『書紀』の「六七六年」の年次のこととして「放生」が初めて出てきます。
(天武)五年(六七六年)八月丙申朔…壬子。詔曰。死刑。沒官。三流。並除一等。徒罪以下已發覺。未發覺。悉赦之。唯既配流不在赦例。是日。詔諸國以放生。」
このその記事の直後が「金光明経」の講説記事であることはこの二つに関係が深いことを推察させます。さらにその後「猟」をする際の「わな」などについて禁止令が出されると共に「禁漁期間」を設定するなど「資源保護」的なルールが定められます。さらに「指定された動物」について「食するべからず」という禁止令までが出されます。
「庚寅。詔諸國曰。自今以後制諸漁獵者。莫造檻穽及施機槍等之類。亦四月朔以後九月卅日以前。莫置比滿沙伎理梁。且莫食牛馬犬猿鶏之完。以外不在禁例。若有犯者罪之。
これらのことは「資源保護」もさることながら、仏教の本質である「不殺生」に基づいているといえるものです。
「放生」という行動や思想は仏教の神髄ともいうべきものであり、そう考えると、この「放生」を行った人物は仏教に深く帰依していたと考えられますが、他方同じ人物が同時に「生贄」を伴った儀式を行ったとされます。
「(天武)五年(六七六年)八月丙申朔…辛亥。詔曰。四方爲大解除。用物則國別國造輸秡柱。馬一匹。布一常。以外郡司各刀一口。鹿皮一張。钁一口。刀子一口。鎌一口。矢一具。稻一束。且毎戸麻一條。」
ここでは「用物則國別國造輸秡柱。馬一匹。布一常。」とされており、ここではただ「祓柱」としてありますが、この後の「天武十年記事」では「祓柱奴婢一口」とされていますから、ここでも「人(奴婢)」及び「馬」が「生贄」として捧げられたことを示します。
(すでに述べたようにこの祓柱としての「奴婢」と「馬」については生贄ではなく「神社」などに奉仕する「神奴」と「神馬」とされたという解釈もあるようですが、それであれば「解除」つまり「汚れ」を祓う儀式そのものが成立しないという可能性もあるでしょう。このような場合必ず「犠牲」が求められるものであり、それが「生身」でなくなって以降「人形」あるいは「銀人」などの「人」のイミテーションが発生したものであり、馬についても「土製馬」などの「生身」ではない「形代」が発生したものと思われますから、ここで「生身」の人と馬を要求している背景として彼等が実際に「神に捧げられる」ような儀式があったことを示すものであり、その意味でかなり前時代的であり、非仏教的であると思われます。それを示すように「土製馬」そのものの発生は(地域差はあるものの)六世紀代に遡るものとされており、この「天武」の時代には全国的に普遍的にも見られるものとなっていました。そうであれば「生身」の「祓柱」を要求しているこの記事はかなり遡上するという可能性が考えられるでしょう。)
このように同じ「年次」と「月」に書かれた人物は本来同一人物であるはずですが、明らかに「放生」を行う人物像と「生贄」を伴う儀式とは両立しないと考えられます。その意味では「放生記事」の方が後出して当然といえ、「不殺生」を体現する「放生」を行なった人物は「七世紀初め」の「阿毎多利思北孤」こそふさわしい人物といえるでしょう。
その「放生」という考え方は以下のような「薬師(瑠璃光佛)信仰」と共に「倭国」に浸透したと考えられます。
「佛説灌頂七萬二千神王護比丘呪經 (帛戸梨蜜多羅譯 )」
「爾時衆中有一菩薩名曰救脱。從座而起整衣服。叉手合掌而白佛言。我等今日聞佛世尊。演説過東方十恒河沙世界。有佛號瑠璃光。一切衆會靡不歡喜。救脱菩薩又白佛言。若族姓男女其有?羸。著床痛惱無救護者。我今當勸請衆僧。七日七夜齋戒一心。受持八禁六時行道。四十九遍讀是經典。勸然七層之燈。亦勸懸五色續命神幡。阿難問救脱菩薩言。續命幡燈法則云何。救脱菩薩語阿難言。神幡五色四十九尺。燈亦復爾。七層之燈一層七燈。燈如車輪。若遭厄難閉在牢獄枷鎖著身。亦應造立五色神幡然四十九燈。應放雜類衆生至四十九。可得過度危厄之難。不爲諸横惡鬼所持」
「同上」
「救脱菩薩語阿難言。閻羅王者主領世間名籍之記。若人爲惡作諸非法。無孝順心造作五逆。破滅三寶無君臣法。又有衆生不持五戒不信正法。設有受者多所毀犯。於是地下鬼神及伺候者奏上五官。五官料簡除死定生。或注録精神未判是非。若已定者奏上閻羅。閻羅監察隨罪輕重*考而治之世間痿黄之病困篤不死一絶一生由其罪福未得料簡。録其精神在彼王所。或七日二三七日乃至七七日名*籍定者。放其精神還其身中。如從夢中見其善惡。其人若明了者信驗罪福。是故我今勸諸四輩。造續命神旛然四十九燈放諸生命。以此旛燈放生功徳。拔彼精神令得度苦。今世後世不遭厄難。」
これら「薬師関連」の信仰と共に「放生」という「不殺生」の極致というべきものも受容されたと考えられ、それは「施薬院」を造り「医療」に心を注いだという「聖徳太子」伝承につながるものであり、また「阿毎多利思北孤」に重なるものであるといえるでしょう。しかし、『書紀』では『天武紀』(「天武五年」(六七六年))になって始めて「放生」が記事として現れるのですから、これも大きな「矛盾」といえるものであり、これは本来『推古紀』に遡るべき記事であることが強く推測できるものです。
(この項の作成日 2013/02/14、最終更新 2015/05/09)