(以下「宋書」の例)
「宋書/列傳 卷七十五 列傳第三十五/顏竣」
「先是元嘉中,鑄四銖錢,輪郭形制,與五銖同,用費損,無利,故百姓不盜鑄。及世祖即位,又鑄孝建四銖。三年,尚書右丞徐爰議曰:「貴貨利民,載自五政,開鑄流圜,法成九府,民富國實,教立化光。及時移俗易,則通變適用,是以周、漢俶遷,隨世輕重。降及後代,財豐用足,因循前貫,無復改創。年?既遠,喪亂?經,堙焚剪毀,日月銷減,貨薄民貧,公私?困,不有革造,將至大乏。謂應式遵古典,收銅繕鑄,納贖刊刑,著在往策,今宜以銅贖刑,隨罰為品。」詔可。所鑄錢形式薄小,輪郭不成就。於是民間盜鑄者雲起,雜以鉛錫,並不牢固。又剪鑿古錢,以取其銅,錢轉薄小,稍違官式。雖『重制』嚴刑,民吏官長坐死免者相係,而盜鑄彌甚,百物踊貴,民人患苦之。乃立品格,薄小無輪郭者,悉加禁斷。

 上の例では「既に厳刑」(重い刑)が定められているのに加えさらにもっと『重い刑』を課することとしたけれども…という文意となります。これも前例同様に一旦刑が赦された後に再度刑が下されたというわけではありません。

 また「日本側」の記録にも「重制」が現れています。
(以下「日本三代實録卷第七」からの例)
「(貞観)五年…三月癸亥朔…十五日丁丑。…是日。禁諸國牧宰私養鷹鷂。先是。貞觀元年八月。頒下詔命。不貢御鷹。亦制國司養鷹逐鳥。或聞。多養鷹鷂。尚好殺生。故以獵徒縱横部内。故重制焉。」

 ここでは明確に「貞観元年八月」に出した「禁諸國牧宰私養鷹鷂」という「詔」と同内容のものを「貞観五年」に重ねて出しています。それはその後出された「詔」が徹底されていない状況があったため、改めて同じ内容の詔を出したと言うことのようです。

 これらの例から考えると、「重制」とは、「一度出した詔や令」などと同内容のものやそれに上乗せするような内容のものをで改めて出すという意義が確認できるでしょう。その点で「重興」とは意義が異なるといえるわけですが、そう考えると、『天武紀』の記事と『文武紀』の記事とは互いに「矛盾」している事となることとなります。この考えに従えば、「重制」とは最初の「詔」が出されてそれが変更される以前に出されなければならないこととなります。しかし、実際にはその間に一度「撤廃」されています。
 上に見るように『天武紀』に出されたこの「詔」はその後緩和された後に撤廃されるという経過をたどっています。その経過から見ると「重制」という用語が適切であるかは疑わしいといえますし、もしそうでなくてもこれを「慶雲二年」に至って再度制定する意図が不明といえるでしょう。

 もう一つの不審が「婦女子」についての「髪を結い上げる日」の指定です。『天武紀』の記事では「男女」について「髪を結い上げる日を別に指定する」としています。確かに「男子」についてはその直後に以下の記事があります。

「(天武)十一年(六八二年)六月壬戌朔丁卯(六日)条」「男夫始結髮。仍著漆紗冠。」

 しかし「婦女子」についての記事が見あたりません。これについては「岩波」の「注」でも「女子の場合は未詳」とされ、不審とされているものの、それ以上は詮索されていません。いつ結い上げることとなったのかが不明な訳ですが、「慶雲二年記事」では、逆に「男子」についての記事がなく「婦女子」しか見あたりません。しかもその記事では「日付」が指定されています。これはあたかも『天武紀』記事と直結しているかのようです。
 「天武十一年記事」では「髪を結い上げる日」を「十二月卅(三十)日以前」としています。それに対し「慶雲二年」の記事で「重制」された日付は「十二月十九日」であり、これは確かに指定した期限である「十二月三十日」の至近の日付です。
 「女子」の髪型の場合「男子」と違いそもそもバリエーションが多かったと見られ、それを少ないパターンに変化させるとするわけですから、反対するものや不満があったものと思われ、期限ぎりぎりまで日付が指定できなかったということが推定されます。その意味でもこのような「十二月十九日」という日付は首肯できるものであり、この日付指定に紆余曲折があったらしいことが強く推定させられます。つまり、この『天武紀』記事と『文武紀』記事の双方は「相補的」であり、あたかも元々「一連の記事」であったものを二つに分けたのではないかと疑わせるものです。
 ただしそう考えた場合、なぜ「分けられたのか」、なぜ「女子」の「髪を結い上げる日」の指定した記事だけが別の年次に移動させられたのが疑問となるところです。なぜ同じ年次の記事が別々の年次に移動させられることとなったのでしょうか。

 考えられる事としては、いくつかありますが、ひとつには元々の『日本紀』は「六八二年」の途中までしか記事がなかったというケースがあるでしょう。
 すでに考察したように『日本書紀』が成立したのはかなり後代であり、原初的には『日本書紀』以前に『日本紀』という史書が成立していたという可能性が考えられます。それがどの年次までのものであったのかが問題であるわけですが、この『天武紀』の途中までが『日本紀』として一旦成立していたということもありうると思えるわけです。それは『文武紀』の記事中に「語在前紀」という言い方がされていることに表れています。
 ここにいう「前紀」とは『日本紀』を指すものと考えるべきですから、元々の『日本紀』の範囲がこの年次の途中までであったということがうかがえるものです。さらに『日本紀』が『日本書紀』とは異なるとすれば『続日本紀』も本来のものとは異なるものが成立していた可能性があることとなり、その元々の『続日本紀』の冒頭は『天武紀』の最終年と同じであったということとなりそうであり、そこで「婦女子」の髪型に関する事が「重制」されたということが考えられるでしょう。

 ところで、最初に「詔」が出されたとされているのは「天武十一年」つまり「六八二年」とされるわけですが、この年は『文武紀』の「慶雲二年」(七〇五年)と同じく「十二月」は「閏月」ではありませんし、「乙丑」という干支を持った日付も十二月に存在します。しかし「乙丑」は「十九日」ではありません。
 ここでは日付は「干支」で表されているわけですが、元々の日付は「干支」とともに「数字日付」としても記録され、また記憶されていたという可能性があると思われます。
 すでに見たように「伊吉博徳書」の記載や「文武」の即位日付の『書紀』と『続日本紀』での「干支」の違いなどから考えて、この当時「数字日付」での記録が通常であったと見られ、その意味で布告などについても「数字日付」が書かれていたと思われるものであり、そのためこの「数字日付」の記録を無視できなかったということが可能性として考えられます。
 当初の詔でも「十二月卅日」というように「数字日付」で期限が切られていたわけですから、その後の「詔」や記録なども「数字日付」も併せて書かれていたとすると「天武十一年」はその条件に適合しないこととなります。なぜならこの年の「十二月乙丑」は「十九日」ではないからです。つまり、このことはこの『天武紀』の詔も元々の年次から移動されているという可能性を示唆するものです。

 このような「記事」の改定や潤色あるいは「偽入」などを行なう場合、どこに入れるかどこに移動するかというのはかなり悩ましい問題です。それは「日付」や「干支」などに矛盾を来さないようにしなければならないからであり、できればそのような事をしなくても良い日付(年月)を選ぶものと思われます。つまり「日付干支」その他を書き換える必要がない年次があればそれがベストであると思われます。その場合は「潤色」などの「テクニック」を弄する必要がありません。そのことから考えて、ここ(慶雲二年)に書かれた「日付干支等」はオリジナルの日付干支と同じであったという可能性が考えられます。
 つまり本来の日付も「十二月乙丑」であって(しかも閏月ではなく)、「十九日」であったという可能性が浮かびます。

 ところで、この「慶雲二年」という段階で『続日本紀』に使用されていた「暦」は「儀鳳暦」でした。しかし、七世紀代には「儀鳳暦」が使用されていたという形跡はありません。別途述べますが、この当時(七世紀半ば)以降は「戊寅暦」が使用されていたと考えられます。この暦によって「十二月乙丑」が「十九日」になる年次を検索してみると、「六四八年」が該当します。(というより、このような条件を満たす年次は実は「七世紀」にはこの「六四八年」の「一年」しかありません)
 この年は「十二月」には閏月がなく、また確かに「十二月乙丑」は「十九日」となります。さらにこの「詔」が出されたとされる「六八二年」の「夏四月癸亥朔乙酉」についていうと、この年が「六四八年」のことであったとすると、四月には「乙酉」という日付は存在しません。しかし、「五月」であれば「乙酉」という日付は存在しそれは「五日」です。つまり「五月五日」の「薬猟り」の日付となるのです。
 この日には「菖蒲」を「縵」にするという事が決められていたらしいことが「元正」の詔から窺えますが、そのことと「髪」を「結い上げる」と言う「詔」とは関連があるのではないかと考えられます。それは同じ文脈で「乗馬」に関する作法に言及していることからも窺えます。
 この「薬猟り」では「鹿狩り」をしたらしいことが推定されていますから、「馬」が使用されたであろうと考えられます。その際の乗馬作法についてもこの時点で男女の別をなくすという改定が行なわれたものと見られるわけであり、そう考えると「五月五日」に出された「詔」であるとするのは自然ではないかと考えられます。
 既にこの時代高貴な人達は男女とも髪を結い上げていたものであり、それは「冠」をかぶる都合からのことと考えられますが、これを「一般人」にも適用しようとしたのではないでしょうか。つまり「菖蒲」を「縵」にする前提として「髪を結い上げる」という必要性が生じたものと見られるのです。その「詔」が出された「五日」を後代に「乙酉」という日付干支として変換して記録したため、今度はそれを生かすために前月の四月に記事を移動したものと思われるわけです。

 元々の記録が「六四八年」であり、これが「七〇五年」のこととして書かれているとすると、移動年数は「五十七年」となります。このことは他にも同じ程度の年数移動されている記事があるのではないかという疑いにつながります。


(※)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注「新日本古典文学大系『続日本紀』」岩波書店


(この項の作成日 2013/07/31、最終更新 2015/09/05)